第45話 赤の色
思考がうまく回らない。
徐々に冷たくなってくる彼女の体、
体に深く刺さった剣、
そして頭の中で響きわたる誰かの笑い声。
このまま死んでしまうのか。
冷たい、
暗い、
痛い、
怒り、
怒り、
怒り、
なぜ、自分がこんな目に合わなくてはいけないのだろう。
なぜ、彼女は死ななくてはならなかったのだろう。
なぜ、大切なものを奪われて自分は何もせずに座っているのだろう。
無力だ、あまりにも無力だった。自分は努力をした、奪われないための努力を。
だが、届かなかった。一歩どころじゃない、数百歩足りなかった。
『死ぬのか、お前』
あぁ、死ぬ。無力に、無様に。
『そのまま、無様に、無力に死ぬのか?』
大切な人は、助けたかった人はもういない。これ以上、生きていても意味はない、このまま死なせてくれ。
『そうか、お前は諦めるんだな』
諦める? そうだ、俺はもうこれ以上戦えない。もう腕に力すら入らない。
『諦めるのだったら、その体。俺にくれよ』
……あぁ、死神だろうが悪魔だろうが誰でもいい。
こんな体、くれてやる。
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その怪物が食に固執し始めたのは、初めて意思というものを手に入れた四十年前の出来事だった。炎の中で目覚めたその意思は、片手に握る人間の肉とその口の中に残る甘美な味わいで虜にさせた。
意思が目覚める前、脅威でしかなかった人間が一瞬で自分を強くするための餌と化した。
人間を一人喰うごとに、体が。
二人喰うごとに、魔力が。
三人喰うごとに、頭が。
人間の肉を喰らうごとに強くなるにつれ、意思を持たない魔物をある程度操ることができるようになった。もっと強くなれる、もっといろんな肉を口にしたい。そんな意思で頭がいっぱいになる頃には、潰した村の数は十を越え始めていた。
誰も自分には敵わない。
そう思っていた。しかし、かつて自分の意思を目覚めさせたこの地において、自分自身を滅ぼすかもしれない存在を初めて見つけた。
「クソ人間が……」
今となっては折り重なる二つの死体となっているそれを、忌まわしいものでもみるかのように睨みつける。体の損傷が瞬時に回復するとはいえ、体の中にある核を一つ破壊された損傷はあまりにも重大だった。
一秒でも早く、補給を。
肉を喰らわねば。
待ちに待ったメインディッシュ、口からあふれ出るよだれを止めることができない。怪物が、リーフェの体に手をかけようとしたその時だった。
「グ…ッ!?」
突如、伸ばした怪物の腕を万力の握力でつかみかかる手。突然のことに、怪物は腕から走る激痛に思考が回らない。だが、そのはっきりとした敵意に本能がいち早く抵抗をしろと呼び掛けている。
掴みかかってきた腕に対し何度も拳を叩きつけるが、傷つき血を出すもののびくともしない。むしろ殴りかかるたびに、より一層強い力で怪物の腕を握りつぶそうとしてくる。
「おのれクソがっ」
手を外すことはできないと判断し、すかさず自分の右肩から下を切断し一気に舞い上がって距離をとる怪物。同時に、右肩から下の回復が始めるが、核を一つ失っている分、回復の速度が遅い。
回復の遅いの腕を睨みつけ、その視線をそのまま目の前で折り重なっている死体へと向ける。そこには、怪物が残していった腕を握りつぶし目一杯顔に血を浴びて佇んでいる翔の姿がそこにあった。
だが、ゆらりと立ち上がった翔の目の焦点は虚空を見据えており、その姿は生きて動いているのか、死にかけて動いているかわからない。
『……っ』
何かを小声でつぶやく翔、そして怪物の腕を地面に打ち捨て、己の腹に深々と刺さったパレットソードに手をかける。
その瞬間、翔を中心に冬のひりついた冷たい空気をすさまじい熱波で塗り替えてゆき、立ち昇った炎の渦が夜を赤く染め上げるほどの勢いで天高く昇る。
周囲の火災もそれに呼応するかのように、炎が猛々しく燃え盛る。明らかに変わった翔の雰囲気に、怪物は一瞬でも早く目の前の人間を殺さねばならないと動き出す。
炎の波を掻い潜り、一気に距離を詰めた怪物。黑い羽が炎で濡れ、その爪が翔に届くかと思った刹那。その爪が貫いたのは、翔の心臓ではなく陽炎のように揺らめいた炎の姿だった。
同時に、突きのばした腕の先が炎に巻かれてその羽をより一層黑く焦がしてゆく。
「ギ……ッ!?」
炎で焼ける痛みに怪物は顔を歪め、緑の魔術で右腕に燃え移った炎を取り払おうとする。しかし、右腕が魔力を纏えば纏うほど、その炎の勢いは増してゆき全身にまで炎がいきわたるほどに煌々と燃え盛る。
再び、自分の腕に手をかける怪物。その炎は自らの体から切り離れても勢いよくもえさかり、それは骨すら残さず灰となって風に乗って消えてしまった。
「クソ冒険者がぁっ! 毎度毎度食事の邪魔をしやがってっ! 貴様なぞ血肉すら残さずに細切れにしてやるわッ!」
怪物が回復したその両腕を勢いよく振るう。緑色の魔力を纏った空気が、無数の刃となって怪物を中心にドーム状に無数の風の刃を連鎖させながら周囲の建物を瓦礫に変えて勢いよく。確実に回避するのは不可能な範囲攻撃、並みの人間ならば一瞬で切り刻まれて死ぬであろうその攻撃を、ギルドを背後にした翔はその虚ろな両目で見据える。
風の刃が当たるその刹那、翔を中心に激しい爆発音と、その衝撃波が周囲をなぎ倒してゆく。それは、翔の背後にあったギルドも軽く吹き飛ばし、その瓦礫が空に高く舞って炎へと巻かれてゆく。
確実に相手を殺したと思った怪物だったが、それでも相手からひしひしと伝わる人間のそれとは違う気色の悪い殺意に自ずと身構えていた。
そして、炎の渦の中から現れた翔。その姿は、先ほどまでの弱かった人間とは似ても似つかない獰猛な姿をしていた。
黑かった髪色は、炎のように赤く揺らめいており、獣のようなその瞳は爛々と輝きながら赤い視線を怪物に向けている。そして、全身の傷口から噴き出している炎は翔の肌を痛々しく焼きながらあふれ出る熱でその姿を死人のように揺らめかせている
そして右腕に握る血と炎で色づけたかのように真っ赤に濡れたその剣は両刃のパレットソードとは違い、細長く緩やかな曲線を描き、恐ろしくも美しい片刃の日本刀へとその姿を変えている。
「……」
無言で怪物を見つめる翔、その瞳には何も映っていないかのように見えるひどく落ち窪んだどす黒い何か。しかし、その瞳の奥には、確かに怒りの炎が赤く染まっている。そして、その怒りは確かに怪物へとむけられていた。
一歩踏み出す。その一歩で土は枯れ、空気は錆び付き、炎が翔の足から湧き出る。
次の瞬間、怪物のその野性的な視覚でも認知することのできない速度で、翔が一気に間合いを詰める。振り上げた刀はその切っ先に炎を纏わせ、振り下ろされるのは怪物の油断しきったその首へと振るいかかる。
一瞬出来事に体を動かし、振り下ろされた刃を片腕で受け止める怪物。その腕と刀が接触するかと思われた刹那、刀の刃から舞い飛んだ炎の粉が怪物を包み込み連鎖爆発を引き起こす。目の前の視界が炎で真っ赤に染まるのと同時に、爆発の衝撃と炎を纏った斬撃が怪物の体に襲い掛かる。
防げば確実に死ぬ。
片腕を犠牲に体を急旋回させ、体深くに斬撃が入らないよう身を引かせる怪物。しかし、その逃げを許さないかのように翔の振るう斬撃は熱の空気の揺れた歪みとともに怪物に襲い掛かる。
怪物と翔の追走。羽があり飛翔ができる怪物のほうが圧倒的有利なこの状況に、翔の身体能力は人間のそれと身体強化術を遥かに上回った動きで怪物を炎の中に引きずり落そうとする。
翔が刀を一度振るうごとに地面が抉れ、空が炎で割れ、家々が瓦礫と化してゆく。
「小賢しいっ! この死にぞこないがっ!」
先ほどから翔に向けて何度も魔術を放ち、常人では体を動かすことのできない重傷を負っているにもかかわらず、怪物を追い続けるその姿は人間としての理性を失っており、まるで獲物を体力が続く限り追い詰める獣の姿に似ていた。
風の魔術が当たる刹那。はじけ飛んだ地面と翔の体。しかし、その衝撃を利用し、空高く舞った翔が、空中で身構えている怪物に向け刀を大きく振りかざし、脳天にめがけて刃を振るおうとする。その姿に翔の剣を握ったときの技の冴えはどこにもなく、ただ怒りに身を任せた獣の姿であった。
しかし、大ぶりの一撃はその一瞬の破壊力は凄まじいが同時に隙の多い一撃でもある。刀が振るわれるその一瞬で怪物は左腕で翔の頭を鷲掴みにし、その片手に収まる頭を握り潰そうと力を入れる。
「落ちろっ!」
急降下、翔の頭を鷲掴みにしたまま怪物はその真下にある家屋に向けて翔を地面に叩きつける。吹き飛ぶ屋根と家屋の壁とその衝撃が地面を揺らし、確実に相手を叩き潰し、二度とその獣じみた視線を向けられないように何度も翔の頭を地面に叩きつける。何回目か、何十回目か。怪物の力技で相手の頭が完全に潰れているだろうという回数を、さらにそれを超えた回数を翔に叩きつけて怪物は息を荒くさせながら、翔の体を持ち上げる。
翔の体の傷口から吹き出ていた炎はその勢いを弱め、彼の命の灯が消えるかの如くやがて収束すると、再び傷口から流れ出た赤い血液と共に翔は何も言わないただの肉塊へと姿を変える。
「ようやく死んだか……っ」
気色悪いものを捨てるかのように、翔を家屋の壁に勢いよく叩きつけそこから崩れた瓦礫に翔の体が埋まる。確実に息の根を止めたと確認した怪物は、重い体をひきづりながら、先ほどのエルフの死体へと戻ろうと足を進める。
見れば、切られた右腕が回復していない。切断面が焦げ付いて組織の回復を阻害しているのかわからないが、それもあの肉にありつけば問題ないだろう。とにかく、一刻でも早く肉を摂取しなくては。と足を動かした、そのときだった。
その背後から、心臓を握りしめられたかのような重い殺気が流れ出る。
咄嗟に振り替える怪物、その殺気があふれ出ているのは確実に殺したものが埋もれている瓦礫の中。怪物の見つめる視線の先、瓦礫の一部が崩れ、その隙間から炎がこぼれ出る。それは、心臓のように鼓動をして炎の勢いが何度も強まり、消えかけていた炎が再び息を吹き返すように見えた。
そして、瓦礫の下。その下で、こんどこそ怪物はその聞き取れなかった言葉を耳にする。
『炎下統一』
その言葉が耳に聞こえた瞬間、激しい爆炎と炎が周囲一帯を吹き飛ばし、建物や家具のその一切を消し飛ばし、その爆発のほぼ中心部にいた怪物はその肌を炎で焦がしながら火だるまになって宙を飛び、再びギルドのあった場所へとゴミのように落ちてゆく。
逃げるという選択肢は完全に封じられている。今まで自分に敵うものなどいないと思っていた。しかし、今目の前で刀を鞘に納めてギラギラと光る両目でこちらを睨みつけている男は、自分を遥かに超える化け物だと。
いや、化け物になったのだと。
あの弱かった、一捻りで殺せるはずだった人間が一人のエルフを殺された、ただその怒りだけで自分を遥かに凌駕する化け物になったのだと。
「フ……っ、フハハっ、ハハッ! 人間、いや。俺を超える化け物になった者よっ! それだけの力、人間に振るわせるには実に惜しいっ! この俺を倒したところで、貴様に帰る場所などあるものかっ! いつかわかるぞ、貴様が自ら化け物になったことを後悔する日をっ!」
「……」
その言葉を聞かずして、翔が先に動いた。鞘に納めた刀を力強く握り締め、踏み出した片足から炎の息吹が咲き乱れる。その姿は人間のそれではなく、もはや炎の一部となって一直線の渦となり、高笑いを続ける怪物の体に目がけ突進する。
『今道四季流 剣技抜刀<夏> 星渡』
刀が鞘から出る瞬間、炎が吹き溢れ空間一帯が炎の赤一色に染め上げられる。降り出した刃は強烈な熱と炎を一身に纏い、鋭い一撃と化しながら怪物の体を縦一刀両断に燃やし尽くす。
その攻撃を受けた怪物は、悲鳴のひとつも上げることなく延々と炎を吐き散らしながら地面をのたうち回りやがて黒い炭となり灰となってゆく。
「……」
体をふらつかせ、全身の傷口から噴き出る炎に身を焦がしながら、翔は右手に持った刀を地面に引き摺らせ一歩ずつその足を引き摺りながら、リーフェの亡骸へと進んでゆく。
その手に握る炎を宿した刀。そして、その腕に括り付けられた翡翠色の髪は美しく、急に降り出した雨に濡れてキラキラと輝いていた。
「あ……、あぁ……」
口を開くたびに喉が焼ける。何度も地面に打ち付けられ、割れた頭から炎が溢れでる。その姿は、あの怪物の言った通り、もはや人のそれではない。
刀を地面に置き捨て、炎の纏うその両腕でリーフェの体を抱き上げる。だが、物言わぬ彼女の体は肌で感じる炎の熱よりも遥かに冷たい。魂の抜け殻となってしまった彼女を前に、翔の体から湧き立つ炎が赤と青、その感情の揺れに呼応するかのよに点滅する。
ゆっくりと彼女の亡骸を抱きしめ、微かに残っているかもしれない、その温もりに触れようとした瞬間。リーフェの体は翔の体から噴き出る炎によって徐々にその体を燃やし始め、やがて雨降る夜の空へと灰になって消えていってしまった。
「あぁ……あぁ、ああああああああああああっっっっっ!」
その声は、獣か人間か。
一人、炎と魔物に飲まれたイニティウムの中で翔はただひたすらに泣き続けた。




