第153話 一年半の色
屋敷の庭をローブの魔術を解かないまま進んでゆく翔。すでに二、三分歩いているが屋敷らしき姿は全く見えない。それだけでここに住まう貴族がどれほどの財力を持っているかわかるものだが、何より目を見張るべきは雑草ひとつ生えていないよく丁寧に整備された庭だった。時折花らしきものも見かけはするものの、決してゴテゴテとしたものではなく自然の緑に溶け込んでいる野花の如く実に綺麗に調和の取れた庭だと翔は思った。
そして、さらに庭の道なりに進んでゆくこと二分ほど。正面に白を基調とした、これまた立派な屋敷が目に飛び込んでくる。まるで汚れを知らないような屋敷を前にし翔は思わず生唾を飲み込んでしまうのと同時に、自分の考えていた方便が通じるか余計に不安に感じた。
ローブの魔術を解き、屋敷の翔の身長の二倍もありそうな大きな扉の前に立ち、その扉につけられたドアノックを二、三回叩く。
「ふぅ……、落ち着いて」
しっかりとマスクをつけていることを確認し、扉が開くのを待つ。しばらくして、大きな扉がゆっくりと開けられ、その隙間から顔を覗かせたのは、白髪頭に垂れた犬耳を乗せ、ピッシリと燕尾服を着込んだ執事らしき男だった。
「お待たせいたしました。しかし、どちら様か? 門番から情報が入っていないようですが」
「それは行き違いだろう。私が、件の仮面の貴公子を名乗らせてもらっている。はるばるトウキョウから参った、一色 翔である」
「トウキョウ……? はて、聞いたことのない地名ですな。ですが、噂に聞きますところ、当家のエギル様と手合わせをしたいと伺っていますが? イッシキ カケル殿」
「間違いない。王都で剣術指南を代々行ってきたグラウス家と、我がトウキョウ最強の今道四季流、どちらが上か。是非、手合わせ願いたい」
「はぁ。ですが、エギル様は本日公務のため、席を外しております。日を改めていただけますかな?」
「そうか……だが、遠路はるばる来たのにも関わらず、客人の。ましてやグラウスを名乗るものが剣客を屋敷に外の放り出した。などと、噂になれば事ではないかな?」
翔の頬を冷たい汗が滴る。今まで、剣を交えて相手に強気に出たことはあっても、このような交渉の場で強気に出ることは滅多にない翔にとって、これ以上のプレッシャーはない。
しばらく考え込む執事。
そして、屋敷の扉が大きく開かれる。
「わかりました。これまでの無礼をお許しくださいませ。私は、このグラウス家で執事長をしております。何卒お見知りおきを」
「あぁ、良きにはからえ」
「……門番からもらった入館証をお持ちですかな?」
「これか?」
そう言って翔が取り出したのは、小さな免許証サイズの木札である。それを執事が受け取ると木札に焼印のようなものが刻まれる。それは、どうやら一人の獣人が剣を構えている姿が彫られたそれはグラウス家の家紋のようだ。
ちなみに、この木札は事前にジジューが門番から盗み出しておいたものである。
「確かに。では、屋敷をご案内しましょう」
「あぁ、頼む」
屋敷に招かれた翔、屋敷に入りまず初めに目に飛び込んできたのは、美術館の大展示室かと思わせるくらいの広々とした空間に所狭しと飾られた様々な防具、武具である。執事の後ろをついていた翔が思わず足を止めてしまうほどに威圧感のある空間だ。
「……流石は、グラウス家。並の屋敷とは違うな」
「これでも王家で代々剣術指南をしている家系故。ここに並んでいるものは全て当家が用意している最上級の逸品でございます。カケル様も、なかなかの業物をお持ちしているとお見受けいたしますが?」
「これは、我が一族で代々受け継がれてきた宝剣でな」
「服装も、そちらのトウキョウでの民族衣装ですかな? なかなかに風格を感じますな」
翔が今着込んでいるのは、リュイでもらったローブにハンクからもらった赤を基調とした和服である。確かに、この世界では見ない格好であるから、これが日本での普段着だと気づくものはいないだろう。
そして、展示されている武具のショーケースの間を抜けて正面の二階へと続く広い階段を執事と一緒に上がってゆく。その間にも、何人かの給仕が通り過ぎて行ったが、全員が獣人だということに気づく。
「ここには獣人しかいないのか?」
「えぇ。当主が獣人でありますが故」
「なるほどな……ここにはあと何人、グラウス家の人間がいるんだ?」
本題である。
翔の質問に執事は歩きながら、一度も振り返ることなく、淡々と答えてゆく。
「当家には、当主のソドム様、次期当主のエギル様。そして、つい最近ですが当家に戻られましたメルト様がいらっしゃいますな」
「……ほぅ、その戻ってきた。というのは?」
「えぇ。メルト様はイニティウムという土地でギルドの受付嬢をしておりましてな。ですが、イニティウムが魔物の襲撃にあい、当家に戻ってこられたのです。カケル殿はイニティウムの惨劇はご存じで?」
「あぁ、もちろん私の耳にも届いている。だが、一度イニティウムのギルドで会った獣人の女性がメルトと名乗っていたか……、まさかグラウス家の人間とは思わなんだ」
「ほう、お嬢様とはお知り合いでしたか」
「あぁ。おそらくだがな、是非一度会ってみたいものだが、今日は会えるかな?」
翔の問いに対し、今まで淡々と答えていた執事だったが一瞬振り返り、その微笑に影を落とす。
「お嬢様は……、この家に戻られてから。ほとんど外に出ておりません」
「……それは?」
「……理由はわかりかねます。ですが、彼女のことをよく知るメイドからは、一言」
帰りたい、と。
執事の言葉を聞いた瞬間、翔は確信した。彼女は、確実にイニティウムに帰りたがっていることを。
正直に言えば、怖かった。
もし、彼女がイニティウムに帰ることを望んでいなかったら。
パレットソードで彼女の姿は覗けても、心までは覗くことはできない。
だが、彼女がイニティウムに帰ることを望んでいるのなら。
自分はどんな手を使ってでも、彼女をイニティウムに帰そう。
そのために、来たのだから。
「……メルトさ……、メルトお嬢様に一度お会いしたいのだが、もしよければ機会を設けてはくれないだろうか?」
「……カケル殿、お嬢様は部屋の外にも出ていない状況です。お会いできることはできないかと……」
「なら、この言葉を。彼女に伝えていただけますかな?」
歩けなかった道にも、きっと花は咲く。
イニティウムのリーフェの墓に彫られた一文。これが、翔とメルトを結ぶ絆の言葉である。
きっと、この言葉なら。
「……わかりました。メイドに言って伝えさせましょう。では、カケル殿はしばらく客室でお待ちいただけますかな?」
「あぁ、わかった。案内してもらおう」
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屋敷に帰ってから、私は窓の外ばかりをみている時間が増えていました。
あの青い空を眺めることだけが、私とイニティウムを繋ぐ唯一の方法です。
そして、その度に思います。イニティウムにいるみんなはどうしているんだろうって。その度に、両目から涙が出てきそうになります。
私には、まだやることがあることがある。
私には、まだ。
私には、まだ。
「リーフェ先輩……、私。ダメな後輩です……」
あの日、イニティウムが炎に包まれた時。何もすることができなかった私にリーフェ先輩が私に残してくれた最後の仕事を、私は全うすることはできませんでした。
そして、何の罪もないショウさんを守ることもできませんでした。
今、ショウさんはどこで何をしているんでしょうか。
イニティウムにおいて行った手紙を読んでくれたでしょうか。
そして、生きててくれているでしょうか。
王都騎士団の本部でショウさんに突き放された時は、心が壊れるくらいにショックでしたけど、それでも。私は確かにこう言えます。
あの街を愛していて、
私を守ってくれて、
そして、どうしようもないくらいに。
私は、あの人を愛している。
だからこそ、心苦しい。こんな屋敷にいて、貴族という枠に収まっている自分は自分じゃないみたいで。
イニティウムにいる私が、本当の私なのだ。
「失礼します、入ってもよろしいでしょうか?」
「……はい、どうぞ」
ドアの向こう側から聞こえてきたのは、この屋敷のメイド長であるソフィーの声でした。齢五十を超える彼女は、私が幼い時にこの屋敷にいた時からよく遊び相手をしてくれた、今でも親友のような人です。
「……また外ばかりを眺めていたんですね。屋敷の外へ出て庭を散歩してみてはいかがです? 少しは気分転換になるかもしれませんよ?」
「……いいの。外に出る気力がなくて」
「……イニティウムのことを忘れろとは言いません。ですが、お嬢様。お嬢様は、グラウスの人間であるということをお忘れなきよう、向こうでは母側の姓を名乗っていたようですが、それでもこの家の長女であることには間違いないのですよ」
「……」
「それと、今日。お嬢様にお会いしたいというお客様がいらっしゃっています」
「……断って。誰とも会いたくないの」
「そういうと思って、執事から。以下の言葉を預かっています、もしお嬢様が断ったらこの言葉を言うようにと」
ソフィーの口から出た言葉。
その言葉を聞いた瞬間、今まで落ち込んでいた気持ちが一気に湧き上がるような気持ちになりました。
だって、それは。リーフェ先輩と私を繋ぐ絆、そしてリーフェ先輩と絆を結んだ人間しか知らない言葉だったから。
「ソフィー、その人ってどういう見た目の人っ!?」
「え? 確か、見たことない民族衣装を着ていて。そう、黒髪と黒い目が印象的な人だって」
「っ!」
その言葉聞いた瞬間、私は入り口に立っていたソフィーを軽く跳ね除け、着ているスカートの端を持ち上げながら一気に屋敷を走ってゆき、屋敷の客室のある間に向かって向かってゆく。
私のことは探さないでって書いたのに。
あの人は、
あの人は、
あの人は、
走りながら、こぼれた涙が顔をぐしゃぐしゃにしていきます。
そして、客室の前に立つ執事の姿を目で捉えた瞬間、ノックもしないで執事の前にあった客室の扉を勢いよく開け放ちました。
その瞬間、目の前に映ったのは見たことのない民族衣装に身を包み、口元を覆うマスクで顔を隠しているスラっと背の高い男性の姿。
だけど、あのとても撫でたくなるような黒く濡れた優しい髪の色を私は知っている。
あの、どこまでも深くて優しい黒い瞳を私は知っている。
「メル……トさん?」
「ショウ……さん?」
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客室の入り口の前で、肩で息をしている女性の姿を確認した翔。勢いよく開け放たれた扉に驚き思わず立ち上がってしまったが、翔の目に映った女性の顔は涙でぐしゃぐしゃで、優しい猫のような長い茶色の髪を乱している姿に一瞬思考が止まった翔だったが、その女性が一歩ずつ翔に近づいてくる。
「メル……トさん?」
「ショウ……さん?」
互いが名前を呼び合う。
その瞬間、メルトの中に溢れていた感情が涙と嗚咽という形で外に吐き出される。子供のように泣き喚く彼女にゆっくりと近づき、翔はメルトのことを抱きしめようと一瞬躊躇したものの、その細い肩にゆっくりと手を置き力強く抱きしめる。
「ウワァアアンン、ショウさん……っ、ショウさん……っ!」
「メルトさん……っ、ごめんなさい……お迎えに行くのが遅くなって……っ!」
「バカ……バカ……っ、探さないでって言ったのに……っ! 私を一回拒絶したのに……っ」
「許してください……色々話したいことがたくさんあるんです」
翔とメルト、実に一年半以上ぶりの再会であった。




