眼球
──私が山奥にある廃病院に一人で行くハメになったのは、はずれくじを引いたせいだった。
夏休みに肝試しへ行こうということになり、近くの山にある廃病院へ友人たちと向かい、少し離れたところにテントを張って一晩を明かすための拠点とした。
当初は全員で行こうという話になっていたが、誰が言い出したのか、この中から一人を選出して行かせようという正気の沙汰とは思えないような案が出てしまった。酒が回りに回った馬鹿どもはこれを嬉々として了承。携帯のくじ引きアプリをつかって生贄を選出することになってしまったのだ。
メンバーは男5人に女3人の8人グループで、確率は1/8。まぁ当たる筈もなかろうと考えて画面をタップしたのだが、結果は当たり。はずれとも言えるが。軽快な音とともにラッパを吹いて現れ、ウィンクをするデフォルメ調の天使に対して苛立つよりも先に、頭が真っ白になった。
「え、嫌なんだけど……」
馬鹿どもは聞く耳を持たない。飲めないながらもアルコールを体に注いでおけばよかったと後悔した。頭を抱えていると、横からカメラを渡され、手術室を撮ってきてくれと言われた。手術室はまずいだろう。病室と違ってほぼ100%死人が出てる部屋だ。定番といえば定番なスポットではあるものの、逆に考えれば定番になるほどやべーのである。
私は、ぎゃーぎゃーと騒いで何時に出発かを話し合う周囲を眺めながら、死刑を待つ囚人のような気持ちになっていた。
「じゃあ、夜中の2時に出発ってことで」
始めに肝試しに行こうといった男が時計を見ながら私に告げた。
「行くなら今からでもいいでしょ……。なんでわざわざそんな時間にするのよ」
「2時って、一番幽霊が出る時間らしいんだよ。雰囲気としてはサイコーじゃん?」
ニィと笑う男をぶん殴りたくなった。そもそも、女の子を一人で行かせようとしてる時点で頭がおかしいと思う。だが、残酷にも文句を言っているうちに時間は進んでいく。諦めがついたころには、2時になってしまっていた。
「時間だぞ」
「手術室を撮ってくればいいのね?」
「そーそー。めっちゃ楽しみにして待ってるわー」
「くたばれ」
懐中電灯を持って……という定番な流れはなく、携帯のライトを使っての突入となる。モバイルバッテリーは、グループのメンバーが持っているものから3つ程渡された。電池切れの心配はないだろう。
「じゃ、行ってくる」
「うわー、今更だけど、俺くじではずれ引かなくてよかったわ」
「今それ言う?」
廃病院へ向かうと、背後の明かりが薄れていくのを感じる。冷や汗が流れているようなきがした。笑い声が遠のいていく。何か視線のようなものに囲まれているような気がする。あぁ、最悪だ。安易に肝試しなんて行くんじゃなかった、と今更ながら思った。
携帯の明かりは、外を照らすには頼りない。足元がわかる程度だ。懐中電灯が欲しくなった。自分から少し前だけが照らされ、風の音だけが聞こえる道を歩いていく。ざわざわ、なんてやさしい音ではなかった。
さぁ…さぁ…という不定期な葉擦れの音が妙に耳に張り付く。
周りを気にしてはいけない、という気持ちが大きくなる一方、周囲を見渡して叫んで元の場所に帰りたいという気持ちも同時に高まっていく。ひたいを手の甲で拭うと、汗がぐっしょりとついた。想定よりも廃病院が遠すぎる。
自然と早歩きになる。安全地帯はもう近くはない。誰にも守られていないという感覚が、恐怖を増幅させる。もし仮に、ここで横から何か出てきたら私は死ぬ自信がある。心なしか、誰かの息遣いが聞こえるような気がした。
「いや……」
気のせいではない。確かに誰かの息遣いが聞こえた。はぁ、はぁという吐き出すような音は、幻聴ではなく、確かに耳に届いていた。
「誰……?」
返事はない。
「誰か、いるの……?」
少しだけ、声を張って再び周囲に問いかける。
「そこに、だれかいるのか」
声が、返ってきた。背筋が一気に凍る。思考も停止した。あまりの恐怖に歩みが止まり、後ろへ逃げ出そうとするが、震えて動けない。
「だれも……いないのか?」
問いかける声。答えてはならないという本能の危険信号とは反対に、私の口は開いていた。
「い、います」
「いるのか。はぁ……よかった。ごめん、水とか、なんでもいいんだけど……持ってない?」
声のする方に携帯のライトを向けると、そこにいたのは、大量の汗を流して木にもたれかかっている少年だった。走ったのだろうか、息切れしており、聴こえた息遣いは彼のものだと分かった。
「麦茶なら、あるけど……」
「はぁ、すこし、もらえないかな……ぁ、はぁっ……」
思わず麦茶の入った水筒を渡すと、少年は一気に水筒を傾け、麦茶を飲みだした。すこしじゃねーじゃんとは思ったが、落ち着いた様子の少年を見て、何も言わないことにした。
「何してんの、こんなとこで」
「逃げてきた。あそこから……」
少年が指さしたのは道の先、廃病院だった。
「えぇ……やっぱやばいとこなんじゃん……」
「そりゃ、そうだよ。あそこは…………あれ、なにがあるんだっけ……」
おかしいな……と少年はうなった。少年を連れて引き返そうかと考えたが、ここまで来てしまったのだ。せめて一目でも廃病院の姿を見ないと気が済まない。大丈夫そうなら手術室も撮ってきてやろう、そう思った。
「まぁ、なんでもいいけどさ、あっち、この先歩いてけば私の友達がテント張ってるから、病院であった話でもしてあげなよ」
「え、お姉さんは戻らないの?」
「私は手術室の写真を撮ってくるっていうミッションがあるからなぁ」
「やめといたほうがいいよ……」
「忠告はうれしいけど……殺されはしないっしょ。それとも人間に追われた?」
「いや……多分違う、と思う……」
「でしょ。帰ったらお祓い行かなきゃなー……」
そう言いながら廃病院へ向かおうとすると、少年が慌てて腕を掴んできた。
「俺も、ついてくよ」
「いや、逃げて来たのに?」
「……女の人を一人で行かせられないよ」
ときめかなかったと言えば少しだけ嘘になる。
「あっちの馬鹿どもとは大違いね、ほんと……。じゃ、ついてきて。私も二人の方が心強い」
「わかった。………あ……麦茶全部飲んじゃってごめん……」
「え、あんた全部飲んだの? うっそでしょ」
「ほんとごめん……」
少し前まではあんなにも心細かったのに、今では軽口が叩けるほどに心が安定していた。もう一人いるだけでここまで心強いとは思わなかった。
しばらく進むと、何かの人工物が見えてきた。目を凝らすと、門であることがかろうじて分かる。
「ここか……」
「ま、まって」
少年が足を止めた。
「なによ。ビビった?」
「いや……なんか……。う……大丈夫。行こう……」
門を抜けると目の前にあるのは四階建ての廃病院だった。テレビで見るような心霊スポットロケとは雰囲気が違う。まず、光量が足りていないのだ。入口を少し照らすことが限界で、他は殆ど見えやしない。
うっすら輪郭が分かる程度で、建物の端はよく見えない。
ライトを上に向けると、いくつか窓ガラスが割れていることに気が付いた。
目を凝らすとこちらを見返す無数の
かお、顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔──おいで。
「──えっ」
「見ちゃダメだ!!」
少年が腕を引っ張って叫んだ。ハッとして下を向く。
「あれ、なに。なに……? なんなの……?」
堰を切ったようにあふれ出す大量の恐怖。割れた窓ガラスのその向こうを見ようとした瞬間、自分の中のダイヤルが回ったような感覚があった。その瞬間、二階の中央の部屋から覗いている大量の────
「顔……そ、それも、目が……」
なかった。暗闇の中でもはっきりと認識できるような、しわくちゃで青白い顔と、暗く淀んだ眼孔が、こちらをじっと見つめていた。あの一瞬で見えた範囲では、窓中にそれが張り付いていたのだ。
「呼んでた、呼んでたんだ……だから、私、怖いのに、まぁいいやって……」
「引き返そう、ここにいちゃだめだ」
少年が私の手を引く。しかし、私は動くことができなかった。
「だめ、ちがう、よんでる、だめ……」
思い出したかのように溢れている恐怖と同じぐらい、あの部屋に行かなければという気持ちが湧いてくるのだ。
「これから、逃げてきたの……?」
「……多分、そうだと思う」
「なんで呼ばれてるの……? あれは、何を求めてるの……?」
少年が上を向いた。怯えていた筈の少年は、しっかりとした力で私の手を握っている。
「ここを荒らさなければ、危害を加えるようなことはしないと思う。でも、なんで呼んでるのかまでは……」
「仲間に加えようとか……そんな感じじゃないの……」
前を向くことすらできなかった。手の中は汗が流れだすほど湿り、シャツはぴったりと皮膚に張り付いている。行かなければならないという気持ちは収まらない。少しでも気を抜けば、さっきのように堂々と廃病院に入ってしまうだろう。
「何かを、してほしいのか……?」
「してほしい?」
「……あの部屋から出たがってる。でも何かしらの理由があって、あれはここから離れられないんだ……」
淡々と話しながら、上にいる何かを少年は観察している。
「助けを求めてる、ってこと?」
「……そこまでは分からない。悪意は無いけど、その結果害されるってこともありそうだし……」
「じゃあ、行かなきゃ」
気が付けば、私は顔を上げ、廃病院の玄関をじっと見つめていた。
「……戻ろう」
少年が弱く手を引く。私はそれに対して首を振った。
「あの部屋に、行かないと。私、一人だけでも」
少年は、何も言わなかった。まだ、私の手は震えている。恐怖は消えていないのに、体が勝手に動くのだ。誘われているせいだと分かっていても抗うことができない。気が付けば私は廃病院に入り、受付と書かれ吊るされている看板の下に立っていた。
「かなり、老朽化してる。足元気を付けて」
パキ、と足元でガラス片が割れる音がした。携帯のライトで周囲を見渡すと、落書きだらけでボロボロな壁や、散乱した紙屑、布切れ、ぐちゃぐちゃに湿ったソファが視界に入った。
「……行きたくない、やだ……やだよ……」
音は聞こえない。どれだけ照らしても奥が見えない通路から、何かがこちらを見ているような気がした。自分は今からそこへ向かわなければならない。今すぐに帰りたいのに、帰ろうとすると恐怖心が消えてなくなり、あの部屋に行かなければならないという使命感に体が動かされる。
背中に、手が当てられる感触があった。
「……大丈夫?」
心配そうに少年がこちらを見つめる。
「行かなきゃ……だめなの……」
「かなり強く引き込まれてる。直接見えるほど波長が合ってしまっているのかもしれない」
「そういうの、詳しいの……?」
この少年、幽霊を直接見ないように言ったり、何を求めているのか考えることができたりと、かなりこういうことに詳しいのではないかと思う。しかし、そんな人物が息を切らして逃げ出すほどの場所。本人も恐怖でいっぱいである筈なのに、まだこちらを心配している。
「まぁ、趣味程度で……こういうの、見えやすい体質だから」
「そう……」
何気なく、目を通路に向けた。無数の扉が横に並び、その奥は暗闇に包まれて見えない。吸い込まれるように、数歩前に進むと、腕を掴まれた。引き留めてくれたことに感謝しながら少年の方を振り向いた。
「また……なんでだろ────」
振り返ると、あの部屋にいたはずのそれが、そこにいた。腐敗した液体が眼孔から流れ、歯のような何かを口からこぼしなら、それはこちらを見つめるように立っている。
声がでない。それは腕を掴んだまま、微動だにしない。
「し……せ………」
虫が全身を這いまわるような悪寒で吐き気がこみ上げる。
「ぁ……」
突如、それは、腕を掴む手を離した。表情も変えず、暗い眼孔をこちらに向けながら、こちらを見つめていたそれは、ピントが合わなくなって見えにくくなるように、ゆっくりと消えていった。
「い、いま……手……」
「……今の、お姉さんに何かしようとしてた」
少年が冷や汗を流しながら呟いた。
「はやく、へやに……」
駄目だ、思考が鈍る。それに掴まれたせいか、全身が重たい。
「腕、みせて」
「え……?」
少年が私の腕を掴み、携帯のライトを向けさせた。特に、何もない。
「……霊障は、ない。取り憑かれた訳じゃないよ」
「う、うん」
「本当は引き返したいけど、ここまで来たら多分戻れない。ずっとここにいるわけにもいかないし、あの部屋に向かおう」
「……わかった」
先導するように少年が前に出る。向かう先は暗闇で先の見えぬ通路。呑み込まれていくようにゆっくりと暗闇へ進んでいく。
通路に並ぶ扉は、窓ガラスが割れ、部屋の中が晒されているのが分かる。骨組みだけのベッドに、壊れた棚。足の踏み場も無いほどに布や紙が散乱しているような部屋もあった。
前に視線を戻すと、少年は変わらず前へ進んでいく。先の見えない廊下を歩いていくと、暗闇が少しづつ下がっていくような気がした。背後を見ると、先ほどまで立っていた場所は既に暗闇に包まれており、私が一歩前に進むたび、暗闇も一歩こちらに近づいてくる。気が付けば、前も後ろも暗闇に挟まれていた。
「っと」
突然、少年が足を止めた。思わずぶつかりそうになり、前のめりになる。
「……」
少年が横の扉を見つめていることに気が付く。その方向を見ると、窓ガラスもない錆びて薄汚れた鉄の扉が異質な雰囲気を出していた。
「ここだけ、他の扉と違う……」
「……中に何の気配もない。ここに立っているだけで視線を感じる程気配が充満してるのに、この向こう側だけ何もいないみたいだ」
「じゃあ、この中なら、大丈夫……?」
「……開けてみよう」
ドアノブに手をかけようとする少年の肩を掴み、静止させる。
「私が開けるよ。周囲をお願い」
「分かった。気を付けて」
携帯のライトで照らしながら、ドアノブを掴む。生ぬるい温度を感じながら、ゆっくりと回した。錆びついているせいか、かなり重たい。扉を引くときも、かなり力を籠めなければ動かなかった。
扉は錆が擦れる音を立てながら開き、部屋の中をゆっくりと晒した。
「何かの資料室……?」
暗くてよく見えないが、いくつもの棚が見える。部屋も広くなさそうだった。恐る恐る部屋の中に足を踏み入れると、息苦しかった視線のような感覚が急に途切れたのを感じた。少年も、周囲を見渡しながら部屋に入る。
「壁中に鉄板が貼ってある。多分、それが魔除けになってここには入ってこれないんだ。……見つけられない、と言った方が正しいかも」
天井や壁を眺めながら、少年は言った。
「すごい数のビン……」
部屋が狭いため、携帯のライト程度で部屋全体をうっすらと照らすことができた。いくつもの棚には、ぎっしりと資料が詰め込まれていたり、ビンが並べられていたりしている。
ビンを手に取ると、かなりの重量感を感じた。中は曇っていてよく見えない。棚にビンを戻そうとすると、自分の手が黒く汚れていることに気が付いた。
ビンが曇っていると感じたのは、この汚れのせいだったらしい。手元に引き寄せ、手のひらで汚れを拭う。汚れが取り払われたビンは、その中身を晒すことになった。
それは、眼球だった。神経がくっついたまま、二つの眼球がビンの中に入っていたのだ。動かしたことで中の眼球が揺れ動き、不均一な重さを手に伝える。
「ひっ!?」
思わず取り落としそうになるが、寸前で棚に転がして入れることができた。ビンは棚の壁にぶつかって止まり、茶色く染まった液体の中に浮いている眼球がこちらを向いた。
「な、なんでこんなもの……」
「……これを探してたんだ」
別の棚にあるビンを手に取り、少年は言った。その声はひどく震え、少なからず少年も恐怖を感じていることが分かった。
「だから奴らには眼球がなかった。何も見えないから、こんな単純な鉄板が貼られただけの部屋を察知することができなかったんだ。一階にいた霊も、二階の無数の霊も、みんな眼球を探してた。……だから、お姉さんならみつけられるかもしれないと思って、必死に引き留めてたんだよ」
「なら……」
悲しそうな眼をした少年がこちらを見つめる。
「眼球の部屋は解放された。あとはここの霊に知らせるだけ。……二階へ、急ごう」
部屋を出て廊下に戻ると、張り付くような視線を再び感じるようになった。
「多分、一階にいる霊は僕らがここから出たとき、この部屋の存在に気が付いた。あとは二階だけ」
正面の暗闇は消え、二階へと続く階段がその姿を露わにしていた。階段に足をかけると、ぎぃ、ときしむ音がして、靴がすこしめり込んだ。腐っているのか、所々剥がれ、木材が抉れているような箇所もあった。
二階へ上がると、一階と同じように扉が並ぶ廊下があった。その扉の中で、明らかに何かが這いずり回っているような気配がするものを感じた。その扉付近の窓ガラスは割れておらず、あの霊達が閉じ込められたまま出られない理由が分かった気がした。
「……開けるよ」
少年の言葉に小さくうなずくと、木製で腐りかけの扉が開く。私は、扉の開かれる速度が、妙にゆっくりとしたものに感じた。どろりとした臭いが、あふれるように扉の向こうから流れ出てくる。
そこには、何もなかった。
────おびただしい数の、白骨死体以外は。
「……この部屋は解放された。扉をあけたとき、一斉に一階へ降りて行ったから。きっと、彼らもようやく眠りにつくことができるだろうね」
「この白骨死体、全部……」
「……ここは孤児や障害者を引き取っていた病院らしくてね、院長は患者から眼球を抉っては殺し、この部屋に死体を放り込んでいた。その理由が金儲け目的だったのかは書いてなかったけど」
少年は先ほどの部屋から持ち出していた資料を揺らしながら言った。そして、白骨死体の前にしゃがんで手を合わせ、憐みの籠った目を向ける。
「どういうこと……?」
「生きたまま、眼球を抉られる。辛かっただろう、痛かっただろう。誰にも伝えられず、ただこの部屋に閉じ込められ続け、なんとかこの部屋から出られた一階の霊たちも、見えないままじゃあ眼球を探せない」
彼らは、ただ眠りたかっただけなんだろうね。
少年は、そう呟いた。
「ようやく、眼球へと繋がる扉は開かれた。……お姉さんのおかげだよ。僕だけなら、絶対にここに戻らなかった」
「そっか……」
その言葉を聞いて、私は誰かを助けたのだということがようやく理解出来た。眼球を奪われ、眠ることができないまま閉じ込められ続けた霊たち。誰かを害そうともせず、ただひたすらに助けを求め続けていた彼らを、私は解放してあげられたのだ。
大量の白骨死体を見て思うのは、不快感でも同情心でもなく、ただ安らかに眠って欲しいということだけだった。
「────じゃあ、ここでお別れだね」
突然、少年は立ち上がると、悲しそうに笑ってそう言った。
「え?」
「……ここの幽霊、多分なんどもお姉さんに取り憑こうとしてた。一階の幽霊なんて直接触れてたのに、それでもお姉さんは取り憑かれなかった。……どうしてだと思う?」
「それは、わからないけど……」
近くに別の人が居たから取り憑けなかったのか、私が取り憑かれにくい体質だったのか。様々な理由を考えるが、これと言ってしっくりくるものは思い付かなかった。
「既に、僕が取り憑いていたからだよ」
そう言って少年は手に持っているビンをこちらに見せた。ラベルが貼られ名前が書かれたその中には、黄ばんだ液体に眼球が二つ浮いていた。
「これが、僕の目だ」
「なに、いって……」
「僕は、この病院がおかしいことにすぐに気が付いた。孤児として連れてこられただけだったから、判断能力があった。だから逃げ出した。走って、走って。でも、捕まって。……お姉さんと会ったあの場所で、僕は殺され、眼球を取られた。ただ、僕の場合は殺された後だったから、眼球がなくなっていることに死んだ後も気が付かなかったんだ」
このビンを見つけるまで自分が死んでたことすら気が付かなかったし、と少年は笑った。
最初に出会ったとき、少年は私に無意識に憑りついたからこそ、あの木の下から動くことができたのだという。少年が憑りついていたからこそ、私は他の幽霊から守られていたというのだ。
「こんなもの見つけたって、意味、ないのにさ」
少年の目に涙が浮かぶ。
「僕はこんなものに執着はない。だから消えることができなかった。だから、ここに残り続けるしかないんだ」
「全部思い出したんなら、なにかやり残したことこと、とか………」
「うん。願望ならあるよ。僕は、誰かに助けて欲しかった。ただ理不尽に殺されたこの場所から助けて欲しかったんだよ」
ビンを床に置き、少年は疲れた顔で溜め息を吐いた。
「おかしいよね。もう死んじゃってるのに、どう助けろって言うん───」
私は、少年を抱きしめていた。驚いているのか、少年の体が固まったのを感じる。
「……私は、君が助けてくれたから無事でいられた。どうすればいいのか……わかんないけど、君の未練が無くなるまで、私に憑いたままでいいからさ。……これ以上、泣かないで。そんな、悲しそうな顔、しないでよ」
少年が息を吐くのが分かった。
「……ずっと、未練が無くならないまま居続けるかもしれない」
「気にしない。君、幽霊っぽくないし」
「幽霊っぽかったら気にするの?」
「えっ。あー……いや、そんなことは……」
かっこつけた癖に、戸惑いを隠せなかった。焦る気持ちが込み上げる。
「……あぁ、うん。そっか」
ゆっくりと。背中に細い腕が回され、優しく抱きしめ返された。少年の体は小さく震えていて、泣いているのだと気付いた。
「僕は、助けて欲しかったんじゃ、なかったのか」
「一度で、いいから……。誰かに、こうして……」
気が付くと、少年は消えていた。それは一階の霊が消えたときのように、ピントが合わなくなるような消え方ではなく、初めからそこに何もいなかったかのようだった。ただ、わずかに体に残る暖かさが、少年がここにいたことを思い出させた。
*
あの廃病院から見つかった大量の白骨死体は、すぐさまニュースになった。特に、有名な心霊スポットであるはずなのになぜ今まで気が付かれなかったのかという点で、数日間、多くの専門家がテレビで議論しているのを見た。
消えた院長の行方や、なぜ眼球がビンに詰められていたのかなどいくつもの憶測が立てられ、やがては誰もそのことについて話さなくなった。
現在、廃病院は取り壊され、犠牲者の慰霊碑が立てられている。常に花が数本そなえられ、誰にも気付かれなかった恐ろしい事件を語る言葉が刻まれている。
私は、慰霊碑の前に花を置いたあと、少年と出会ったあの木の下に立っていた。
「喉、乾いたでしょ」
木の前に立てられた石の杭に、水筒から麦茶をかける。彼は、私がいなければ彼らを解放することはできなかったと言っていた。だがそれは私も同じなのだ。私も、彼が守ってくれたからこそ正気を失わずに彼らを解放できた。
……彼は、ちゃんと救われたのだろうか。
「いいよ。……全部飲んだって、怒らないから」
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