file.3〜人喰みの森・中編〜
森の中には、人が踏みしめて草の生えない道が出来ていた。高い木々、好き放題に伸びた雑草が支配する、薄暗い森。今もこの中に誰かいるのだろうか。
「……気を付けろよ、心を喰われないようにね」
ヴァスが釘を刺す。アダムは頷いて返し、ゆっくりと道を進んでゆく。別段変わった様子は見られない。けれど、ヴァスのカーバンクルが突然先行し、振り向き立ち止まった。
「ヴァス。グラを抜け。殺るか殺られるか。喰うか喰われるか。逃げるか立ち向かうか。どれでも好きに選べ。そういう選択が、今日は多いぞ」
可愛らしい見た目からは想像もつかない、男らしい声でカーバンクルがそう告げた。ヴァスの運命を。その岐路を。今日はそういう、「命のやりとり」の日だ、と。
「そう、じゃあ……今日は」
ヴァスが槌を背中から抜き、背後に一閃。右脚を軸に回転する様に薙いだその一撃に、金属音が重なった。
「……本気で殺るわ」
ヴァスの瞳が赤く、朱く、紅く光る。僕らの知らないヴァスの姿が、そこにあった。少し気を緩めれば全身の力が一気に抜けてしまいそうになる。
「はっ、いい反応だなー、ヴァス」
「来いよクソ男」
ヴァスの振るう槌の速度が上がる。銀の髪の男は不敵な笑みを浮かべてそれを躱してゆく。ヴァスの身体はほとんど動いていないが、腕と槌だけが高速で動き、赤い残像を残す。
「俺にはネブラって名前があるんだけどなー」
ネブラの瞳が次第に紫色の光を帯び始める。互いの瞳が描く残光。赤と紫の線が森の中に描かれ、その周囲では爆散、衝撃、斬撃の応酬。
「アダム、あれは近付いちゃいけない。死んでしまうよ」
アダムは分かっている、と言いたげにほんの少しだけ頷いた。瞳はその戦いをしっかりと捉えている。だから、少しだけ反応が遅れてしまった。
「…………オニイチャン、ダーーレ?」
声のする方。頭でっかちな照る照る坊主の様な何か。頭と胴体が分かれていて、頭の方には虚空の広がる大きな穴がふたつに縫われた口と、天使の頭についている様な光の輪。胴体の方は裾がボロボロになった純白のレインコートの様な何かから、華奢過ぎる手脚が覗く。手脚には無骨な拘束具と鎖が嵌められている。背中には白鳥の様に大きく立派な、けれど漆黒の翼。
そうそれはまるで、
「化物」
……であった。
アダムの息を呑む音が聞こえた。それの虚空がアダムを見つめる。
「オニーチャン、ダーレ。お兄ちゃん、誰。お前は誰だ。誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ」
戦慄が、全身を駆け抜けた。それの見た目の異様さ、そして響く子供の声が恐怖心を盛大に掻き立てる。けたけたと笑う声。誰だと憤怒、憎悪を孕んだ問い掛け。本能が、逃げる事を選択していた。
アダムがそれと反対方向に走り出す。けれど、ここは見知った故郷の森というわけではなく、見知らぬ未開の森。禁足地とされ、脇道に少しでも逸れれば、そこから自然の迷宮が待っている。
「……しつけーんだよクソ男が!」
「ここは潰されたら困るからこうして出向いたんだろう。分かれよ脳筋。お前を殺しても構わないと言われている。捨てられたんだよ、ぽんこつ」
凄絶な攻防をしながら会話をするふたりはあれに気付いていない。あれがどういうものなのか分からないけれど、きっと、この禁足地の禁足地たる理由に間違いはないだろう。
「誰だ。誰だ。誰だ」
それがアダムを見つめたまま、ゆっくりと歩き始めた。もう見える場所にはいないのに、声は響き続ける。確かに、背後に迫る感覚がある。一瞬でも足を緩めれば捕まってしまう。そんな感覚との追いかけっこは精神を疲弊させ、慣れない山では当然体力の減りも激しい。アダムの肩が大きく上下し、汗が滴る。
振り向いてしまった。声だけのそれは今も背後にいるのだろうかと。なぜ向いてしまったのかは分からない。けれど、これが「誘っている」ということなのだろうか。それに、僕ですらも誘われたというのか。
そうして今になって気付いた。アダムの道が視えないことに。
「……っ! アダムっ!!」
アダムが振り向き、視線が微かに交錯すると同時に、枝のような腕を前に伸ばし、虚空で何かを握り締めた。すると、走っていたアダムの身体が、糸が切れた人形のように急に力を失い、惰性でゴロゴロと転がった。
男は言った。僕達は世界を救うかもしれない、と。だから俺の研究に付き合ってくれ、と。奴隷である僕達が世界を救うかもしれないなんて、そんな夢みたいな話があるだろうか。みんな、頷いてしまった。
後になってどれだけ後悔しようと、憤慨しようと、怨嗟しようと、もうどうしようもない絶望の始まり。
男は僕達に毎日しっかり三食与えてくれた。施設の敷地内だけなら、ほとんど全ての場所が自由に行き来出来た。奴隷生活の時に思い描いた普通の暮らしに、過去最も近付いた瞬間に違いない。
男は僕達に薬を打ち始めた。全員がそれぞれ違うものを打たれているように見えた。一人は真っ赤な、血のようなもの。一人は青く澄んだ、空のようなもの。一人は毒々しい紫色の何か。僕は、ドス黒い、形容しがたいもの。そう、一番近いものは、研究室の隅の光の届かない場所。
それからだった。僕達が少しずつ変わっていったのは。赤い角が生え、青い尾が生え、身体から紫色の瘴気を放ち、ドス黒い翼が生えた。
「ああ……君たちは、失敗だ」
その一言で、全てを察する。僕達は実験に失敗して、きっと捨てられるのだと。
赤は角が生えた他、傷の治りが異様に早くなっていた。だから、男に全身を切り刻まれてその能力を観察され、そのうち死んだ。
青は尾を覆っていた鱗が他の部分も覆った為、異常な硬さだった。だから、男に様々なもので殴られ続け、そのうち死んだ。
紫は瘴気を漏らさぬように、と地下牢の密閉された空間に繋がれた。そうして、自分の瘴気で死んだ。
僕は、僕だけは、何故か残されてしまった。
「君だけだよ。成功したのは。あれらにはね、天使と他の生物の血を混ぜたものを与えたんだ。もちろん君にもね。天使と人間を合わせたものが一番親和性がよかったみたいだーーーーー」
男の説明は頭に入ってこなかった。そして、ひとつだけ、聞いてみることにした。
「……僕は、僕達は、世界を救えますか?」
男は愉しそうに高説を垂れていたが、ピタリとその動きを止めた。左手で顔を覆い、ヒクヒクと、おかしくてたまらない、といったふうに笑い始めた。
「あぁー、どうりで従順だと思ったら、そんなことか。嘘に決まってるだろ。お前らが世界を救う? 万に一つ、億に一つ有り得ないに決まってるだろう?」
やっぱり。そうだったんだ。ああ、もう、手放してもいいんだよね。
プツリ。
気が付くと、目の前には男だったものが転がっていた。
「見た目は綺麗な紅なのにね……」
それから、赤と青と紫の元へ向かった。それぞれの無残な亡き骸を抱えて、施設の外へ。途中に何人か、研究員やら警備員やらがいた気がしなくもないけど、覚えてない。ただ、振り向いたら綺麗な紅い廊下が続いている。
こんな不条理、仕方ないのか。それで諦めてしまっていいのか。それしか……ないのか。憎くて憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて仕方がない。あの男が。この世界が。全てが、憎くて仕方ない。
こんな心なんて、要らない。