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聖なる酔っ払いたちの伝説

作者: @UMA

 まぶしい光が初春に萌える若草を引き伸ばす河原。ジーパンにポロシャツといった、いかにもラフで休日の父を演出した紳士は、しかし背広のほうがよっぽど似合う風格を背負いながら、愛する忠犬のリードを引きつつその河原へと続く坂を、若芽を踏みしめつつ下っていた。偉大なる紳士の目前には川を渡す橋があった。橋の下の河原の影、橋の根本で一層影の濃くなった部分である。いかにも宿無しのねぐらとなりそうなそこには、やはり例に漏れず宿無しの男がいた。「我が庵」とその男が名付けた段ボールに挟まるようにして、宿無しは眠りこけていた。振り返れば紳士のつけたはずの草の足跡は、すでに消えていた。


 眠りこけるその男こそが、安藤であった。安藤を飾る言葉は幾種類も挙げられようが、結局は彼を取り巻く環境大きく引き付けられたものに収斂しよう。つまりは宿無しである。ただの宿無しではない。一端の宿無しには持ちえぬ誇りを「我が庵」の中に抱えて眠る宿無しだ。

「我が庵」の中で安藤は重い瞼をこじ開けた。この生活を始めてはや数年、例え橋の影であろうとわずかに感じる朝日の陽気にあてられれば起きてしまうものである。無論眠気はまとわり続けるが、振り払いつつ「我が庵」から這い出る。河原に住む利はまさにこれ、と川に近づくと水面に映る自身の尊顔を一瞥たりともくれずに掬い消す。何一つ遠慮することなく、これでもかと顔に水をこすりつけるのが安藤の日課であった。

「やぁ、とてもすばらしい朝だね。こんなに素晴らしい日は神が素敵な出会いを与えてくれるというものさ。」

唐突にかけられたハキハキとした明朗な声にぎょっとしながら振り返る。安藤の前には犬を引き連れた紳士が立っていた。とてもその場には似つかわしくない御仁がたっているのである。安藤は重い一撃を与えられた。頭のてっぺんから足のつま先の爪の間を見透かすまでにたっぷり眺めまわして心の平静を取り戻していると、忠犬が「わん」と一声鳴いた。

「宗教の勧誘なら間に合ってますぜ。俺にはいつもの朝でしかないし、あなたの素敵な出会いが俺だっていうならそれもきっと間違ってますぜ。」

ややつっけんどんに返したつもりが、紳士はにこやかな表情をまったく崩さない。

「いやいや、間違いなくこれは素敵な出会いさ。そしてそれは君にとっても。実は君に頼みたいことがあるんだが、聞いてくれないかね。」

頼み事。思いがけない言葉に口の中で二度ほどつぶやいた。心の距離は容易に埋まらないものであるのは世の常だが、この場合はむしろ広がる様相だ。

「頼み事、ね。いや旦那、胸を張っていうことじゃないんだが、俺は何も持ってないし、俺にしかできないことなんてものもない。きっとそこらで小学生でも捕まえてお願いしたほうがちったぁマシな結果になるというもんです。」

 紳士は少し詰まるような笑い声を漏らした。

「いやなに、そんなに難しいことじゃないんだが、君にしか頼めないことなんだ。」

「そこまでいうのなら俺も別に鬼じゃねぇ。話を聞かせてもらいましょう。けど、なんだ、お駄賃はちょっとばかしいただきますぜ」

 安藤渾身のビジネススマイルである。それも数年ぶりとあってか右口角だけがいやに吊り上がる不気味なものとなってしまったのも仕方がないことであろう。紳士はそれを気にしたふうもない。そこは背広の風格の百戦錬磨の為せる技か。

 「実は頼み事というのもなんなんだが、こいつを受け取ってもらいたいんだ。」

 そして紳士の懐より取り出されたのは何の変哲もない茶封筒であった。何が入っているのやら、ほのかに厚みをもっていた。安藤の脳裏には瞬時に危険な薬物の可能性などが浮かび、むしろ納得した。

 「そいつはクスリかなんかですかい。それなら確かに俺みたいな宿無しを頼るのもわかる。ですがね、旦那。俺は金には困らないことはないってくらいだが、お天道様が見てるんです。正義なんてもんは知らねぇが、悪いことはしないって決めてるんです。あんたから見たら惨めな俺にだって、それくらいのちっぽけな誇りの一つや二つはあるんでさ。」

 「早とちりはしないでくれよ。こいつは金だよ。二十万入っている。これを君に受け取ってほしいんだ。」

 軽い調子で笑いながら紳士が茶封筒から抜き出したのは、確かに立派な札束であった。神々しくすらある。しかしだからこそ安藤の猜疑心はうってかわって大きく煽られる。

 「どういうことですかい。俺にはよくわからない。もし、それが俺を憐れんでのものっていうなら、受け取れませんぜ。何度だっていうが、俺にだって誇りがあるんです。」

 紳士の手の内の札束は、それはもう蠱惑な引力を放っていたが、その誇りとやらが安藤の足を一歩後ろへと引かせた。何度でも繰り返そう。彼は誇り高き宿無しであった。

 「君の気分を害したのなら謝罪したい。しかし聞いてくれ。昨晩私の枕元にそれはそれは神々しい御仁が立ってね。彼が言うのさ。この河原で出会った男に金をくれてやれ、と。それで私は救われるとね。半信半疑で来てみれば確かに御仁の言う通りだ。だからこれは君にとっても私にとっても素敵な出会いなのさ。人助けをすると思って受けっとってくれないか。」

 「俺は、最初に言ったように神は信じねぇんだ。いたらこんな生活してねぇ。」

 「そうだろうとも。だからこれはきっと私にとっての救いなんだ。君は私にとっての救世主だ。あなたがこれを受け取って私に借りを感じるというのなら、教会にでも寄付してくれるといい。」

 一呼吸。紳士の愚直なまなざしと、忠犬の見透かす瞳が安藤を貫いた。吐き出す。

 「そこまでいわれちゃ断れねぇ。俺の誇りもわかってくれたみたいだ。しかしきっと旦那の期待には応えられねぇですぜ。酒になって消えちまうかもしれない。」

 渋々ながらに手を差し出すと、紳士は渡すついでに安藤の手を両手で潰さんばかりに握りしめた。

 「ありがとう。ありがとう。それでかまわないよ。今日は何と良い日なんだ。君にとっても良い一日であらんことを。」

 もう一度確認するように安藤の手に札束を握らせると、憑き物でも落ちたかのような晴れやかな笑みを浮かべ、忠犬を率いて紳士は去っていった。安藤は手の中の、吹けば飛ぶ重みに浸り、これからを夢想した。


 誇り高き我らが宿無しは、たいそうな大酒ぐらいであった。空き缶を集めて得たわずかな金で近場のうらぶれた酒屋でいっとう安い酒を買い込んで、公園の水道で嵩を増してはひねもすちびりちびりとやり続けるのが流儀であった。しかし今、安藤の懐のうちには輝かしき札束が今や今やと飛び出すのを待ち構えている。神など一切信じぬが、まさしく天より降って湧いた金なのだ。金は説教を垂れぬし、天地のどちらにも人を誘いはしない。派手に使ってこその物種であると何度も自身に言い聞かせる。それが彼の足にうらぶれた酒屋を飛び越えさせ、立派な酒場へと誘った。しかしその酒場の巨大にして荘厳なる開き戸が目に入った途端に、再び彼の誇りが眼前に立ちふさがった。彼は自らの身なりが全くもって酒場に適さないことを知っていた。足が商店街のほうへと向く。まずやるべきことが定まった。


 真昼間から似たり寄ったりの老人に紛れ銭湯で擦り切れてしまうほどに体を拭い、その身に真にふさわしい衣装を探しに人もいない商店街の奥の服屋のばあさんに、少しばかりの心づけを渡して適当に見繕ってもらう。真新しい布の匂いに包まれて、自分は一瞬にして生まれ変わったことを実感する。そして彼が今目の前にしているのは彼自身であった。床屋の鏡の前で今まさに久方ぶりに切られようとする髪を見つめていた。

 「お客さん、ずいぶんとご立派な髪ですね。どんな髪形にいたしましょうか。」

 「俺にはよくわかりませんで、兄さんのおすすめでお願いしますわ。」

 さも昔から足繁く通った客かのような会話に鼻の穴をわずかにふくらませつつ、自在に動くはさみとともにみるみる変化を遂げていく容貌をみつめる。長らく見ようとしなかった顔だ。生き別れの兄弟に再会したようにも思えたし、全く知らない珍客に出くわしたような気もした。

 完全に変化しきった尊顔を眺めるのはさらに奇妙な体験だ。銀幕の俳優もかくや、とは果たして誇張か。

 「お客さん。こんな感じに切りましたが、いかかでしょうか。」

 理容師のもつ手鏡に照らされ、自身が見たことのない部分までくまなく露わにされる。しかし今安藤の身にまとう風格には、どの角度から見ても相応しいとしか言いようのないものだ。今ならば背広でさえ似合おうとも。この町を統べる王にさえなれる気分であった。素晴らしい仕事をした店員に賛辞をおくると、王は優雅に店を後にした。

 数年ぶりの盛大なる散財であったが、懐にはいまだ確かな重みを感じさせる金。すべてが自身を生まれ変われさせるために使用された。金はもはや彼にとっての恩人であった。その恩人様を裸のままでいさせるのは、彼の人情が許さなかった。


 目指すは財布を買える店、残念ながら安藤にはてんであてがないのだが、商店街のどこかにはあろう。足の赴くままにまかせるのみである。

 そのような気まぐれ気ままな自由旅である。それは必然であったのだろう。御用達のあのうらぶれた酒屋ではないが、一つ小さな酒屋が彼の目に留まった。それまでふらふらと彷徨うのみであったかれの両足が、途端に吸い込まれるように方向転換をしたのも、やむを得ないことであった。ただ、これは準備運動であるとだけ自身に言い聞かせる。

 店内は狭いが、四方の壁という壁は酒の詰まった棚で埋め尽くされており、さらに棚は三列ほど店内にも拵えられており、入り口からでは奥の酒まで見通せない。棚に挟まれた通路は、床に無造作に置かれた酒瓶や箱によってより一層狭く入り組んでいる。通路の奥のレジに座る老人と、その机の上でうずくまる飼い猫がそろって欠伸をした。その中を安藤はまるで意を介さずに堂々と入っていく。

 それは最も奥の奥、まるで己を恥じて隠れるかのように陳列されていた。普段安藤が愛飲してやまぬ、店の中でいっとう安い酒の缶である。棚に張り付く値札をみやる。今となっては真に笑ってしまう値段である。このちっぽけな店のなかにも高い酒はいくつでもある。しかし安藤はその酒を一つ手に取ってレジへと向かった。

 行儀がよくないことは百も承知である。しかし、店を出た安藤はすかさず缶の蓋を開けた。抜けたような音に通行人が眉を顰めるも知ったことではなかった。腰に片手をあて、缶の中身をすべて口へとぶちまける。舌先にのこるピリリとした辛さは、これまで何度も飲んできた酒であるはずが、その中でも最も美味で味わい深い衝撃を与えた。彼は今まさに、真に酒の味を知ったのである。

 新たに得た衝撃と酒にふらつく頭そのままに、財布を扱う小物売り屋に入ったものだから、多少値の張る長財布を、店員のほめるままに購入してしまったことは想像に難くないであろう。しかし、彼の懐にはいまだ多くの金が残っていた。そして彼がすでに酒場にふさわしい男へと変身していることを、自覚していた。機は熟したのである。


 決意新たに酒場の前へとやってきた。先ほどまでは店の扉は異様に重厚で荘厳あったはずだが、今となってはただのよくある木製の開き戸であった。それもそのはず、安藤自身が既に誇りのみを抱えて眠る宿無しではなく、飛ぶ鳥落とす勢いと風格を併せ持った男へと転じているのであり、見える世界もまたふさわしく転じるものである。もはや何にも遠慮をすることはない。

 一息に扉を開ける。くぐった先は一面が黒を基調としつつ、ほのかな光に満たされたた空間。店の大部分を占める大きなバーカウンタ―には夕暮れ手前の時間からか、客が一人ちびちびとグラスを傾けながら誰と語るでもなくひたすら雰囲気に溶け込んでいた。奥にはバーテンダー、糊の利いたシャツに黒いベストと蝶ネクタイでめかしこみ、何やら酒をつくっている様子。件の客から二席離れたカウンターの席を引いて腰を下ろした。カウンターの中の棚には安藤が目にしたことのない洋酒が多種多様、所せましと並べられている。普段種類も名も知らぬ安い酒で口を濡らすにとどまる男にはむしろ当然のことであろう。幸いにも簡易なメニューの置かれた店ではあったが、どちらにせよほとんど名も知らぬ酒。かろうじてジンやウォッカがわかるからこそ、それらが一際輝いて見えた。大きく一度息を吸う。

 「マスター。ウォッカを、ロックで」

 一角の男かくあらん、と意気込んだはいいものの、不慣れな言葉を三つ紡いで終わった。しかしマスターには通じるものである。沈黙を携えたままうなずくと、流れるような手際で底の浅く分厚いグラスに水晶のような氷をいれて透き通る酒を注いでいく。半分まで注がれただろうか、グラスにはまだ余裕はあるのだが、そこで酒は止まった。普段なけなしの金で得た酒を水道水で薄めてコップいっぱい並々そそいでそいつを大切に飲む性分だ。出し惜しみされたかのようで当然ながらに腹の奥で火が付くが、すぐに懐の重みに自身が大変身を遂げたことを思い出す。足りなければ何度でも頼みなおせばいいのだ。それこそが真なる酒の味を知るものの楽しみ方というものである。万化する面持ちを整えなおすと、にこりともせず差し出されたグラスを、それこそが正しい作法かのように無言で受け取った。

 試しにグラスを揺らしてみれば、からんからんと氷がはじける。やはり作法などわからぬと、決心とともに一息に呷った。酒場に乾いた木を打ち付ける音が響きわたる。右手にもったグラスを、傾けたその反動そのままにカウンターへと叩きつけてしまったのだ。マスターが非難に眉を吊り上げるも、ついぞ口は開かない。飲み干したウォッカは熱を放ちつつ喉、そして胸へとおりていく。目にこそ見えぬが、はっきりとどこを流れているのかがわかる。一度胃まで落ちたはずのその熱は、一拍の空虚とともに今度は上へ上へとせりあがって脳を襲う。ああ、我らが偉大な宿無しは慣れぬ酒に陥落したのだ。しかしながら安藤の気分は相乗して上昇し続ける。景気づけにともう一度同じものを、とマスターに大声で告げる。

 酒が入れば見えるものもまた変わる。ふと目に入ったのは、相変わらず少し離れてちびちびと酒をなめては目を閉じる男のまとう暗い影であった。年は安藤よりもいくつか下か。顔だちも体も引き締まり、うっすらと朱に染まる頬を除けばいかにも健康優良児の黄金色の肌だ。されども注意深く観察すれば、目の下にはくっきりと隈が浮かび、黄金色の中に荒れた赤を見つけ出すことは容易なことであろう。気を良くし、さらに前後不覚の寸前である安藤がそれに気づいたかは定かではないが。

 「やぁ兄さん。今日はなかなかいい日じゃないですかい。こんな日にはいい出会いもついてくるってのが相場ってもんらしい。」

 気づけば安藤は男に声をかけていた。遠慮などというものはウォッカとともに飲み干してしまった。どこぞの紳士の言を拝借した底抜けの陽気さを孕んだ挨拶は、少なくともその男に対してのものとしてはふさわしくなかったのも、至極当然のことであろう。男は一瞥をくれるのみで怒るでもなく、応じるでもなく、ただその瞳に空虚が宿るのみであった。一席分、男の方へと移動する。

 「俺はこの酒場には初めて来ましてね。ああ、もちろん普段は別の洒落た酒場で一杯やるのが日課ってやつなんだが、今日はここでいい出会いがあると思いましてね。どうですかい、一緒に飲みましょうや。酒がもっと美味くなる。」

 「僕にかまわないでください。」

 そっけなく言葉が返ってくるのと安藤がさらに男の席へと距離を縮めるのはほぼ同時であった。

 「そうはいっても兄さん、ずいぶんと辛そうな顔をしている。よけりゃ話を聞かせてもらいませんかね。」

 安藤は男へと向けてグラスを傾けた。男も元来真面目かつ、そういった教育を受けてきたのであろう、渋々ながらも乾杯の形を取られれば、それに応じずはいられなかった。

 「あなたに話してもどうしようもないことなんです。だから構わないでください。」

 「関係ないからこそ、壁にでも話す気分で垂れ流すのもいいかもしれませんぜ。そうすりゃちっとは気分もマシになるかもしれない。俺も酒を美味く飲めるってもんです。」

 「それは僕の話を肴に飲むってことですか。」

 「いやいや。ただ、酒は誰かと飲み交わしてこそ美味いもんです。」

 酒を最後に誰かと飲み交わしたのはいつだっただろうか。最早記憶も朧気であるが、その時に感じた酒の美味さをまた味わいたい一心に話を続ける。一方で男といえば、繰り返される要求にも未だ頭を抱えつつ思案するばかりであった。グラスを拭く音のみが静寂の中に響く。そして男はとうとう根負けしたか、大きなため息を長々と吐き、重い口を開いた。

 「別に面白い話ではないんです。ただ、確かにあなたの言う通り、一人でだまって酒を飲むより、吐き出して楽になった方がいいのかもしれない。」

 男の言葉に、安藤は答える代わりに一つ頷きウォッカを口にした。

 「本当はね、今日僕は結婚する予定だったんです。半年くらい前から予定していて、ずっと楽しみにしていたんだ。人生こっからが本番なんだな、なんて思ったりもしていたんです。けど結局それもぜんぶなくなっちゃいました。」

 「なにかあったんだね。」

 「彼女がね、既婚者だったんですよ。俺はそんなこと、これっぽちも知らなかった。知らなかったから親に紹介したし、本気で愛してもいた。会社の後輩、同期、上司にだって式に呼ぶために彼女のことを伝えていた。だから一か月前のあの日も、デート中に突然よくわかんない男が絡んできただけだと思ってたんだ。けどそいつが自分のことを彼女の夫だって言いだして。そっからはもうあんまり覚えてもいないんです。頭が真っ白になって。」

 人の記憶というものは、時に最も思い出したくないものに限って繰り返し思い出してしまうものである。男はこれまでにも幾度もその怒涛なる奔流に飲み込まれてはそうしてきたのであろう、グラス半分残っていた酒を一気に呷った。間を開けずに再び注文をし、グラスを受け取る。

 「そっから今日までは、それはもうすごい勢いで日が過ぎていったような気がします。彼女は俺を裏切っていたわけだし、旦那だって俺が知らなかったことなんか信じてくれない。まぁ、そりゃそうですよね。慰謝料だって請求されました。裁判なんか起こされたら怖くて仕方なくて、相手の言い分を払うしかなかった。結婚式のこと話してた人全員に取りやめになったことも伝えなきゃいけなかった。両親や会社の人らには事情も説明しなきゃいけなかったし、それからはみんなの僕を見る視線が、声が、不信感に満ちているようで。だから会社にも居づらくなっちゃって、この間やめちゃいました。両親にも迷惑かけちゃって、もう実家にも居場所がない。けど本当に知らなかったんだ。」

 安藤はひたすら沈黙を貫いていた。名も知らぬ男が自らの過ちと、不運と、理不尽の全てを出し尽くすのを見届ける義務があった。

 「さっきも言いましたけど、今日が本当は結婚式の日だったんです。けどそれがあってなくなって、いろいろと終ったのがちょうど今日だったんで、なんか、飲みに来たんです。ちゃんと悲しむ暇もなかった。本当はもっと幸せになれたはずだったんだ。もう、何もかもなくしてしまった。」

 長く重い溜息。それまでグラスと体を支えていた両腕は小刻みな震えとともにとうとう瓦解し、カウンターと両腕に顔をうずめるようにして沈黙した。

 「俺には兄さんが本当に知らなかったのか、それとも知っていたのかなんてことはわからねぇ。けど、いろいろとどうでもよくなるくらいしんどいってことは、わかる。」

 「本当にもう、なんだかどうでもよくなっちゃって。死にたい。死ねないのなら、全て諦めてどっかで野垂れ死ぬ日まで待ちたい。」

 学も語彙もなにもかもを置き去りにして、ようやく絞り出せた言葉は安易な慰めにすらならない。諦めの底から返された言葉は、しかし全く無関係であるはずの安藤の記憶の奥底に眠るものを喚起させた。そして自身の意識から離れて舌がまわり始める。

 「俺、の友人にで、一人ホームレスやってるやつがいるんですわ。そいつも昔兄さんみたいにね、なにかでかいことやらかした。もう随分と昔の事なんで、ほとんど覚えてねぇが、とにかく理不尽で、しかも周りは誰も信じてくれなくて、周りから除け者にされていたけど、だから周りに当たり散らしまくってた。挙句の果てに何もかも失っちまって、理不尽に文句を言う気も失せて、今の兄さんみたいにもうどうでもよくなったっていう様になっちまいました。世の中のいっぱしの生活ってもんから一度外れちまえば、あとは転がるように一直線。どこぞの河原に行き着いて、未だに死ぬに死ねずに生き恥晒してますわ。」

 「世知辛い世の中ですね。まるで僕みたいだ。きっとそうなってしまうんだろう。けど、それももう悪くはないのかな。」

 「あいつは乗り越えられなかったら逃げたんです。今じゃ完全に染まっちまって、昔のことなんか忘れようとしてる。そうやって自分のちっぽけな誇りを守ってきゃんきゃん吠えていやがる。誇りだけは失っていないと勘違いしてる奴さ。」

 安藤の語る誰かの過去は、男の虚無の未来を投影している。それに気づいていながらも、男の目はそれ以外の何もかもを映し出すことができなくなっていた。カウンターに並ぶ背中の小ささが、薄明かりの中に映えていた。我らが宿無しには酔いが足りていなかった。下らぬ過去を語るには未だ正気に過ぎた。

 「マスター、テキーラ、ショット」

 一度目よりも更に断続的に、危なげに。本日何度目かの胡乱げな目こそ向けられたが、プロの仕事に否やはない。気づけば眼前に、更に小さなショットグラスと、なぜか二つの小皿に分けてのせられた塩とくし型に切り分けられたライムがあった。繰り返すが作法の一つも知らぬ宿無しだ。ショットを一息に飲み干し、寂しくなった口の中に適当に塩を振りかけたライムを放り込んだ。

 「けどな、きっとあいつは本当は後悔しているんです。後悔したけど、気づいた時には遅すぎて本当にどうしようもなくなってたんだ。なにもかも失ったってことを認めないことだけが、今のあいつの価値になっちまってる。だからあいつは言ったんだ。『俺みたいなやつがいたら、今度はきっと救ってやってくれ』って。兄さん、あんたはまだ若いんだ。まだ人生なんとでもなる。いい出会いだって、絶対にある。」

 「そんなこと、まだ信じられませんよ。また裏切られるかもしれない。」

 瞳の奥に根を生やす絶望は、言葉ごときでは決して刈り取ることなどできない。それは安藤自身も承知のことであった。懐に手を入れ、その中の重みを探る。現時点での会計を済ませても、まだまだ十分な余裕はあった。必要なのは覚悟だけである。大きく、大きく息を吸った。懐から立派な長財布を取り出し、中身をありったけ引っ張り出す。

 「マスター。この金でこの店で一番いい酒を持ってきてくれ。グラスは二つだ。余った分は取っておいてくれていい。」

 この珍奇な客にも慣れたのか、将又その眼光のこれまでにない力強さに何かを感じ取ったのか、ついに厳めしい店主は表情を変えることをしなかった。安藤から手の内の札やら小銭やらを統べて受け取ると、店の奥へと消えた。

 酒を取って戻ってきたマスターの手には、小ぶりながらも流麗なるガラス細工の結晶であろうボトルが握られていた。マスターはその名を告げたが、残念ながら聞きなれぬ言葉の羅列であり、安藤にはわずかに十三とだけ理解し得た。グラスに雀の涙が鈍く輝く。それを一つ、男に手渡してやった。

 「とりあえずこいつを飲もう。それが人生の幸せってやつさ。」

 「こんな高いもの、いただけませんよ。」

 男はいかにも慌てた風である。しかし、安藤はすでに返事を決めていた。

 「俺を救うと思ってもらってくれねぇか。見ての通り、俺は金を有り余るほどもってるんです。たまには使い切っちまって誰かと分け合わねぇと罰が当たっちまうってもんでさ。」

 それでも男は逡巡するような色を見せていたが、やがて意を決したようにうなずいた。

 繰り返すが、安藤という男は高い酒の作法など一つたりとて知らぬ。例に漏れず、香りを楽しむなど慮外のことである。幸運であったのは、すでに酔いに酔いて手が定まらず、一息に全てを飲み干してしまうことができなかったことであろうか。


 それからもしばらく飲みは続いた。二人の合間に降りたのは雄弁なる沈黙。ただひたすらに世の様々に思いを馳せて、酒を飲み交わせばそれこそが何にも優る慰めとなろう。

 「今日は話をきいて下さり、ありがとうございました。もう少し、これからのこと、自分のこと、考えてみたいと思います。」

 店を出て、そう男が切り出した時には、夜の帳は落ち切っていた。夜闇の風は刺すように冷たく、火照った体に心地良い。ふらつく両足を必死に叱咤する。懐の重みは、気づけば霞よりも軽くなっていた。懐に手を入れてみても、そこには空になった金のねぐら。体もこのまま宙へと飛んでいきそうなほどだ。

 「いいってことよ。俺も久しぶりに美味い酒が飲めた。言ったでしょう。こんないい日にはいい出会いもあるもんだって。」

 はじめて、男は満面の笑みを見せた。それはまだ僅かにぎこちなさと陰を伴うものではあったが、出来得る最大の努力だったであろう。

 「本当に、いい出会いでした。あなたのご友人にもお伝えください。僕はあなたに救われた。全てを失ってもまだ誰かを救えるほどの矜持を失わない、あなたに救われた。たとえこの先上手くいかなかったとしても、上手くいっても、あなたのようでありたい。あなたに出会えて良かった、と。我ながら恥ずかしいですが、でも本当に救われたんです。今日はありがとうございました。」


 最後に軽く握手を交わすと、互いに名も知らぬ男たちは別々の道へと歩んでいった。

 酒の周りきった体に、小さな世界の喧騒はいやに響く。金はすでになく、こうして歩いていけばいつもの通り、「我が庵」が彼を出迎えてくれるであろう。そうすれば彼は再び偉大なる宿無しであった。金はすべて失った。代わりに既に失っていたものを、彼は取り戻した。それは彼の腹の底でずっしりと重みを持っている。そしてその重みは、間違いなく彼の破滅へと歩みかけた男以上に、偉大なる宿無しを救ったのである。

 長く、低い犬の遠吠えがこだまする。聖なる酔っ払いたちの夜は明けることを知らないのである。


                                       おわり


読んでくださりありがとうございます。この作品はコミケ94に出品した作品です。私自身初めての投稿ですのでよろしくお願いします。

この作品はオーストリア人作家のヨーゼフ・ロートによる「聖なる酔っ払いの伝説」を、現代の日本風にオマージュした作品となっております。結局内容に関しては大きく異なるものとなってしまいましたが。

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[良い点] 描写が細かく、文字だけでそこにある景色や人物をしっかりとイメージできます。内容もまた素晴らしく、男たちの今後の生き様が気になります。 [気になる点] 他の方も書いていますが、web小説はも…
[良い点] 描写がとても細かく丁寧に書かれていて、読みやすいと感じました。 また内容が人情溢れる話で、読み終わった後にとてもスッキリとした気持ちになりました。 [気になる点] これはあくまで個人的な…
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