第109話 並行の色
トイレの個室に篭っていたところで、何かが変わるわけではない。今すぐ自分のために行動をしなければ、捕まるのも時間の問題だ。そう思いレギナはトイレの個室を出る、周囲を見渡してあるものは男性の小便器とトイレの個室が先ほど入っていたところも含めて四つあるのみ。
そして、換気用の大きな木板の窓が一つ。
窓に近づき、木板の窓を開ける。すると、そこから見えたのは監獄の裏側に通じる林。このまま出口へ出れば確実に捕まる、レギナは二階のトイレの窓から飛び降り地面へと着地する。
「……しばらくは時間が稼げそうだ」
膝についた土を払い、装備品がしっかりと揃っているかを確認する。腰に巻かれたスペルビアを軽く鞘から引き抜き、いつでも戦闘に入れる準備を整えてゆく。最も、それは最悪な結末ではあるが。
「……」
林の中を進んでゆくレギナ。しばらく周囲を見渡し、警戒しながら歩いてゆくとどこかからか話し声のようなものが聞こえてくる。詳しい話の内容までは聞き取ることができないが、近くに誰かがいるのだけははっきりわかる。
見つからないように姿勢を低くしながら木々の間を縫うようにゆっくりと話し声が聞こえるところまで近づいてゆく。
話し声は、目の前にある小屋のような建物から聞こえてくる。
『おい、これで何樽目なんだよ。地下燃やすのに十分すぎやしないか?』
『しょうがないだろ。あのデブ監獄長の命令なんだ、それに。あと二、三樽だろ。ちゃっちゃっと終わらせるぞ』
話を聞く限り、レギナの頭の中に浮かんだのはエレナの処刑に関することと関係していることだ。しかも、話が確かなら処刑の準備が終わるまで時間が残り少ない。
時間を稼がねば。
だが、一体どうやって。
立ち上がり、小屋に向かって駆け出す。
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「レース……っ! あなたなのね、迎えにきてくれた……っ!」
「エレナさん……俺は、レースさんじゃ……」
翔が否定をしようとしても、エレナの耳にはその言葉は届いていない。ただただ、目の前に映る男を最愛の夫として認識して必死に縋りつこうとしている。その姿に翔は否定をすることもできず、彼女の手を握りながら周囲を見渡す。
エレナの牢獄の壁や地面には様々なものが書き込まれていた。中には判読ができないようなものから、詩のような一節、そしてそれ以上に目に留まったのは壁に書かれている図形、数式、その証明式のようなもの、それらがまるで壁画のように大量に描かれている。
それらを行ったのは全て彼女なのだろう。未だに、彼女の手記に目を通していないが、これらが一体何を指し示しているのかが全く理解できなかった。
「エレナさん、少し離れてください。どこにも行きませんから」
パレットソードを引き抜く翔。一瞬その姿を見て怯えたように後退りをして離れた彼女を横目に、鉄格子の扉にかけられている鎖に目掛けて勢いよく振り下ろす。明るい火花を飛び散らしながら、断ち切った鎖が地面にドシャリと音を立てて落ちてゆく。
牢獄の扉を開け、エレナを確保しようとする翔。だが、光るパレットソードを見てエレナはゆっくりと腕をあげ、翔の右手に握るパレットソードを震える指で指し示している。
「それは……終焉を告げる剣……世界からあらゆる色を消し去る。予言の鍵」
震える声でそうエレナは言うと、そのまま地面に吸い込まれるように倒れる。その直前で彼女のことを抱き止めることができたが、彼女の言葉が翔の頭の中で引っかかっている。
終焉を告げる剣。
世界から、あらゆる色を消し去る。
予言の鍵。
全ての単語に思い当たる節がないわけではない。なぜなら翔は、プラエド号の船の上で一度死んだ時、この剣の前の持ち主である勇者の記憶を垣間見ているのである。
彼が、最後に無色の国を消し去ったあの光景。あれは、確かに終焉を告げる剣と言われても全くそう呼ばれても遜色ないだろう。だが、残りの二つの単語が頭にピンときていない。
あらゆる色を消し去るとは。
予言とは。
「くそ。カメラとかあればなぁ……っ」
おそらく、そのヒントがこの牢獄に書かれた壁にある。カメラの一つでも持っていれば写真に収めて後から見返せるのだが、今は自分の記憶を頼りにするしかない。しかし、残念なことに翔は理系ではなく、文系だったがため数式などを並べれらても理解ができない上に、数字を覚えるのは余計に難しいことだった。
「行きましょう。ここに残っているとなんかヤバいことに巻き込まれそうです」
「同感ね。初めて気が合ったんじゃない?」
「そうかもですね。よいしょ……っ」
気絶したエレナを担ぎ上げ、翔は牢獄を後にする。身体強化術がまともに使えないため、多少重さを感じるがそれでも痩せこけた彼女を抱き抱える体力自体は残っている。
と、その時だった。
何かが遠くで爆発したような音が響く、同時に揺れる迷宮。
風向きがおかしい。洞窟の中なのにも関わらず、空気の流れがいきなり変わった。
「まさか……」
「走りましょうっ! 急いでっ!」
「はいっ!」
翔の悪い予感は的中する。
油で敷き詰められた地面、一人しかいない牢獄。
背後で爆ぜる、炎と熱波。
そこから弾き出される答え。それは、迷宮そのものを炎の海に沈める。監獄を丸ごと使った処刑装置の起動に他ならない。
「レギナさんっ! 聞こえますかっ!? レギナさんっ!」
エレナを担ぎながら翔は炎の波を背に、チョーカーに必死に呼びかける。
チョーカーからの応答はない。
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時は少しだけ遡る。
「全員、ご苦労」
「え……、あ。はい、ご苦労様です……」
小屋の扉を開け放ったレギナ。まず最初に挨拶を交わし、武装兵二人の警戒を解く。しかし、レギナの正体を知らない二人は突然挨拶して入ってきた人物に対しハテナマークが頭に浮かんでいる。
至極当然の反応と言えるだろう。
「私は、王都騎士団九番隊隊長、レギナ=スペルビアだ。監獄長から話は聞いているだろう?」
「え、いえ……。話は聞いていませんが……」
「……なるほどな、連絡が行き渡っていなかったのかもしれない。監獄長より通達だ、今行っている作業を止め、各配置に戻れとのことだ」
「は、はい?」
「聞こえなかったのか? 各配置に戻れとのことだ」
レギナの目の前で顔を見合わせる武装兵二人。
当然、そのような指令を監獄長は出してはいない。これはレギナの口から出たデマかせである。だが、しかしこのように彼らが作業を止め迷っているだけでも十分に時間稼ぎにはなっている。
「今日行われる処刑は延期になったとのこと。監獄長は忙しくしており、私が代わりに通達して欲しいと仰せつかった」
再び顔を見合わせる武装兵二人、
しばらく空気が止まる。
最初に笑い出したのは左の武装兵だった。それに釣られて、右の武装兵もまたゲラゲラと大笑いをし始める。一体何がおかしいのか全く理解できなかったレギナだったが武装兵二人はひとしきり笑い終えた後、腰からゆっくり剣を引き抜く。
「あのなぁ。アンタが誰でなんのつもりかしらねぇけど。うちのデブ監獄長が《《忙しい》》なんてこと一度もねぇんだよ」
「……」
全くもって予想だにしないところでボロが出てしまったことにレギナは唖然としてしまう。改めて、あの男が各方面から信頼されていないという事実に、思わず納得がいってしまうが、それでもデマかせにすらならないことに少々呆れてしまっていた。
「誰かはわからないが、アンタを捕縛させてもらう」
「……先に言っておく。後悔することになるぞ」
「そうかよっ!」
大ぶりで降りかかってきた武装兵。咄嗟に振り下ろそうとした腕を掴み上げると、その無防備の顔面に目掛けて右ストレートを打ち込む。顔面を押さえながら地面で悶える武装兵。
まずは一人。
続けて剣を持って降ってきた相手に対し、レギナは腰のスペルビアを軽く引き抜き横一閃を受け止める。剣を受け止められた武装兵は片手でナイフを持ち出しレギナの喉元に目掛け突き立てようとするが、レギナはその先端が触れるギリギリで躱してゆく。
「いい腕をしてる。武器を持ち替えたのはいい判断だ」
「だから、アンタ一体誰なんだよっ!?」
「最初に言ったはずだ」
拳の側面でレギナは相手のナイフを弾き飛ばす。続け様に、相手の膝を折り前屈みに倒れ込んだ武装兵にラリアットを決め地面に向けて叩きのめす。
「私は王都騎士団九番隊隊長、レギナ=スペルビアだと」
地面に二人の武装兵がノビている。とにかく、これでだいぶ時間稼ぎになった。武装兵が油を注ぎ込んでいるのは、小さな井戸のようなものだった。おそらくここの先が第六階層につながっており、ここに火を投げ入れて処刑をするつもりだったのだろう。
となれば、次なる目標はこの井戸を何があっても翔が戻るまで死守すること。
そうなるはずだった。
「レギナ=スペルビア殿。どうもこんにちは。いや、もうそろそろ、こんばんわですね」
「……貴様は」
背後から聞こえた男の声。後ろを振り返ると、そこに立っていたのは先ほど監獄長室ですれ違った高身長のエルフ。整った顔に、少し頬を緩めているその表情はすれ違った女性を意中に射止めそうな顔をしている。
最も、その表情の裏側にあるものを読み取れなければの話だが。
「あの時は自己紹介をせず、申し訳ありませんでした、私。王都聖典教会、緑の蒐集師、ローレン=フォーサイスと申します。単刀直入に聞きましょう、私と一緒に、王都へ戻る気はありませんか?」
「断る。私は、王都に戻る気はあっても貴公とではなく、王都騎士団としてだ。ただの無色として戻る気はない」
「……なるほど。なら、あなたに残された道は一つです」
ローレンの緩んだ表情で一瞬油断するレギナ。しかし、体が先に動き、その場で後退りし、何かを躱す。
首筋についた薄い切り傷、皮膚を切り裂き流れでた小さな血の一滴をレギナは指で拭う。
「……一体何をした……?」
「教えるわけないでしょう。これから死ぬ人間に言っても無駄なことです」
ローレンの表情は崩れない。だが、その瞳の奥はどこまでも冷め切っていた。




