異世界にて ③
逃げるために走り出してみて、どれだけ距離を走ってみても。どんなにわが身可愛さに思っていても、脳裏から消すことができなかった。
あの兄妹のことを。あの兄妹の顔を。あの兄妹の末路を。
だからだろう。逃げるための脚は前に進まなくなった。
もう、そういうのは懲り懲りだから……。
だからだろう。逃げるのはやめにしようと思ったのは。
──そこからは簡単だった。
立ち止まったところで眼についたちょうどいい長さの木の枝を折り。進んできた道を後ろに向かって、来た時より速く戻るだけだったから。
なんて愚かな行動なんだろうと自分で思う。だけど、不思議と後悔はまるでないのだ。
結局は見捨て逃げるなんて俺にはできなかったのだろう。
たとえ死ぬんだとしても、見捨て逃げるより何倍もいいと思ってしまうからだ。
「悪い。一人で逃げようとした」
見ず知らずの兄妹を見捨てることもできないし、無かったことにするだけの強さも持ち合わせていない。
だから、恥だろうと俺は戻ってきた。
再び兄妹の前に立ち塞がるのは、せめてもの謝罪の意思だ。どうにもならなくても、この子たちより先に死ぬことくらいはできるから。
「お兄ちゃんは道わかるって言ってたよな。絶対にその手を離さないで、いけると思った時に行け。逃げろって言ってんじゃない。村まで行って助けを呼んできてくれ」
戻って来たからにはやる事も決まっている。さっきはなかった武器もある。
こいつは重さも長さもちょうどいい。これなら振れる。
実際に役に立つ時があるとは考えもしなかったけど、過去の剣術の真似事が役に立つとは。
鈍っていようと素人の棒振りよりはマシだし、それに明確なルールのある剣道はやりにくかったが、今はそんなものはない。
「ちゃんとやれよ、お兄ちゃん。妹の頼りはお前だけなんだからな。 ──おらっ!」
動きの遅いスライムとの距離を一気に詰め、中段の構えから面の要領で振り下ろしてまずは一匹。
続け様に隣のやつには小手で一匹。計二匹。
まったく手応えはないが、スライムは簡単に真っ二つになった。
「触れれば倒せる。これなら後三匹もいける。なっ──」
しかし、いけると思った矢先に一匹が突如飛びかかってきた。
完全に予想外な動きを体さばきだけで避けたのだが、残る二匹にも同時に飛びかかられては回避は難しく、受けるしかない。
「──っ、飛ぶし意外と速い。のろのろやってたのはフリかよ」
スライムのゼリーのような身体は、棒の面積を超えたところからグニャリと変形し、勢いを弱めずに身体にまで到達する。
その衝撃は身体ごと簡単に後ろに押されるほど凄まじく、とても弱い敵というイメージのスライムの攻撃とは思えない。
しかし衝撃はきちんとあるのに痛くはない。体感しても不思議だけど、これがスーツの男が言っていたステータス。
防御力は相当なものだとわかったが、これは攻撃力にも付加されているのだろうか?
棒を使っていては測れないから、素手で試してみようか……。
「……いや、ダメだった時のリスクが高いよな。スライムに触れない可能性がある以上、いま無理して試すようなことじゃない。あれっ?」
今のやり取りで俺とスライムたちは、兄妹のいる木の前から離れていて、スライムは俺だけを狙ってきている。
つまりスライムたちが子供たちに見向きもしない今が、二人を逃すチャンスだ。
「今だ、行け! 何やってんだ。早く行けって!」
チャンスと思って行けと促してみても、兄妹は無理だと言うように首を横に振り、立ち上がることすらでず再び泣き出してしまう。
どうやら逃げるくらいはできるだろうと思っていたのは、考えが甘かったらしい。
「なら、やっぱりこいつらを、なにっ……倒したんじゃないのかよ。どうなってんだ!」
さらに事態は悪い方に加速するらしく、真っ二つにしたはずのスライムは、斬られた身体を自らくっつけて、二匹ともが元通りになっている。
何度スライムを斬り裂こうと連携し出したスライムの再生は止められず。脚がすくんで動けない兄妹を見捨てられないとなれば、後は自分の体力が続く限り永遠と繰り返すしかない。
囲んで疲弊するのを待って食うのが、こいつらのやり口なんだと気づいたところで最悪だとわかるだけで。
その上、木の棒でしかない得物はスライムに触れているところが溶け始めていて、状況も再び最悪だ。
「何か、再生には理由があるんじゃないのか。何か──」
やられた奴をカバーするように飛びかかるスライムの背後。まさに再生しようとするスライムの中に光るものが見えた気がした。
そしてよくスライムたちを見れば、再生には光るものが中に存在する方が動き、身体の残りにくっつきに行っている。
つまりあの光るものがスライムを動かしている?
「物は試しだ、──ハァ!」
くっつこうと動くスライムをさらに半分にし、光るものを狙いやすいようにして、最後にその部分をピンポイントで突き刺した。
するとゼリーのようだったスライムの身体は液体となり、一匹だけで大きな水たまりのようになる。
「再生しない。よし、一匹倒した。これなら残りも……」
倒し方がわかれば残りは時間の問題だったはずだ。でも、それは残りが四匹の場合の話だ。
いつの間にか数え切れないほどの数のスライムが、ガサガサと音を立てて四方から現れてはどうにもならない。
俺は自分の前と背後の兄妹にしか意識が向いていなかったらしく、こんな事になるまで一切気がつかなかった。
そして気づいた時にはもう遅すぎる……。
倒し方がわかろうと団体で現れたスライム相手には通じない。一匹倒す間に大人数で飛びかかられてお終いだ。
「逃げろーーーーっ!」
こうなってしまっては自分にできるのは、大声で本当に「マズい」のだと伝えることくらいだ。
状況を理解したお兄ちゃんが妹を引っ張って立ち上がらせ、のろのろとだが離れていく。
ちゃんと兄妹の手は握られたままで。
「よし、上手く逃げてくれよ。俺にしてはよくやった方だろう。後は、──時間稼ぎくらいはしないとな!」
一匹倒されたのを見ていたのか、一斉に飛びかかるためにだろうプルプルしているスライムたちに自分から突っ込む。
やられるにしてもできるだけ滅茶苦茶にしてやろうとしか考えはなく、これが下策だろうと後先は考えずに特攻だ。