異世界にて ②
火神 優という少年が年端もいかない兄妹を見捨てて、自分一人で賢く逃げ出した森の中。
少年が逃げ出した場所の真上にあたる木の上には人影があり、実は人影は一連の出来事を初めから見ていた。
(──逃げるか。まあ、いきなり魔物を相手にしろってのは無理か。少し期待してたんだがな)
人影は若い男。年齢は二十代くらいで薄い金色の髪。ラフな服装にスニーカーという、どこにでもいるだろう格好の男だ。
ただ、男の服装が当たり前なのは異世界という場所でなければとなる。着の身着のままな制服姿の少年と同じくらいに、男の服装はこの場所では違和感がある。
(下の二人、助けないとな。スライム共を集めたのはあいつのせいだか、見ていながら放置したのは俺だしな。 ……?)
逃げた脚の速い美味しそうな獲物を追うより、逃げない獲物を食べることにしたスライムという魔物たち。
兄妹にスライムたちが迫っていよいよ猶予はなくなり、男は子供たちを助けるために、木から飛び降りようとした。
──まさにその時だ。
黒い髪に制服というごく当たり前だが、やはり異世界では違和感がある格好の少年が、息を切らせて走って来るのが見えた。
戻ってきた少年の手には先ほどはなかった木の棒。
落ちていたのか折ってきたのかはわからないが、それが握られている。
(戻ってきた。それに、そんな棒きれでどうにかするつもりなのか? しかしあれだな……。やるというなら見せてもらいますか。勇者様の戦いを)
少年の行動にある確信を得た男の顔には、皮肉まじりに見えるが笑みが浮かぶ。
男は別に少年が子供たちを見捨て逃げる奴なら、それはそれでよかったのだ。
無茶なことをする奴ではないし、リスクを天秤にかけ無理だと判断すれば身を引くことができる。扱いがってはよさそうだと思うからだ。
──だけど少年は戻ってきた。
自分だけ逃げられるチャンスを無駄にして。自分の力では敵わないかもしれないのに。他に誰が見ているわけでもないのに。ここで呆気なく死んでしまうかもしれないのにだ。
それでも少年は知らない誰かのために戻ってきた。
扱いがっては間違いなく悪いが、男の顔にはそうでなくてはという内心が見える。
(だが、そうだ。今のこの世界にはこういう奴こそ必要だ。こんな無茶をやる度に、いちいちフォローするとなると頭が痛いが、かつて世界を救ってみせた奴もそうだったから……。火神 優か。少し面白そうだ)
そして、魔物相手に大立ち回りを始めた少年を見て、男はもうひとつ想う。
それは目の前の今にではなく、遠い過去に想いを馳せてだ。
(──あれはいつだったか。かつて同じようなことがあった。なんの偶然か場所もあの時の近く。あの時は少年を一人助けたな……。助けられた少年は憧れた。自分を助けてくれた奴を、今はもういないそいつを。誰もがそうだったのかもしれない。皆、そいつに憧れた。信頼していた)
男の眼には過去と今が重なって見えてはいるが、しかし決して過去を懐かしんではいない。
だって、涙の一つでもあれば懐かしんでいると思えただろうが。男の眼にはとても冷たいものと、微かに滲む怒りがあるだけだから……。
(だが、いなくなってしまったから戦うことを諦めてしまったのかもしれない。なら、それを取り戻させなければならない。それを成すためにきっと俺は死に損なったのだから……)
◇◇◇
見捨てたはずの兄妹のところへと舞い戻ってきた少年は、スライムという魔物に臆せず向かっていき、手に持つ棒切れで次々と両断していく。
スライムたちはまるで泡でも斬るかのようにやられていくが。しかしというか、やはりというか、状況は芳しくはない……。
(──あんな棒切れで真っ二つにするなんてな。間合いも取れているし、構えも様になってる。だが、動きは悪くはなくてもそれじゃ駄目だ。スライムは一見透明で中は空っぽに見えるが、身体の中に核がある。それを潰さない限りは、無限にくっついて元通りだ)
少年は無知ゆえに力があろうとそれを活かせていない。
真っ二つに斬って倒したように見えるスライムは、核を破壊されない限りは死なず、永遠と再生を繰り返すのだ。
これでは時間が経つにつれ追い込まれていくのは、今は圧倒しているように見える少年の方。
人間である少年の体力は少しずつ落ちていき、集中力も永遠には続かないのだから。
(しかし、力も速さも俺たちとは段違いだ。これは魔法なんて必要ないな。スペックで上回ればどんな怪物もイチコロだ)
それでも少年には価値がある。この異世界にたたが棒切れで切断されるような魔物など本来いないのだから。
破格と言うしかない性能の少年は、確かに世界を救うだけの力を持っている。しかし悲しいかな、現実というのは残酷でしかない。
少年がどれだけ特別だろうと知らないということは、破格も特別も無意味にしてしまう。
魔物という生き物は派手に暴れたりすれば、辺りの魔物が勝手に集まってくるものでもあるのだ。
現に少年たちの周りには、これほどの数がいたのかと思うほど、スライムたちが次々と集まってきている。
これには魔物を駆除する人間はおらず、駆除されないから増えに増えた魔物は餌が足りず、数と縄張りだけが広がっているという、この異世界の事情が関係している。
(こんなに集まってくるなんてな。そんなに勇者様は美味しそうなのかね? 潮時だな。今飛び出さないと、始まる前に全部台無しになっちまう。待て、あれは──)