七月二十日
七月二十日。天気は前日と変わらずに晴。
この日は朝から間近に八月が迫っていることを感じさせる暑い日だった。
そんな翌日から夏休みという日の学校からの帰り道のことだ。
部活の集まりのある友人たちとは都合が合わず、一人で駅に向かい歩いていると自分の横を車が一台通り過ぎる。
車道と歩道がガードレールで分けられている道で、「また後ろから車が来てるな」と思ったら、今度の車は何故だか急に速度を落とし並走するくらいの速度にまで遅くなる。
そして、ちょうど車の後部が自分より少し前にきたところで完全に停車し、後部の黒塗りのガラスが下がっていく。
車内は車に興味がない人間が見てもわかるくらい高級そうで、後部座席には見知った顔があった。
「優、乗れ。少し話がある」
「えっ、親父? こんなところで何やってんの。仕事は?」
朝も駅まで一緒だったはずの親父がそこにはいて、途端に訳がわからなくなる。
平日で、しかもまだ夕方にもなっていない時間で、こんなところで遭遇する理由も不明で、高級車の後部座席にいる親父の見慣れない姿にも違和感しかなかったからだ。
「……早く乗れ」
俺が頭の中に入ってくる情報の全てに訳がわからないでいると、普段から要件しか言わない親父は再び「乗れ」と言う。
どうせここで何度も尋ねたところで親父は「乗れ」と繰り返すだけであり。
逆に素直に従えば頭の中に浮かぶ様々な疑問も、帰り道を自分で帰る必要もなくなると思い俺は車に乗ることにした。
乗り込んだ車内は冷房がきいていて、後部座席に俺と親父。座るまで気づかなかったが運転席には女の人。
女の人はスーツにサングラスという出で立ちで、言い方は悪いが普通の人には見えなかった。
「あぁ、彼女は瀬名さんと言ってな。仕事関係で付き合いのある人の秘書だ。肝心の話というのは実はお前に頼みがあってな」
とても意外だった運転席に釘付けになっていると、秘書だと女の人を紹介された。
親父がサラリーマンだとしか知らない俺は、女の人が秘書だと聞いて思いついたのは社長秘書。
というのも社長が乗る車なら高級車というのは納得でき、運転席の女の人がその秘書だと聞けば、まったく隙がない雰囲気にも納得がいったからだ。
「ご紹介に預かりました瀬名です。いつも火神さんにはお世話になっています。優さんもこれからよろしくお願いしますね」
聞いたことから自分一人で勝手に納得していると、信号機で止まったタイミングで声をかけられた。
サングラスを外した瀬名さんとバックミラー越しだが眼が合い、ずいぶんと綺麗な人だと思った。
社長秘書というのは美人でないとなれないものなのかと考えたくらいだ。
「初めまして。火神 優です。こちらこそ親父がお世話になっているようで」
「運転中なので握手の一つもできなくてすいません」
「いや、そんなの気にしないでください」
挨拶を返したところでふと、瀬名さんの発した「これから」という言葉の一部が気になった。
どうにも「頼みがある」と言った親父の言葉と繋がる気がしたからだ。
そして信号が青に変わり車は再び走り出し、広く空が見えるところに出たところで親父が窓を開ける。
「優、アレのことは知ってるな? テレビでも報道されているし、何より毎日見ているんだからな」
親父がアレと言ったものは、別に窓を閉めたままでも見えていた。
親父の視線の先にあるものは空に浮かぶように存在する、ゲートと呼ばれる光の輪だ。
その向こうには驚くことに別な世界があるのだという。
東京上空に出現した異世界への扉。それがゲートだ。
ゲートが突如として現れたのは今年の初めのことだった。
昼夜と天候に関わらず同じところにあり続けるゲートは連日報道され、最初はアレが何なのかもわからなかったから、人々は流れる憶測にパニックになった。
憶測に憶測が重なり天変地異の前触れとか、宇宙人によるメッセージとか、終末論までささやかれた。
そんな憶測を否定するだけの一カ月ほどの時間が経過した頃、ようやく本当のことが政府から発表される。
実は異世界というものが存在し、ずっと以前から観測されていると発表された。
ゲートがなんなのかが正式に発表されてからはゲートそのものから、後手後手になった政府の対応にマスコミや世間の興味は移っていった……。
「……ゲートだろ。アレがどうかしたのか?」
以降、ゲートが現れてから半年以上が経過しても特に何も起きず。次第に報道される回数も減り。空にゲートがあることが珍しくもなくなった。
そんな今になって初めて親父からゲートについて話をされ、「どうして今、ゲートなんだ?」と俺は思うしかなかった。
「その通りだ。アレはどうやら今日中に消滅してしまうらしい。そうなればあちらに干渉するのは難しくなってしまう。その前に急遽対策をしなければならなくなったんだが、」
「何でそんなにゲートに詳しいんだよ。おかしいだろ。家でもゲートなんて単語を聞いたことないけど?」
ゲートという未知のものについて、世間が知るより多くを知っている親父を不審に思い、続きを遮っても言葉が出てしまった。
しかし親父はすぐには答えず、代わりに瀬名さんが答えた。
「──火神さんは異世界の観測と対応をしている部署にお勤めですので。息子さんに言っていなかったんですか?」
「えっ!?」
「言ってなかったんですね。まさかとは思いますが何もですか? ……そうですか。おかしいとは思いましたが、何も言わずにですか」
瀬名さんが言ったことに驚くしかなかった俺は、瀬名さんが言ったこと全部の意味を考える余裕も。
瀬名さんがどんな顔をしていたのかを見る余裕もなかった。
だって、ゲートについて発表したのは政府の観測チームだというところの人間で。
その観測チームはゲートが観測されていたのだから「ある」としか知られていない、一切表に出ない秘密裏の組織なのだから、まさかそこで親父が働いていると言われた衝撃は相当なものだったんだ。
「まぁなんだ。実はそうなんだ。今日まで黙っていたが悪いとは思わない。特に話す必要もなかったしな」
「いや、あるだろ。普通のサラリーマンだと思ってたわ!」
「今となってはどうでもいいことだ。で、話は頼みごとに戻る。優、向こうに行く気はないか? あちらには魔法なんて技術も、ごく一般的にあるそうだ。お前、そういうの好きだろ」
「……魔法」
魔法という言葉を俺は魅力的だと思う。
不可能を可能にする万能のように思うからだ。
異世界という場所もそうだ。
ここでは不可能なことでも、異世界なら可能かもしれないと思うからだ。
死者の蘇生。過去の改変なんてこともできるかもしれないと、きっと心のどこかで思ってしまうからだ。
「こちらでは使えない魔法を、向こうでなら使えるかもしれない。これだけでも十分に魅力的じゃないか?」
「……何しに行くんだ。観光か?」
「そんな訳がないだろう。遊びにいくわけじゃない。あちらの世界を救いにいくんだ」
親父は決して物語りの話をしているわけではなく、確かにある現実の話をしていて、そこに俺を放り込みたかったのだろう。
魔法はまやかしだと気づかせるためか、本当に魔法は魔法なんだと気づかせるためか。
あるいは物語りに逃げ込んだ俺に現実を教えるためか……。
「世界を救うね。カッコいいな。でも、ほいほい行ってそんなことできるのか? そもそもだ。学校はどうするんだよ。俺は学生だぞ」
「何を言ってる。お前は明日から夏休みだろう。どうせ何もせずにダラダラと過ごすんだ。高校に入って部活も入らなかったようだしな。毎日暇だろ? どうだ。バイトだと思って」
「世界を救うバイトか。すごく簡単そうに聞こえるな。あと、失礼だな。本当のことだけど……。で、バイトなんだし危険はないんだよな?」
「ある。こことは違い魔法が理の中心にくるんだ。生態系にも魔法が加わるし、当然ながら生き物すべてに魔法という言葉がつく。結果、ゲームや漫画の世界とそうは違わないはずだ」
まさにゲームや漫画の世界が目の前にあって、そこに行くことができるとしたらどうする?
電気はないだろうし電気を使うものも当然ない。不便なのは間違いなくて、危険も山のようにあるんだとして。
だけど、ここにはない魔法があるかもしれなくて。ここにはないそれは、不可能を可能にするような魔法かもしれなかったらどうする?
「正直、興味はあるけど。いきなり異世界に行けはどうなんだ? 巻き込まれてとか、転生とかじゃないんだ。現実問題、まずは詳しく説明してほしいんだけど」
異世界が物語じゃないんだから、説明を求めるのは当たり前だ。
これには俺に異世界行きを「うん」と言わせたかった親父は、ふたつ返事で答えてくれた。
「今までもゲートはいくつも出現していたんだ。あれほど巨大なものではなくもっと小規模でだ。一般には知られてないが、そのゲートを通り知らずにあちらに迷い込んでしまうなんてケースもあった。そして今回、観測史上最大の大きさでゲートは現れた」
「じゃあ、別に初めて人間が向こうに行くわけじゃない?」
「そうだ。そしてあのゲートが消滅したら、当面は小規模なゲートも現れない。そういう見解になってる。ゲートの消滅は世界間の繋がりを全て切る事になる。そうなって干渉できなくなってしまう前に、こちらから世界を救うための人材を送りたい。向こうは即戦力が欲しいらしいから、お前が適任なんだ。優」
「……で、なんでそれが俺なんだ?」
しかし、まったく意味がわからなかった。
魔法の魔の字もないような人間が即戦力だなんて言われても、世界を救うなんて物語りみたいなことに役立つとは思えなかったから。
毎日暇だからという理由も一瞬頭をよぎったが、即戦力という言葉には繋がらない。
自分である必要性が見えてこない。
「火神さん。そろそろ到着しますから、続きは彼女に説明してもらいましょう。我々より適任です」
そして話に夢中になっていて気づかなかったが、車はどこかに到着しようとしていた。
家まで送ってもらう軽い気持ちで車に乗り込んだ時点で、異世界行きのカウントダウンは秒読みに入っていたんだ。