file.2〜顔喰い〜
曰く、そこは劇場であったらしい。劇団の中で不幸が相次ぎ、その劇場はいつしか閉じられてしまった。そして、その劇団の跡地に建てられた建物でも不幸が連続した。そうして気付くと、再び劇団に戻っているのだそうだ。街全体が荒廃した今となっても、その場所には劇団が残り続けている。得体の知れない恐怖から、そこは禁足地となった。
廃都市の一角に、今でも使われていそうな、手入れの行き届いた劇団があった。そこだけ時間が止まっているかのような、異様な光景。周囲の建物は荒れ果て、草の根すら枯れている。
人の姿は無いけれど劇団の中からは、周囲の静けさに不相応な賑やかで華やかな歌が漏れる。ぱちぱちと幾重にも重なる拍手。
何故か、踏み込んではいけない気がする。禁足地なのだから、それは自然な事なのだろうけど、ここは特別怖い。
アダムが歩を進める。
「……ん? 行かないの?」
「…………行くよ。でも、気を付けて」
アダムはまだ、ここの異様さに気付いていないのか、迷い無く進んでゆく。両開きの大きな扉に手を掛け、押す。アダムがピタッと一瞬止まったが、扉は直ぐに滑るように開いた。
紅一色の見事なカーペット、細部まで緻密な細工の施された柱や階段の手すり、天井からは豪奢なシャンデリアが顔を覗かせる。
違和感。
進むアダムに続いて階段を登る。コツコツと静かな空間に響く足音。
「拍手の音が……」
「聞こえないね」
劇団の外にいても聞こえていた拍手の音が、扉を開けた瞬間から聞こえていなかったのだ。違和感の正体。
「人が使っている跡は無いけど、いつも掃除されてるみたいに綺麗だ」
言われてみれば、確かに。正面の入口から入ったのだから、ここはエントランスホールで間違い無いだろう。やはり、何かあるのだろう。ここは、禁足地なのだから。簡単に踏み込めてしまう場所に存在する。禁足地に踏み込んで帰ってきた人は少ない。というのも、ほぼ全ての禁足地が、「そういう場所」だからだ。だから、あの龍の住んでいた都市はまた毛色の違う禁足地。
「……アダム」
「俺が行きたい場所に行く。……見ててよ」
アダムが引かない事は自分が一番よく知っている。でも、それじゃあ自分のいる意味が無い。せめて、
「選んでよ、アダム。このまま進むか、少しだけ待つか」
自分たちの持つ権能くらいは使わせてもらう。この選択を与える事が、自分たちの持つ権能。他にも無数の選択肢があるけれど、その中から自分たちが自由に抜粋し、問いかける。逃がす為の選択肢を選ぶ事も出来たけれど、それじゃあアダムの旅にならない。アダムは進みたがっているのなら、それでひとつ、枠が埋まる。もうひとつは、自分の、僕の意志。ほんの少しだけでいい。この選択肢で五分程度でも迷ってくれたりすれば、それでいいから。
「……お前がそれを使うのは珍しいね。ん、じゃあ今回はお前に従おうか。少し、待つよ」
良かった。どうやらここは「誘っている」みたいだ。普通の自分たちなら、ここに来た時点で全て同じ結果に辿り着く。いや、違う。普通の人間の自分たちなら、だ。アダムは、他とは違う。だから、「生きている」結果を持った選択肢を見つけた。
エントランスホールを探索しながら待ち、約四分。そろそろ、アダムにだけ与えられた特別な結果へと導く何かが起こる。
「ようこそいらっしゃいました。うふふふ」
女性の声。ぐちゃり、ぐちゃりという肉が潰れるような異音。ゴリゴリと何かが蠢く不快音。次第に、女性の笑い声に隠れた、無数に重なり合う呻き声が聞こえ始める。
笑い声はエントランスホール全体に響き渡り、何処から発されているのか分からない上に、その姿も見えない。
「もう待たなくていいか?」
「もう大丈夫だよ」
アダムが駆け出すのと、「それ」が姿を現したのは、同時だった。シルエットは、頭を上げた芋虫。頭部からは顔面の潰れた女性がドレスを纏って生えている。百足を思わせるようにその身体から無数に生えた人の手足。それに、よく見ると女性の着た紅いドレスは、人の顔の皮膚を縫い合わせて作り上げられている事が分かった。
流石のアダムも目を見開きその場に立ち尽くした。
「あら、可愛いお顔。それ、頂戴?」
ぐちゃぐちゃと生理的に受けつけない嫌な音がフルオーケストラを奏でながらアダムに接近する。床を踏み抜くのでは無いかと思う程の振動にアダムの動きは完全に停止した。
「……ほい、さっっ!!」
ズン。鈍く、重く、それでいて何よりも鋭い音が響く。異形のその超重量の肉体が盛大に宙に舞う。異形を吹き飛ばしたのは、ひとりの少女。尾の大きな狐のようなものを肩に乗せた、濃紺の髪の少女。形のいい頭の横でふたつに結われた髪がふわりと揺れ、アダムの胸倉を掴んだ。
「あんた何やってんの。死にたいの? ただの人間がA級以上の危険度を持った禁足地に足を踏み入れるなんて、もしかしなくても自殺志願者?」
マシンガンのようにチクチクと棘のある言葉を放つ少女に、アダムが気圧される。
「ねえ、聞いてるの。自殺志願者なら私は貴方が死んでからあれを殺すわ。どうなの。今すぐあれを殺してもいいの?」
「あ、ああ。俺はまだ死ぬ気は無い。存分にやってくれ」
すると少女は獰猛な笑を浮かべ、何かを振り上げた。気付かなかったが、少女はその手に長大な槌を持っていた。それでよく折れないな、と疑ってしまう程細く長い柄の先には少女の胴よりも大きな円柱。シンプルなデザインだけれど、底知れない威圧感を感じる。
「はーい。じゃあ、動かないでね。動いたらうっかり潰しちゃうかもしれないから」
そこからは、アダムの顔を求めて突き進む異形と、槌をとてつもない速度で振るい異形の攻撃の全てを捌く少女の絶技の応酬。突き進んでは少女に阻まれ、少女を狙えば更に痛烈な一撃をもらう。肉体のあちこちが少しずつ潰され、へしゃげ、その体積を着実に減らしていった。
「可愛いお顔、ちょおだぁあい」
顔の皮膚で作られた紅いドレスが剥がされた。異形は突然攻撃を止め、それを必死に集め始める。
「私の顔。違う、違う違う違うぢがうぢがぁうぅ!!」
顔面の潰れた女性が、悲壮に染まるのが分かる。心で泣いて、泣いて。そうして枯れ果てた末の姿が、これなのか。
「私の顔、どぉーーこぉぉお?」
潰された顔は、誰かに潰されたのだろうか。失った自分の顔面を求めて、ここを訪れた人の顔を剥いでいったというのだろうか。
「もうあの世以外の何処にもねぇよ」
少女が槌を振り下ろす。異形の肉体は完全に潰れ、その身が急速に朽ち果てていく。異形の身体を中心に、劇場がその色を失い、朽ちてゆく。
「……あ、貴女も……可愛いお顔ね。一緒に、踊らない……?」
「……。もし次会う時があれば、その時は必ず、ね」
少女が何をしたのかは分からないが、この禁足地の危険は完全に終焉を迎えた。この場所に劇場が現れることは金輪際ないだろう。
「で、君は」
「ヴァス。この大陸の禁足地の調査と、一定以上の危険性を孕んだそれの原因の根絶を任としてるわ。聞きたいのはこれくらいかしら?」
「あー、うん。でももうひとつ」
「何かしら」
アダムは真剣な眼差しでヴァスの目を見た。
「どうして消し去る必要があるんだ」
ヴァスは何を言っているのか分からない、といったふうに首を傾げた。
「人に害を成すから、以外に理由があるかしら」
アダムは憤慨するわけでも、諦観するでも、悲観するでもなく、
「……そっか」
と言ってその場に膝をついた。
「忘れないから、絶対に。……名前は無くとも、ね」
そんなアダムをヴァスは、少し不思議そうに眺めていた。どうしてそんな事をするのだろうか、と。名前のないものを覚えているのはどうしてだ、と。
半壊し朽ち果てた劇場。穴の空いた天井から射す光。かつての面影も栄光も全てが朽ちたこの場所で、アダムは何を思うのか。自分には分からない。分かってあげられない。けれど、寄り添いついて行き、道の選択肢を与える事は出来る。そして、アダムの旅路を忘れない。