七月二十日 ③
更紗という女の子と話し始めて、ふとした瞬間に腕時計を見れば、針は十七時すぎを指していた。
異世界行きと魔法から始まった会話は、共通の話題が見つかってからそっちへ流れて弾み。気がつけば夢中で二時間は話していたことになるが、好きなものに対する熱量の前には長くはない時間だった。
いつの間にか時間だけが過ぎていて驚いたくらいだ。
「えっ、いつの間にか十七時すぎてるぞ。 ……というか、初対面の女の子とこんなに長く話したのは初めてだ」
「そうなんですか? もったいない」
「女の子で同じ趣味のやつは中々いないよ。男でもわからないやつはわからないからな。個人の好みの問題だし、もっと早く更紗と知り合いたかったよ」
「またまたー。いつもそんなことを言って、女の子を口説いているんですね。そういうのは感心しませんよ」
たったの二時間で更紗とは軽口も言えるくらいに仲良くなった。
女の子でそれは初めてだし、向こうも同じだったのではないかと思う。更紗は第一印象よりも柔らかい印象になっていたから。
そんな更紗に「違うから」と反論しようとしたその時、ドアが勢いよく開き、誰かが慌てた様子で中に入っていた。
現れたのは息を切らせた男。高身長でひと目でわかるほど筋肉質な男だった。
スーツを着ていることに違和感を感じるくらいに鍛えられた身体には、表にいたSPだが見張りだか以上の存在感があった。
「更紗、あなたいつまで説明するのにかかってるの!? 他はもうとっくに終わってるわよ。自分から行くって言うから黙って見てるつもりだったけど、いくらなんでも限度があるでしょう!」
「へっ、説明? …………──!?」
男は身体には似合わない口調で開口一番にこう言い、言われた更紗は初めはキョトンとしていたが、急に何かを思い出したのか慌てふためく。
そして男の方を見ていた顔が勢いよくこちらに向いた。
やってしまったことに気づいた更紗の顔は青ざめていて、その顔色の理由に察しがついた俺も事態に気づいた。
「ほ、ほんとんど何も説明してないです……」
「あぁ、何も聞いてない。趣味の話なら山ほどしたけど……」
「アナタたちは揃って何をしていたの……」
マズいと互いに思っている俺たちは顔を見合わせたまま固まり、呆れ果てた様子の男は鳴った電話をワンコールで受ける。
その電話の内容は切迫する事態を男と俺たちに知らせるもので、男は「えぇ、了解」としか言わず通話を終えた。
しかし、たったそれだけで伝わることだったのだ。
「アナタたちに残念なお知らせよ。もう時間はいっぱいいっぱいで、儀式は今すぐ始めないと間に合わなくなります」
本来とは違うことに時間を使ってしまった代償は大きかった。
詰め込み授業以上の詰め込みだろうと、知識を得る時間を俺は無駄にしてしまったのだから。
そして時間を無駄にしようとこのくらいのことでは、俺の異世界行きは少しも変わらなかったのだ。
「ま、待ってくれ。俺は異世界に行ってくれませんかって話しか聞いてないぞ。まさか、このまま異世界に行けって言うんじゃないよな!?」
「まさかも何もその通りよ。聞いてない以上は勝手で悪いんだけど、絶対にアナタは外せないの。アナタは五人の中でも必要不可欠な人材なのよ」
「いやいやいや、勝手どころかバカだろ。魔法に魔物。そんなのが溢れるようなところに、何も知らないで飛び込めるわけないだろ!」
男が開けたままにしたドアが目に入り、このままではダメだと本能が訴えかけてきていて、俺は素直に本能に従うことにする。
わざとテーブルを叩くようにして音を立てて違和感がないように立ち上がり。再び慌てふためいている更紗と、ドアと俺たちがいるソファーとの中間にいる男との位置を確認して。一気に動き出してドアから脱出を試みる。
「少し落ち着きなさいよ。まだ少しなら時間があるから」
「なっ──」
しかし、間違いなく真横を抜いたはずの男が、そんなわけがないのだが俺の進行を阻むようにドアの前にいて、唯一の逃げ道は使えなくなり脱出は失敗した……。
「更紗、彼を最後に飛ばしなさい。私ができるだけの説明はするから。もう始めないとゲートは閉じてしまうわ。場所も用意してあったのだけどここでいい。他はちゃんとしているから大丈夫よ。始めましょう」
「でも、火神さんに何も……」
「火神さんから許可は貰っているから大丈夫よ。更紗、今日しかチャンスがないのわかるでしょう? 始めなさい」
今日中にゲートが閉じてしまうと親父は言ったが、あの時点で昼過ぎだったし、ここまでで今日の残り時間は七時間を切っている。
されているという観測の精度は今日の内にゲートが閉じるとはわかり。おそらく昼間ではないともわかり。正確な時間まではわからないが、残り時間はわかるというくらいなのだと思う。
「──始めます」
加えて俺以外の人たちは今日という日の意味を理解していて、その中には当然だが更紗も含まれているわけで。
申し訳なさそうにしていた更紗だが、自らの頬を叩いて迷いを断ち切るようにし、やると決意してだろう立ち上がる。
「更紗?」
「アナタはこっちよ」
脱出に失敗した俺は男に腕を掴まれていて、儀式とやらの終わりまで押さえつけられでもするのかと思ったが。
更紗に部屋の中でスペースのあるところを使わせるために、ソファーの方に引っ張られただけだった。
親父からの許可。必要不可欠な人材。このワードが出てすでに気づいていたが、俺が異世界に行くというのは決まってた。
拒否権なんてのはやっぱり初めからなかったんだ。
違いは、きちんと説明があるかないかというくらいだろう。それでも納得なんていくわけがなく、気づけば男の腕を振りほどいていた。
「勝手に話を進めんなよ。他人事だと思いやがって!」
「火神 優。アナタはもう地獄を見たでしょう。どこにもそれ以上のものはないわ。取り乱すなとは言わないけど、あまりカッコ悪いと火神の名が泣くわよ」
「……」
「ちょっと待ってね。すぐに考えるから」
俺は男に言われたことに黙るしかなかった。
その地獄から俺は逃げ出したからだ。
見た地獄から逃げて。逃げて。逃げてきた。
物語にのめり込み現実から逃げた。
普通を装い本当の自分からも逃げた。
忘れたフリをして火神という名前からも逃げた。
そうやって逃げて。逃げて。逃げてきた。
──だけど。 ──もしも。
それを変えることができるならとも思っていた。
後ろを振り返る度にずっと思っていた。
(親父は何も言わなかったけど本当はどうだったのだろう? 本当は俺に逃げないでほしかったのかな……)
こんな事を考えている間、今度は逃げるのは簡単だった。
男は短い時間でうまく伝える言葉を考えるのに精一杯で、開けっぱなしのままのドアから外へ行けばいいだけだから。
逃げ続けてきた俺は逃げるのは得意だから。
でも、俺は自分の意思で逃げなかった。
今日まで何も言わなかった親父が初めて頼み事と言い、異世界に行けと言った。恩がある俺が頼まれたら断らないとわかっていたはずなのに、興味があるだろなんて勿体つけて言ってだ。
車の中で歯切れが悪かったのも、回りくどい言い方しかしなかったのも、俺に選ばせるためだったのだろう。
結局、逃げ道はなかったわけだが、俺は逃げないと思ったのだろう。