百合の距離は等しく伸びて形をつくる
【登場人物】
皇乃々花:高校二年生。百合漫画家志望。恵と姫子に出会って明るくなった。以前恵のことが好きだと二人に打ち明けた。
高梨恵:姫子と一年の頃から付き合っている。性格は男前。
三草姫子:乃々花のクラスメイトで恵の恋人。性格は優しいが芯は固い。
皇乃々花は元々人と話すのが苦手だった。長い前髪に黒縁メガネと容姿は野暮ったく、性格も引っ込み思案で消極的、学力も運動神経にも秀でたところがないとあってはクラスから浮いてしまうのも無理からぬこと。友人もおらず教室でも自然と独りでいることが多かった。
周りから見れば可哀想な学校生活かもしれないが、けれど乃々花にとってはそこまで悲痛になることでもなかった。
何故ならこの世界には百合マンガがあったから。
百合マンガを読んでいるときはどんなつらいことも悲しいことも忘れられた。物語の中で生きる彼女たちのセリフが、やりとりが、絡みが、尊くていとおしくて、ぽっかり空いた心の隙間を満たしてくれた。
年月を経る毎に百合への憧れはどんどん高まり、少しでもそこに近づこうと絵も描き始めた。最初はキャラの模写から始まったそれは、徐々にイラストへマンガへと変化していった。そして乃々花が納得のいく作品として完成できるまでになったのは二人の同級生のお陰だった。
高梨恵、三草姫子。
二人は本物の百合カップルだった。恵たちとの出会いは乃々花に創作意欲と新たな刺激を与えただけでなく、乃々花の趣味嗜好を理解してくれる親友たちをももたらすことになった。
乃々花は思う。大好きな人達と大好きな百合を語り合える今が、きっと自分の人生で一番幸せなときなのだろう、と。
そして同時に思う。その幸せはきっと今だけのものなのだろう、と。
「ひぃ~、宿題が終わんないよ~……」
座卓に広げられた問題集にひとりで向かいながら恵が嘆いた。その横で姫子がこれみよがしに嘆息する。
「だから早いうちから済ませといた方がいいよってあれだけ言ったのに」
「やろうとはしたんだって。でも気付いたらいつの間にか日付が進んでたんだよ。絶対おかしい……あんなに残ってた夏休みがもうあとちょっとになってるなんて……――ハッ、まさかあたしの時間だけ飛ばされた? 何らかの攻撃を受けた? あるいは無意識に時をかけるあたし?」
「現実逃避する暇があるなら手を動かそうね」
「ふぇ~ん……」
口調は厳しめだが姫子の所作からは限りない気遣いが感じられた。消しカスが溜まればすぐに捨ててあげたり、飲み物が減れば台所へ行き新しく注いできたり、恵が腕を伸ばして少し休むと体に不調がないかを尋ねて肩を揉んであげたり。
乃々花はそういった二人のやりとりを微笑ましく眺めながら、ネタとして使えそうなものを逐一メモに書き記していた。
夏休みも残り僅かとなって、姫子と乃々花は恵の家に連日集まっていた。目的は恵の宿題の手伝いだ。人手があればなんとかなるものはだいたい終わり、残った大物は問題集やプリントなど地味に時間が掛かるものだけ。筆跡でバレると困るので恵がひたすら姫子と乃々花の答えを写していたのだった。
「まったく、恵ちゃんらしいと言ったららしいんだけど」
姫子が呆れ顔で乃々花の方に近寄って腰を降ろした。乃々花はメモを書くのをやめて姫子を見る。
「まぁ三人で遊びに行くことが多かったし、多少は仕方ないかと」
「二十四時間遊んでたわけじゃないんだから夜に家でやればよかっただけ。現に私と乃々花ちゃんはもうほとんど終わったのに」
「それはまぁ、あのペースでずっと遊んでたら宿題絶対終わらないなと思ったから……」
夏休みに入り乃々花たち三人は毎日のように遊んでいた。山や海、レジャー施設にイベント等々、夏は出掛けるのに最適なシーズンだ。降り注ぐ日光にも負けずに色んなとこへ遊びに行った。
もちろん三人で宿題をする日も設けてはいたのだがそれだけで足りるわけもなく、結果こうして恵が泣きをみるはめになったというわけだ。
「聞こえた恵ちゃん? 乃々花ちゃんみたいに危機感もってやらないと宿題なんて終わらないんだよ」
「危機感はあったの! でもそれ以上に二人と遊びたかったの!」
「言い訳はしない」
「ふぁ~い……」
いつも以上にばっさりと切る姫子の態度は乃々花には意外だった。姫子の性格を考えるともっと優しくフォローしながら恵のやる気を上げそうなものだが。
乃々花の視線に気が付いた姫子がくすりと笑う。
「ちょっとはきつく言っておかないと、次もまた繰り返しちゃうから。冬休みも三人でいっぱい遊びたいもんね」
その表情と言葉に乃々花の心臓がトクンと跳ねる。
恵が手を引っ張って前へ進んでいくタイプの人間だとすれば、姫子は背中からそっと支えるタイプの人間だ。どっちが良いかではなくどっちもすごい。独りぼっちで過ごしてきた乃々花は二人の思いやりに触れるたびにずっと元気づけられてきた。
「……うん、いっぱい遊びたい」
「だってさ恵ちゃん。まさか冬も同じことにはならないよね?」
「善処はしますぅ……」
「善処?」
「きちんと終わらせますぅ!」
よろしい、と頷く姫子。恋人というよりは教育ママみたいだ。
ふと眉根を寄せた表情から一変、乃々花を振り返る。
「そういえば乃々花ちゃんがあげてたイラスト、結構バズってなかった?」
「あ、うん。有名な百合マンガ家の先生がリツイートしてくれたみたいで。いやぁほんと恐れ多い……」
「私は正当な評価だと思うな。あの『こっそりキスシリーズ』すっごく好きだし」
『こっそりキスシリーズ』とは乃々花がツイッターや投稿サイトにあげているイラストで、百合カップルが様々な場所で隠れてキスをしているところを描いた一枚絵のシリーズのことだ。夏ということで最近は海水浴や縁日、天体観測、図書館などでキスをする百合カップルを描いた。当然それらは全て三人で行った場所だ。
「そ、そんなの、あの元ネタは姫子ちゃんと恵なんだから二人のお陰だよ」
「あれ? そうだったっけ。私と恵ちゃんだけが元ネタじゃなかった気がしたんだけどなぁ」
「……じ、自分の経験も参考にしました」
姫子がにこと笑う。気恥ずかしくなって乃々花は目を逸らした。
実際のところ姫子たちが元ネタなのは間違いない。二人の実体験を聞いたり目の前でこっそりキスをするところを見せてもらったりして、それを参考にイラストを描いてきた。ただひとつ加えるのなら、乃々花も一緒になってこっそりキスをしていたということだろう。
少し前、百合のNTRマンガを描こうとした際に紆余曲折あって二人とキスをして以来、たびたび乃々花もキスに交ぜてもらうようになった。名目上はマンガの参考資料として。
正直おかしな関係だと乃々花自身も思っている。恵に告白まがいのことをした自分が今も二人と仲良くして、しかもキスまで許されているなんて普通ありえない。ありえないのだが、それを喜んで受け入れている自分がいるのもまた事実なのだった。
「キスのときはあんなに積極的なのに今更恥ずかしがるの?」
姫子にからかうように言われて乃々花の顔が熱くなる。
「あ、あれはキスの魔力にやられて正常な判断が出来なくなってるだけで私の意思でやってるわけではなくてでしてっ!」
「へぇ、じゃあ正常な思考のときはキスしたくない?」
「そそ、そういうわけでもなくてキスさせていただけるのなら喜んでさせていただきたい所存で――」
早口になる乃々花とは対照的に姫子は焦らすようにゆっくりと話す。
「じゃあ、もし今キスさせてあげるって言ったら、乃々花ちゃんはどうする?」
「い、いいの!?」
「こらこら! 人が真面目に宿題やってる後ろでなにやってんのよ!!」
やりとりをずっと聞いていた恵が声をあげて振り返った。『真面目?』と乃々花たちが顔を見合わせる。真面目に宿題を済ませてなかったから今慌てて写しているはずだが。
「恵ちゃんがさっさと終わらせないからだよ。乃々花ちゃんと私が暇になっちゃってるからキスしようかって話になるの」
「いくら暇だからって普通彼女のいる後ろで友達とキスしようかってなる!?」
「だから恵ちゃんが宿題終わってれば今日も三人で遊びにいってるよね。そしたら乃々花ちゃんとここでキスしようとすることもなかったじゃん」
「そういう問題じゃないでしょ! 私に悪いと思わないの!?」
「恵ちゃんこそ宿題に付き合わされてる私たちに悪いと思わないの?」
「ぐ、ぐぎぎ……」
「ふ、二人ともやめて! 私が、私が調子に乗ったのが悪いんです!」
たまらず乃々花が割って入った。テンパっているせいか口調が昔のですますに戻ってしまっている。とにもかくにも自分のせいにすることでこの場を収めようとしたのだ。しかしまったく意味は無かった。
「乃々花ちゃんは全然悪くないよ。悪いのは宿題やってない恵ちゃん」
「乃々花は悪くない。悪いのはキスを誘った姫子」
「あ、あの……」
睨み合う二人に挟まれて乃々花はあたふたと慌てふためく。どうすればこの二人が仲直りしてくれるのかを考えるが良い案が思い浮かばない。
しばらく顔を左右に振っていた乃々花だったが、その目尻にうっすらと涙が溜まっていった。恵と姫子がケンカをすることほどつらいことはない。大好きな二人だからこそずっと仲良くしていて欲しい。
「……仲良く、しようよ……」
乃々花が震える声で呟いたとき、恵と姫子はようやく乃々花の様子に気が付いた。
「あ、あー違う、違うんだよ乃々花ちゃん。別に私と恵ちゃんはケンカとかしてないからね」
「そ、そうだよ乃々花。いつものじゃれあいの延長だから、ね、姫子?」
「もちろんっ。ほら、私たち仲良いでしょ? 仲良し仲良し」
肩を組んでわざとらしく笑う二人に乃々花が要望する。
「……仲直りのキスは?」
…………。
「……恵ちゃん」
「……姫子」
恵と姫子が唇を重ねる。ただ重ねるだけではない。ゆっくり唇を動かしながら互いの温かさを感じ合い、舌の交わりで絆を確かめ合う。そのキスは乃々花へ見せる為の形だけのキスではなく気持ちのこもった仲直りのキスだった。
「……ごめんね恵ちゃん。宿題の邪魔になっちゃダメだからって最近恵ちゃんといちゃいちゃしてなくて欲求不満になってたかも」
「私の方こそごめん。私も姫子と全然キスできてなくて寂しくて、なのに乃々花とするって聞こえてきたから羨ましくなっちゃって」
体を密着させて互いに謝罪し合う姫子と恵。乃々花は溜まった涙のことなど忘れて目の前の光景に見入っていた。
「はぁぁぁぁ、仲直りのキス最高……険悪なムードが身体的コミュニケーションで一気にラブラブになるのはやっぱりいいですなぁ……」
すっかり百合好きモードになった乃々花を見て姫子たちが笑う。
「こういうの小さい子供でよくあるよね」
「あるある、両親がケンカしてるのを見て子供が泣いちゃって、それで仲直りしちゃうやつ。で、二人で子供をなだめたらすぐ笑顔になるんだよね」
その会話を聞いて乃々花がハッと閃いた。
「――もし今後二人がケンカするようなことがあったら私が泣けばいいのでは?」
「「やめて」」
二人の声がハモり、そのあと三人で改めて笑い合った。それはまるで家族で談笑するかのように。
やがて落ち着いた頃に乃々花がおずおずと尋ねた。
「ところで、さっき姫子ちゃんが言ってたキスさせてあげるというのはまだ有効でしょうか……? あ、いやいや決してお二人の邪魔をしたいわけじゃなくてですねただ仲直りするときのキスがどういうものかの参考資料かつ知的好奇心が鎌首をもたげてきまして――」
「どっちとしたい?」
姫子が穏やかに目を細めた。恵は何も言わないがその表情からは『しょうがないなぁ』と受け入れていることが窺える。
乃々花は二人を交互に見てから躊躇いがちに口にした。
「じゃあ、ふ、二人と……」
「こういうとき遠慮しないよね、乃々花って」
「へへ、人の欲望は底無しなので」
「そんな当たり前みたいに言われても」
にやと笑う乃々花に呆れ顔を向けてから、恵が唇を寄せた。率先して恵からキスをしたのはお詫びも兼ねてのことだ。姫子にしたのと同様に、謝罪の気持ちをこめて優しくキスを交わす。
隣では姫子が乃々花の頭をよしよしと撫でていた。
二人のぬくもりに包まれたこの空間は乃々花にとってまさしく天国であった。
「……ん、ぁ……今なら死んでもいい……」
「不吉なこと言わないでよ」
「そうだよ乃々花ちゃん。今死んじゃったら私とキスできなくなるけどいいの?」
「いくないです!」
反射的に乃々花は姫子の胸に飛び込み、その可愛らしい唇にキスをした。今しがた恵にされたように、唇で舌で優しく交わり合う。
「――ふふ、やっぱりキスになったとたん積極的だね」
「こ、これはあの姫子ちゃんの唇が魅力的でその……」
「いいよ。泣かせちゃったお詫びに、乃々花ちゃんがしたいだけキスさせてあげる」
「姫子ちゃん――」
感極まって乃々花がぎゅうっと抱き着いた。それを嫌がることもなく姫子は受け止めて乃々花の後ろ髪を撫でつける。
二人の様子を眺めていた恵が座卓に向き直った。
「んじゃ、子供をあやすのはお母さんに任せてあたしは宿題に取り掛かるとしますか」
「いいのお父さん? 私と乃々花ちゃんが二人でいちゃいちゃしてても」
「あたしが嫌だったのはあたしを除け者にしてたから。そうじゃないならどれだけ二人がキスしてても気にしないよ」
「殊勝な心構えのお父さんにはご褒美として、宿題が終わったら私と乃々花ちゃんでいっぱいキスのプレゼントしてあげましょうねぇ」
「じゃあ頑張って早く終わらせないと」
問題集にペンを走らせ始めた恵を見て姫子が小さく笑う。
やっといつも通りに二人に戻った。乃々花は姫子の腕の中で喜びをひとり噛み締めるのだった。
尚、この日乃々花が家に帰ってから『子供をあやしながらキスをする百合カップル』のイラストを描きあげて、なかなかに評判が良かったという。
「お――わったぁぁああ!!」
恵の家に通って数日、夏休み最終日で恵の宿題がようやくすべて終わった。
歓喜に両手を突き上げた恵に向けて姫子と乃々花が拍手で祝福する。
「お疲れさま、恵ちゃん」
「終わって良かったね」
「いやーホントホント。解放感がすごいわー」
恵が仰向けに床に倒れようとしたとき、姫子がすかさずその頭を膝枕で受け止めた。姫子の手が恵のおでこを優しく撫でる。
「次はこんなに慌てないように計画的に宿題やろうね」
「あ~い……でも冬休みはそんなに宿題でないでしょ」
「去年、宿題の量が少ないからってほとんど手をつけてなかったのは誰だったっけ?」
「あたしですすみませんでした」
「それに夏休みは来年もあるんだから、こういうのは早めにやる習慣つけといた方が楽だよ」
「ら、来年の話は来年考えるよ。あんまり先のことを話してると鬼に笑われるって」
「勝手に笑わせておけばいいの。高校生活の残りの一年半なんてあっと言う間なんだからね。そしたらもう受験だよ受験」
一年半。あっと言う間。受験。それらの言葉が傍で聞いていた乃々花の胸に刺さった。
こうやって三人でいられるのもあと一年半しかない。高校を卒業して離れ離れになったら集まる機会もかなり減ってしまうだろう。以前の乃々花だったら大学に行っても自分の趣味に没頭すればいいだけだと割り切った。だが二人のぬくもりを知った今の乃々花にとってまた独りに戻ってしまうことはあまりにもつらいことだった。
「やめてよ姫子ー、受験とか二年の今から考えたくなーい。別に大学に行ってやりたいこともないし」
「私もないけどやっぱり大学くらいはって思っちゃうよね。実際惰性でとりあえず進学って子も多いんじゃないかな。大卒の方が就職に有利とかで」
「就職……就職も全然ピンとこないよねぇ。あと五・六年もしたら社会に出て働いてるとか軽くホラーだよ」
「ホラーかどうかはともかく、まぁ想像は出来ないよね。あ、でも乃々花ちゃんはやっぱりマンガ家になるのかな?」
「…………」
「乃々花ちゃん?」
呼びかけられて乃々花はハッとする。
「ご、ごめん。ちょっと考え事してた。えっと、何の話?」
「乃々花ちゃんは将来マンガを描いて食べていくのかなって話」
「あ、そ、そうなれるのが一番だとは思うけどなかなか厳しいだろうし。働きながら同人誌描いたりして地道にやってく方がいい、かも」
会話の隙間に寝たままの恵が入ってくる。
「じゃあ専門学校には行かずに大学行く感じ?」
「え、あ、多分……」
浮かない顔で返事をした乃々花を恵はじっと見つめた。乃々花の表情の裏側を読み取るように。恵の視線はやがて膝枕をしてくれている姫子へと移り、互いにこくんと頷いた。
「恵ちゃん」
「あいよ」
恵は体を起こすと乃々花を引き寄せて無理矢理姫子の膝の上に仰向けで寝かせる。
「あれ、な、なにを――」
「乃々花って悩んでるとき分かりやすいよね」
「ほんとにね。さぁて乃々花ちゃん、何ひとりで抱えこんじゃってるのかなぁ?」
姫子が乃々花の頬を両手で挟み込んで微笑んだ。
「わ、私は別になにむぐ」
姫子の両手が頬を押し潰したり引っ張ったりと弄ぶ。
「隠してもだーめ。言わないとずっと私の膝の上だよ」
「いわなはっはらいっひょうほほああえいられる……?」
『言わなかったら一生このままでいられる?』と混乱しながらも願望を込めて返答する乃々花。
「あは、こりゃやり方変えないと言ってくれそうにないね。じゃあ――」
恵は諦めたように笑うと乃々花の体に跨がった。
「言ってくれたらキスしてあげる。言わないなら一生キスなしでそのまま。どっちがいい?」
「ふぇ――」
「それいいね恵ちゃん。乃々花ちゃんには一番効きそう」
「あ、あ……」
乃々花の頭の中で議論が行われた。余計な心配を掛けないために嘘をつくべきか、それとも正直に打ち明けてキスをしてもらうか。脳細胞を総動員した議論は一秒も経たずに終わった。
「……話し、ます」
二人に体をがっちりと押さえられたまま、乃々花はぽつぽつと胸の内を吐露し始めた。
「あ、あんなに楽しかった夏休みが気付いたらもう終わってて、多分このままだと高校生活もあっと言う間に終わっちゃうし、二人とこうやって一緒にいられる時間も限られてるんだと思うと、つらくて……。も、もちろん大学に行っても友達なのは変わらないし会いたいと思ったら会いにはいくつもりだけどでもやっぱり寂しくなるんだろうなって……」
乃々花としては自分の気持ちに少しでも共感してくれればそれでよかった。自分が寂しいと思っているのと同様に二人も寂しいと思ってくれたなら、きっと独りきりでも耐えられるはずだから。ただ、恵と姫子の反応は乃々花の予想とはまったく違っていた。
二人は怪訝な表情で首を傾げ、そして呟いた。
「乃々花ちゃん……」
「あたしたちと一緒の大学に行くんじゃないの?」
「――え?」
「乃々花ちゃんはマンガっていうやりたいことがあるからそっちの方に進むんだったら別々になっちゃうかなって思ってたんだけど」
「大学に進学するって言ってたからてっきり同じとこに行こうねって意味かと」
うんうんと頷く二人を見上げながら乃々花は頭の中を整理しようと努める。
「え、え、でも大学とは自分の学力とか将来やりたいことに合わせて選ぶものじゃ」
「私も恵ちゃんも今行きたい大学なんてないよ。まぁお金のことを考えて私立より国立の方がいいかなくらいは考えてるけど、ボーダー次第かな」
「そうそう、ぶっちゃけどんな大学を出てどんな会社に就職しようがどうでもいいから」
「どうでも、いい……?」
「だって、ねぇ」
「あたしも姫子も将来やりたいことは決まってないけど、将来こうしたいって目標は決まってるから」
「目標?」
オウム返ししかしなくなった乃々花に、恵と姫子は自信たっぷりに告げた。
「「ずっと三人一緒にいたい」」
その言葉は、これまで二人と交わしたどんな言葉よりも輝きに満ちていて、深い闇の底に落ちかけていた乃々花を一瞬で天上まで引き上げてくれた。
「い……いいの?」
唇が震える。声がかすれる。それでも乃々花はすがるように問いかけた。
「いいかどうかを決めるのは乃々花ちゃんだよ」
「結局あたしたちと同じとこに来るかどうかは乃々花が決めることだしね」
「そうそう、もしかしたら乃々花ちゃんがマンガ家デビューしちゃって私達が邪魔になっちゃうかも」
「しかもあたしたちは就職に失敗してさ、乃々花に面倒を見てもらうようになったりしてね」
「そのときは私達が乃々花ちゃんのアシスタントになろっか」
「そうなるとあたしはお茶汲みしか出来ないなー……ん? 乃々花聞こえてる?」
乃々花はこくこくと頷くが咄嗟に声が出なかった。その意味を勘違いしてか姫子が眉根を寄せる。
「私達の言い方がよくなかったんじゃないかな。まるで乃々花ちゃんに寄生するみたいだったし」
「あぁそっか。えっと、じゃあ逆に乃々花が一生芽が出なくてもあたしと姫子で養っていくから」
「それも乃々花ちゃんにとっては残酷じゃない?」
「あーうー、この際あたしたちの仕事とか稼ぎとかどうでもいいの! どんな仕事をしてようがどんな場所に住んでようが、あたしたち三人がずっと一緒なら残りの人生勝ち組でしょって話!」
「――――」
見開いた乃々花の目から滴がこぼれた。とめどなく溢れ続けるそれは頬を伝い姫子の膝を濡らしていく。
乃々花が切望していた未来の絵図。とうてい実現しないと諦めていたのに、今目の前にいる友人は出来て当たり前のように言ってのけた。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。幸せなことがあるだろうか。
いや違う、と乃々花は胸中で頭を振った。
今が幸せなんじゃない。これからが幸せになっていくんだ。
視界が完全にぼやけてしまい乃々花はメガネを押し上げるように目を腕で押さえた。最近二人の前で泣いてばかりだ。けれどそれを全然恥ずかしいと思わないのは、頭や肌を優しく撫でてくれるあたたかい手のお陰かもしれない。
「あ、忘れるところだった。乃々花にキスしてあげないと」
「え」
乃々花が腕をのけて確認する前に、恵が顔を傾けて唇を重ねた。最初は驚いたものの慣れ親しんだ感触に乃々花の心が落ち着いていく。すぐに涙は止まり、乃々花は腕を恵の背中へと回してそのキスに応えた。
「うわ……私の膝の上でキスしてるのすっごいドキドキする」
「ん――その感想乃々花みたい」
「そりゃあ私と乃々花ちゃんは百合好きの同志だもん」
姫子が嬉しそうに言いながらキスをする二人の頭を撫でた。しばらくそのまま見守っていた姫子だったが夢中で唇を合わせ粘ついた水音をたてている二人を前にしてついに限界が訪れる。
「の、乃々花ちゃんの次は私の番だからね! 宿題が終わったご褒美まだあげてなかったから!」
「――くす、だってさ乃々花。たまには焦らしてみる?」
「わ、私はもう大丈夫だから姫子ちゃんの方に行ってあげて」
「お母さん想いの優しい子だことで。ほら、姫子――」
恵が上体を起こして姫子を呼ぶと、姫子はすぐさまその唇に吸い付いた。荒い息を吐きながら先程よりも更に激しく何度も何度も口づけを交わす。
その様子を下から見上げていた乃々花がメガネの位置を整えてから片手で自らの口を覆った。
「え、なにこの視点……私の上空で二人がキスして……あんなに夢中で舌絡めて……あぁぁぁぁちょっと待って、この構図描く! 描くからそのままで! メモ帳メモ帳!!」
乃々花はポケットを乱暴にあさってメモ帳とペンを取り出すと、目の前の光景をクロッキーし始めた。おおまかに二人の輪郭を取りながらテンションを上げていく。
「もっと舌伸ばして! その次は唇を押し付けるように! ほぁぁぁぁ、いい……すごくいい……さながらこれはキスのプラネタリウムやでぇ……空を満たす二人のキスと耳に届いてくる艶かしいBGMがたまりませんでうぇへへ……あ、ふ、二人の混ざり合った唾液を、わ、私の顔に落としてはいただけないでしょうか!? さながら流れ星のように!!」
「……さっき姫子が乃々花に似てるって言ったけど訂正するわ」
「うん、ちょっと私はあそこまで至れてないかなぁ……」
その後乃々花がクロッキーに満足するまで恵と姫子はキスをし続けたという。
学校が始まって少し経ったある日、乃々花は二人を家に呼んだ。
いつになく神妙な面持ちで話を切り出す。
「ひとつだけ二人にちゃんと言っておきたいことがあって。えっと、こういうのを隠したままだと今後に支障が出るかもしれないしきちんと言葉で伝えておこうと思うんだけど、いい?」
「もちろん。私たちの間で隠し事なんてしなくていいんだから」
「ひとりで悩んだりするよりはその方がずっといいね。遠慮せずに何でも言いなよ」
「ありがとう姫子ちゃん、恵。じゃあ――言うよ」
一度深呼吸をしてから乃々花は告げた。
「私、二人のことどっちも好きです!」
「…………」
「…………」
「…………」
三者三様の沈黙の後、恵が口を開く。
「え、それだけ?」
「あ、うん」
「えっと、知ってるけど」
「す、好きっていうのは友達としてじゃなくてその、お、女の子として好きっていう意味で――」
「だから知ってるって」
「で、でも恵のことが好きなのは前に伝えたけど姫子ちゃんに関しては言ってなかったはずじゃ」
「見てたら分かるって」
横から姫子が口を挟んでくる。
「乃々花ちゃんの描いてる百合マンガ、最近ずっと三人でいちゃいちゃする系だしね」
「ていうか好きでもないのにあんなキスしてたんならとんだ色情狂だよ」
次々に言われて乃々花は赤くなった顔を伏せた。普段もっと恥ずかしいことをしているじゃないかという話だが、気合を入れて打ち明けた気持ちがバレバレだったというのは精神的にくるものがあった。
「そこまで恥ずかしがらなくても。あたしも乃々花のこと好きだよ」
「私も乃々花ちゃんのこと好きー」
「……慰めていただいてありがとうございます」
乃々花のへりくだった態度に恵が頬を掻く。
「別に慰めてるわけじゃないんだけどな。好きなのは本当なんだし」
「それは友人としてではなく?」
「うーん、友人ってのとはちょっと違うんだよね。恋人に対する好きかって言われるとそれはわかんないんだけど。ただ、あたしの中じゃ乃々花は姫子と同じくらい大切な人になってる」
大切な人。そう言ってくれるだけで乃々花の胸の奥にじーんとあたたかいものが広がっていく。
恵の言葉に続いて姫子が手を上げた。
「私の乃々花ちゃんへの好きって気持ちは、こうぎゅっと抱き締めてあげたくなるような『好き』なんだ」
言って乃々花に近づいて抱き締める。
「乃々花ちゃんが悲しんでたらなんとかしてあげたいって思うし、喜んでたら一緒になって笑いたいって思う。最初は可愛い妹みたいだなって思ってたんだけどいつの間にか乃々花ちゃんへの『好き』の大きさが恵ちゃんへの『好き』と同じくらい大きくなってたの。ちなみに恵ちゃんへの好きは私を抱き締めてほしいって感じの好き」
「はいはい、今抱き締めてあげるからね」
恵が両腕を大きく広げて乃々花ともども姫子を抱き締めた。
「私がやってほしいって思ったことをすぐやってくれる恵ちゃん大好き」
「当たり前でしょ。いつだってあたしは姫子のことを考えてるからね。もちろん乃々花のことも」
「乃々花ちゃん聞いた? 二人で恵ちゃんが恥ずかしくなるようなお願い事して困らせよっか――乃々花ちゃん?」
途中から反応のなくなった乃々花を姫子が窺う。
「……小さい声ですっごい『はわわはわわ』って言ってる」
「このまま抱き締め続けてたらそのうち疲れておとなしくなるでしょ」
「完全に赤ちゃん扱いだね……こうしてみるとやっぱり私たちの関係って家族が一番近いのかな」
「随分と大きな赤ちゃんだけどね」
「養子縁組しゅるぅぅ!」
「うわぁしゃべったぁ! いや普通だわ」
「よしよーし、乃々花ちゃんは養子になりたいんでしゅか?」
「なりたいでしゅ……普通養子縁組なら独身でも二十歳以上から可能でしゅ……同い年でも誕生日が違えば出来るんでしゅ……」
「めっちゃ調べてんじゃん……」
「別に養子にならなくてもいつでも甘えていいでしゅからねー」
「わぁーい」
「姫子は姫子で何か手慣れてるし。――まさか乃々花以外にも子供が!? 隠し子!?」
「愛する妻の不貞を疑うなんて悪いお父さんねー。いっそ本当に乃々花ちゃんと浮気しちゃおっかなー」
「子供とって考えるとそれはそれであぶない感じがする」
「はぁはぁ百合カップルが娘と浮気とかちょっとインモラルがすぎませんかあぁでも娘をダシに使って結果としてお二人がいちゃいちゃしてくれるのならそれはそれで尊いから全然オッケーだしむしろダシにしてくださいって感じなんですけどでもその場合はお二人のすぐ近くでいちゃいちゃを観察させていただければと思う次第でもちろん邪魔なんてするつもりは微塵もないですしなんだったら私はダンボール箱でも被って置物と化していますんでお二人で存分に肌を重ねていただきたくあぁ嘘です置物になんてなれないから同じベッドの上で360度観察させて――」
「うわ乃々花に変なスイッチが入った」
「今のは半分くらい恵ちゃんのせいだよね」
「あたしのせいかな……?」
「責任とって私たち二人の面倒をちゃーんとみてね。どっちか仲間外れなんてイヤだから」
「まぁ、姫子と乃々花がそれを望むのなら喜んで」
姫子が微笑むと恵が二人に順番に口づけをした。それは将来を約束する為のキスだった。
妄想を捗らせていた乃々花がキスをされて正気に戻る。ひとつ大事なことを思い出した。夏休みの最後の日、恵と姫子が言ってくれたことに対して乃々花自身の意思を答えていない。
言葉にしなくても二人には伝わっていることは分かっている。それでもきちんと自分の口から言っておきたかった。
乃々花は体をゆっくりと離すと姫子の手を右手で、恵の手を左手で握った。
手というのがどれだけあたたかく柔らかく、繋ぐだけで心が弾むものかを教えてくれたのは目の前の二人だった。
乃々花は背筋をまっすぐ伸ばし、ズレたメガネも直さずに二人の瞳を交互に見た。
目と目が合うだけで心がくすぐられるような嬉しさが湧き上がるのだと教えてくれたのはこの二人だった。
恵と姫子に出逢わなければ一生知ることのなかった感覚。
きっとこれが人を好きになるということなのだろう。
だからこそ乃々花は願う。
「私と、ずっと一緒にいてください」
乃々花の言葉を受けて恵と姫子が顔を見合わせて笑った。それは『1+1』の答えのようにあまりにも簡単なものだったから。
「「もちろん」」
満面の笑みで二人が乃々花の手を強く握り返した。そして互いに空いている手を繋ぎ合う。
まるで小さな子が輪になって踊るときのようではあったが誰もそれを恥ずかしいと思うことはなかった。
三人が座って手を繋いだこの形は輪というには少し歪で、けれど乃々花にとっては何よりも嬉しい形だった。
手と手が結んだこの距離は決して離れることはない。
これから先、たとえ何年、何十年経ったとしても。
終
続編の希望があったのでこの三人のお話をまた書いてみました。
前話、前々話はシリーズからどうぞ。
三人での恋愛というのは難しいですが、三人ともが納得した形に収まるのならどういうものであれ幸せの形なのではないかなと思います。