護衛騎士のキスは嘘をつく
きっかけは、些細な冗談だった。優しいけれど不愛想な彼との食事中に何の気なしに口をついた馬鹿な言葉。
――私の世界では名前を呼ぶ時にキスをするんだよ。
きっとその言葉がこの感情を作ったんだ。
「救世主リコの活躍により我が王国は救われた。この褒賞として国王シュベルンハルス十五世によって願いが聞き届けられる」
「……なるほど」
煌々と大広間を照らすシャンデレラ。薄いカーテンの様な物の後ろにおわす国王。左右に並びたつ貴族の方々。ひどく緊張した雰囲気の中で、私の返答だけが間抜けだった。
救世主リコだなんて、まるで異世界ファンタジーみたいだ。
そう思ったのはこの世界に落とされて一日目のことだ。レポートに追われる平凡な女子大生だった私は、ある日突然このミナリネ王国にトリップした。
私の役目は神が住まうと伝えられる森の奥へ供物を持っていくこと。それは王国への災いを除けるためには避けられないことであるらしく、ついでに異なる世界から来た人間だけしか儀式は果たせない。加えて、例の森には異なる世界から来た人間の血を引く者も入ることが出来る。神の住まいとはいえ私が赴くのは森。さすがに女ひとりでは心許ない、ということで白羽の矢が立ったのが今私の横に居る騎士さまだ。
私は隣で正騎士の構えを取っている男性を見上げた。星空を溶かし込んだような艶めく黒髪に整った顔立ち。射貫くような鋭い紫眸を持つ彼は、初対面の印象に反してとても優しい人だった。お祖母さんが私と同じ世界の人であったらしく、この世界に慣れない私に対しなにくれとなく世話を焼いてくれた。世話、そう世話だ。
「リコ」
「ん?」
私が顔を上げた瞬間、ふわりと影が過った。反射的に目を瞑ると、柔らかな感覚が唇に触れる。目を開けると至近距離にいつもの真顔があった。
――しまった、油断してた。
「国王様が叶えて下さるという望みだが、俺の祖母は祖父との結婚を願った。お前の前の救世主は元の世界に戻ることを願い、三代前の救世主も同様だった。その前の救世主はこの国の貴族位を望んだと言う。更に前例を知りたければ記録が残っているはずだが、もっと知りたいか?」
「……えっと、良いや。ありがとう」
騎士さまは「そうか?」と言って再び前を向いた。
国王さまとの謁見が終わったあと、私と彼は城の食堂に居た。数十年に一度現れる異界の救世主はこの国の人たちにとって注目の的であり、つまり私折口梨子とその護衛騎士トーリさまは時の人なのだ。
そもそも食堂に来た理由がこの国の人たちを見てみたいという私の希望であるため当然たくさんの人が居て、その人々の視線は概ね私たちふたりに集まっていた。そこでキスされて、無口な彼の饒舌を聞いて、普通に返答出来た私は何だかんだ言って慣れてきているのかもしれない。
「リコ」
トーリの香りがして、もう一度キスされた。……うん、さっきの言葉は撤回だ。うなじに、耳に、頬に、熱が集まるのが分かる。慣れるなんて、そんなことある訳無い。
あああ皆さん、そんなに見ないでください。お姉さん、私と彼は恋人じゃないのでショックを受けなくても良いんですよ。コックのおじさん、調理場の奥に広めようとしないでください。
「折角食堂に来たのだから何か食べるか?騎士の知り合いに聞いたらお勧めは魚のフライだそうだが女性にはケーキや菓子も人気だと言っていた」
「えっ、ケーキがあるの?」
「ああ」
「じゃあそれを食べてみたい。あそこで注文すれば良いの?」
「俺が行ってくる。座って待って居ろ」
「ありがとう」
私が立ち上がろうとすると、トーリがそれを制して注文をしに行ってくれた。
……何をしているんだ私は。ひとりになって冷静になると一気に羞恥が襲ってくる。こんな公衆の面前でキスって、バカップルか私たちは。いやバカップルという概念がこの世界にあるのか知らないけどさ。
「救世主さまっ」
私が後悔に襲われつつ木の机に沈んでいると、ぱたぱたと足音がして女の子の声が聞こえた。
「救世主さまにおかれましてはご機嫌麗しく!儀式の成功おめでとう存じ上げます!」
赤いワンピースに白いエプロンをした栗色の髪の女の子だ。その後ろにも数人の同じエプロンを着た女の子たちがいるから城で働くメイドさん見習いとかだろうか。吊り目の女の子が、栗色の女の子を後ろからつついた。
「マーサ、お礼。お礼申しあげないとっ」
「あっ、そうか。国を救ってくださってありがとうございます!」
「えっと、どういたしまして?」
疑問形になってしまったのは、私がいまいち救世の重みを分かっていないからだ。儀式って言っても目が覚めて知らないおじさんたちに説明をされたと思ったら森の中の旅が始まって、泉に供物を沈めてきただけだから私は何ら大したことをしていない。大変なことは大体トーリが引き受けてくれた。
「救世主さま、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「良いよ。あと、言葉もそんなに丁寧じゃなくても良いよ?私はそんなに偉い人間じゃないし」
「ありがとうございます。その……騎士トーリさまのことなのです」
マーサと呼ばれた女の子は意を決したように告げた。後ろで私たちを取り囲んでいる子たちも息を飲んで私を見守っている。緊張しているのかな、可愛い。何て思っていたのも束の間、続く言葉はえらく破壊力があるものだった。
「救世主さまは騎士トーリさまとご結婚なさるのでしょうか?」
「……へ?」
結婚。結婚、する?私と、彼が?
「えええっ⁉どうしてそうなるのっ⁉」
「ああ、やっぱり失礼な質問でしたよね!申し訳ございません!」
マーサは私に向けて慌てて礼をした。それは城で働く女性らしくとても丁寧なものだったけれど、今の私にとっての問題はそこでは無かった。
「え、あの、どうして私とあの人が結婚するの?」
まさか救世主と護衛騎士は結婚する決まりがあるとか。いや、でも彼は何も言っていなかったし大臣もそうだ。大体、前の救世主は元の世界に帰ったと言っていたし。
「失礼な質問をしてしまい申し訳ありません。お気に障ったのであれば……」
「ううん、質問自体は構わないけどどうして結婚するっていう話になっているの?」
「それは、その」
何故だかひどく恐縮してしまった彼女を説き伏せて聞いてみると、その理由ははっきりとしていた。
「人前でキスするのは夫婦か婚約者しか有り得ない?」
「はい。一般的に、口付けは恋愛関係にある男女で交わされるものです」
マーサは大きく頷いた。
――うわあ、やっぱり私のせいだ……。
もしかしたら、とは思ってはいた。でも私がこの世界で関わった人というのはほとんど彼だけであった訳で、その彼が普通にキスしてくるのでここではキスは挨拶代わりとかそんな感じなのかなと思っていた。けれど、それにしてはこの注目具合はおかしいよね。
「ええと、私たちのあれはそういう甘いものではなく」
うう、何て言えばいいんだろう。
初めてキスされた時のことは鮮明に思い出せる。突然こちらの世界に落とされて、訳も分からないまま森に送り出されてから二日目のことだ。神の住処であるからかは知らないが森には特に危険な動物が居ることもなく、食糧その他の必要なものは召喚術で取り寄せられる。私がすることはただ歩いて森の奥地へと向かう事だけだった。
彼は今でこそ良く喋る時もあるものの、当時は本当に無口だった。お祖母さんが私と同じ異世界人だとも知らなかったから世界が違う私たちには共通の話題なんてものがあるはずもない。そうしていい加減沈黙に耐えられなくなった私が言ったのだ。
――私の世界では名前を呼ぶ時にキスをするんだよ。
馬鹿馬鹿しい冗談のつもりだった。今振り返ってみるとどうしてあんなに仕様もない嘘を吐いたのか全く分からない。けれど、何とかして彼が笑ってくれたならとその時思ったことは覚えている。
――そうか。
返ってきた言葉はそれだけだったけど。そして私は失敗したと落ち込んで、しかしそんな冗談は三分後には忘れてしまっていた。
――リコ。
――なに?
夜の闇が溶けた森に、洋灯の光だけが柔らかく浮かび上がっていた。柔らかい光が締め出されて、不意にちゅっと軽い音がした。
――そちらに行くと危ない。寝床はあの木の元に作る。
後から思えば、彼が二文以上喋ったのを聞いたのはその時が初めてだった。しかし私にそんな事を考える余裕はもちろん無く、驚きのあまり口を聞くことも出来なかった。やっと何が起こったのか理解出来たのは彼が寝床の準備をしてくれて横になった後で、ひとりでどれほど悶えたかは説明しなくても分かって貰えると思う。
翌日からも当のトーリには特に変わった様子は無く、と思えば名前を呼ばれる度にキスされて。冗談だったと言い出すタイミングが無く旅は終わってしまったのだ。
「……救世主さま?」
「ああ、えっとトーリと私は――」
「どうかしたか?」
鋭い声が割って入った。後ろを振り向くまでもなく分かる。この二十日余りずっと一緒に居た人だ。
「騎士トーリさま!申し訳ございません、救世主さまとお話をさせて頂いておりました」
マーサが礼―私に向けられたものより幾分か丁寧なものだった―を取った。慌てて後ろに居る女の子たちも続く。失礼します、と言って上げた顔は随分怯えた様子だった。
「何があった?」
「何でも無いよ。話してただけ」
私が否定しても彼の眉間の皺は残ったままだった。怒っている訳では無く、常にこういう顔の人なのだ。おまけに口数も少ないから余計に恐ろしく見える。口調が厳しいのは、儀式を終えた後も望みを叶えてもらうまでは救世主である私の護衛騎士の職務が解かれないためだろう。自分の仕事に対して真面目な騎士さまだから、救世主に何かあっては拙いのだ。
「ケーキは売り切れてしまったそうだ。城の者に頼むか?」
「ううん、わざわざ頼んでくれなくても大丈夫。それに」
元の世界に帰れば、自分でケーキ屋に行って買えば良いし。言葉を飲み込んだのは、目の前にいる人との別れを想像したくなかったからだ。けれど聡い彼は続く言葉が分かったらしい。ぎゅっと結ばれた口元の意味を考えたくなかった。
「他に行きたい所はどこだ」
与えられた部屋に戻ると、彼が尋ねてきた。部屋と言っても数部屋が続きの間になっていて、広さだけで言えばお金持ちのお屋敷程はある。私たちが居るのはその応接間だ。
救世主が褒賞として与えられた望みを言うのは二日後。今日を含め三日間の猶予が許されている。彼はその間、私に付き合ってくれているのだ。それが護衛騎士としての任務なのか優しさなのかは知らないけれど。
「行きたい所、って言ってもなあ……。どこに行ってもさっきみたいに視線を集めることになるでしょう?」
「恐らくな」
この世界の人たちの外見と私のそれは大きく異なる。主に色彩の面で、だ。初めに会った召喚士も大臣もメイドさんたちも皆、それぞれ色鮮やかなピンクだったり水色だったりまるでアニメみたいなパステルカラーの髪を持っている。例外は異世界人である私と、異世界人の血を受け継ぐトーリぐらいだ。この国では黒髪と言うだけでひどく目立つという事以上に、救世主ということがばれてしまうとややこしいことになってしまうのは想像に難くない。
「うーん、やめておこうかな」
「良いのか?」
彼の淡紫が私を見据えた。少しだけ眉を下げたその表情は、私を気遣ってくれていた。
「私はこの部屋に居るし、護衛しなくても大丈夫だよ。何かあったらお城のメイドさんを呼ぶし」
「……俺が居ると邪魔か」
いつも通りの無表情のまま彼が聞いた。
「邪魔なんて、そんな訳無いよ」
何となく顔を見られなくて視線を下げたまま答えると、隣に人が座る気配がした。体が触れそうで触れない微妙な位置だ。と、不意に彼の手が私の髪に触れた。思わず体が硬くなる。
「お前の世界では本当に皆この髪色なのか」
「えっ、うん。そうだよ。そう言えば、初めて会った時もすごく驚いてたね」
「自分以外の黒髪を見るのは初めてだったからな」
「私にとってはこっちの世界の髪色の方が珍しいけどなあ。皆、すごく綺麗な色だよね」
「……俺は」
言葉はそこで途切れた。隣にいる人の顔を覗き込んでみると彼も真っ直ぐこちらを見つめていた。何となく落ち着かなくなって、私から視線を逸らした。
「自分以外見たことが無かった、ってことはご家族は?」
「この黒髪は隔世遺伝だ。祖母は物心ついた頃にはもう白髪になっていた」
「そっか」
トーリが自分のことを話してくれるのは珍しかった。口数が多い訳ではないけれど、それでもぽつりぽつりと子どもの頃のことだとかお祖母さんのことを話してくれた。嬉しくなって色々と聞いてみると、何と彼は肉じゃがを食べたことがあるらしい。
「母が祖母から作り方を聞いたそうだ。一度しか食べたことは無いが美味かった」
「へえ、何だか嬉しい。私の国では肉じゃがコロッケとか、あと肉じゃがの材料に香辛料で味付けをしたカレーっていうものもあってね。美味しいんだよ」
私のふわっとした説明ではきっと分からなかっただろうけれど、彼は頷きつつ聞いてくれた。
「リコの顔を見ているだけで本当に美味しいものなのだと分かる」
ふわりと淡紫の瞳が細められてトーリは柔らかな笑みを零した。それだけの事で、胸がぎゅうっと締め付けられる。
こうやって、私だけが彼をどんどん好きになっていく。私に向けて笑ってくれる度に、ふとした拍子に目が合う度に、キスをされる度に、苦しくて甘いこの感情は大きく育ってしまう。けれど彼が護衛騎士という職務以上の気持ちを持っていないことは明らかだった。狼狽えているのはいつも私だけで、トーリはキスをしても何ら表情は変わらない。だから、これはどこまで行っても一方通行の恋なのだ。
ふわふわと揺れる鮮やかなドレスに、目がちかちかしそうな髪色の人々。ここは舞踏会というおよそ世間一般の日本人には体験できないであろう場所である。そんな中で私折口梨子は今、世にも珍しい救世主を取り囲む人々の真ん中に居た。
「救世主さまは国王陛下にどのような事を望むおつもりで?」
「えっと、私は」
「まさかまだ決まっておられないとか」
「え、あの」
「おお、それなら我らが提案して差し上げようじゃないか!」
私の周りを取り囲んだ貴族のおじさんたちがどっと沸いた。……私、まだ何にも言っていないんだけどなあ。しかし、青緑色の髭を持ったおじさんはそんなことは関係が無いらしく大きなお腹を揺らしながら言った。
「私の息子と結婚するというのは如何かな?救世主さまとあらば、我がハルト家総出をもって歓迎いたしますぞ」
思ったより直球だ。トーリからこんなこともあるかもしれないとは聞いていたけれど、こんなに直接的だとは思わなかった。ちなみに、その護衛騎士は色とりどりの女性たちに取り囲まれている。さっき誰かが話していたのを小耳に挟んだところによると、救世主の護衛騎士というのは子々孫々に伝わるほどの名誉だそうだ。加えて彼は人当たりが良いとは言えないものの救世主の血を引く美形なのだからそりゃあ女性たちは放っておかないはずだ。
私たちが恋人という噂が広まっていて、彼が結婚できないなんてことが無くて良かった。そう思うのは確かに本当なのに、彼が居る方向から無意識に目を逸らしてしまう私が居た。
「いやいや、卿より私の息子はどうです?私の息子と結婚すれば、毎日パーティを開いて贅沢三昧できましょう」
「それなら我がバルモート家に嫁いで下されば……」
私が曖昧な笑顔で受け流している間にも貴族のおじさんたちはぐいぐいアピールしてくる。ノーと言えない日本人だから、こういう時はのらりくらりと躱すことくらいしか対応法をしらない。このピンク色の髪のおじさんの息子と結婚すれば、子供の髪は何色になるんだろう。パステルカラーの色彩と私の凹凸のない顔の造形を受け継いでしまったら可哀想だなあ。売れないバンドマンみたくなりそうだし。
私が黄緑だったりクリーム色だったりする髪の自分の子どもに想いを馳せていると、不意に周りの人たちが道を開けて、進みでてきた水色の髪のおじさんが私に向けて礼を取った。周囲の人の様子やその自信満々な表情からしてかなり偉い人の様だ。
「ご機嫌麗しく、救世主さま。私は王弟のジュレークールだ。今は王位継承権は放棄しているがね。ああ、そんなに固くならなくても良い。貴女に結婚を勧める気は無い、私には子は居ないからな」
「はあ」
じゃあ、何しに来たんだろう?私の疑問を汲み取ったのか、水色のおじさんは人の良さそうに見える笑みを浮かべた。
「私の養子になられるのは如何か」
「養子?」
ええ、と水色のおじさんは頷いた。
「救世主さまは王に次ぐ大きな権力の後ろ盾を得られる。私は救世主さまを娘に出来るこの上ない栄誉を得られる。お互いにとって利のある取引でしょう?それに――伴侶も自由に選べる」
その言葉に私は思わず対面の顔をまじまじと見つめてしまった。私がこの世界に留まる事を切り捨てられないでいる唯一の理由を知っていたとは思えない。けれどその言葉は自分でも驚くほど私の心に深く錘を埋めた。
「――申し訳無い、ジュレ―クール公」
私の意識を掬いあげたのは頭の上から落ちてきた声だった。いつの間に女性たちの輪から抜けてきたのか、護衛騎士の鋭い紫眸は王弟と名乗った水色のおじさんに向かっていた。
「救世主さまはもうお疲れのご様子です。ここで失礼させて頂きたい」
温度の低い声に、周囲を囲んでいた男性たちが怯むのが分かった。
「おお、そうか。お引き留めして済まなかった。救世主さま、私の提案をよくお考え下され」
私が返事をする前に彼が私の手を引いて歩き出した。いつもは私の歩調に合わせてくれるから、こんなに力が強いなんて知らなかった。斜め後から見る横顔には明らかに常より深い眉間の皺が刻まれていた。
「悪かった」
彼がやっと口を開いたのは私の部屋がある区画に着いてからだった。パーティの方に回されているからか、使用人の姿も無く辺りは静まり返っている。
「手は痛くないか」
「痛くはないけど……どうしたの?」
何故突然私をあの場から連れ出したのか。それを聞いたつもりだったけれど返ってきたのは問に対する答えでは無かった。
「お前は、明日」
帰るんだろう。
淡紫の瞳が私を真っ直ぐに捉えた瞬間、身体の奥から冷えていくような心地がした。
例え私がこの世界の貴族の娘となったところでどうすると言うのだろう。何度キスを交わしてもそこにあるのは律儀な彼の優しさだけだ。世界を越えた恋なんて彼にとって迷惑にしかなり得ない。
気が付けば私の頬には涙が一筋伝っていた。
「リコ」
「ごめんなさい」
馬鹿みたいな嘘なんてついてごめんなさい。あなたの優しさに甘えてしまってごめんなさい。好きになってしまってごめんなさい。
続くはずだった言葉を口に出す手段は、大好きなその人によって突然に奪われた。
「っ、ん…… 」
いつもの触れるだけのキスとは違う。一方的に貪る様なキスは絡まった思考を容易く蕩かしてしまう。今にも止まってしまうのではないかと思う位心臓が苦しいのは息が出来ないからではなく、触れる熱が愛おしいからだともう学んでしまっていた。
やっと体が離れても、熱を孕んだ紫色はまだ私を捕らえたままだった。
彼――トーリの行動を自分の都合の良い方に解釈してしまいそうで、そんな自分が嫌になる。
「……ごめんなさい」
だから、狡い私はそれだけ繰り返して視線を逸らした。
翌朝。私はある決意をしていた。
彼と会わずに元の世界に帰る。私が留まったとして、あの人に迷惑を掛けることはしたくなかった。だから謝罪と感謝を述べた手紙だけを残して夜明け前に忍び足で部屋を出た。
本当は大臣に話を通したりもう一度謁見したりしないといけないのかもしれないけど私がお願いする人は適当で有名らしいから大丈夫だろう。実際、その評価は真実だと私は身を以って体感していた。
この国で一番偉い召喚士さまとやらは、この世界に召喚されてすぐ何の説明も無しに私を神の森の前に飛ばすと言う荒業を見せてくれた。本人に言わせれば「その方が効率が良いでしょ?」だそうだが、トーリや大臣にえらく怒られたらしく数分後に森から城に呼ばれ直されたのがこの世界で初めて出来た思い出だ。あの召喚酔いもあと一度しか体験できないと思うと……別に名残惜しくは無いね、うん。
「アレン!」
「リコちゃんだ、こんばんは。こんな時間にどうしたの」
「こんな時間って、アレン今何時か分かってる?」
城の奥にある研究棟の更に奥で、レモン色の髪をした筆頭召喚士は私の質問に首を傾げた。そして日光を入るのを防いでいる分厚いカーテンを勢い良く開き、言った。
「夕方、かな?」
「……また寝てないんだね」
アレンはワーカーホリックなのだ。出世欲と言うよりは興味の赴くままに研究をしていたらいつの間にか国一番の召喚士になってしまっていたらしい。
「そんな事より、いや良くは無いしちゃんと寝るべきだと思うけど。アレンにお願いがあるの」
「なになに?僕に叶えられることならお安い御用だよ」
「アレンじゃないと叶えられないことだよ。私を元の世界に返して欲しいの」
早く言ってしまわないと決心が鈍ってしまいそうだった。私が言い切ると、アレンは「へえ」と驚いているのかどうでも良いのかよく分からない曖昧な声を上げた。
「確かにそれは僕にしか叶えられないねえ」
「うん、だからお願い」
「けどなあ……、本当に良いの?リコちゃんのことを探している人が居るみたいだけど」
アレンは明後日の方向を向いて言った。そちらに視線を向けてみてももちろん何も見えない。そうするとアレンはやれやれとパステルカラーの髪を振って肩を竦めた。
「僕ってばお人好しだから放っておけないんだよね。だから、ほら」
召喚士がぱちんと指を鳴らした途端に、目の前にあったレモン色がぐにゃりと歪んだ。
「リコちゃんはすぐ感情が顔に出るけどそうじゃない人もいるんだよ。彼はどうかな?」
「へ……っ、ちょっ、アレン⁉」
アレンが何か言っていたけれど、それについて深く考える余裕は無かった。体が引っ張られて、高い場所から落下する瞬間みたいに体内の器官が浮く心地がする。ジェットコースター酔いに似ているこれは、召喚の時に決まって訪れる。
と、言うことは。
「――リコ」
耳元で大好きな人の声がした。驚いて体を起こそうとすると私の腰に誰かの手が回されていることに気付いた。拘束はそれ程強くないのに身動きが取れない。視界の端で見慣れた黒髪が揺れた。……多分、私はトーリに抱きしめられている。
「ト、え、どうしてここに居るの?いや、それよりこの体勢は」
「リコ」
私の名を呼ぶ掠れた声が、確かに鼓膜を震わせている。もう一生会わないのだと思っていた。それなのに今、私は彼の腕の中にいる。全く以て状況が分からない。
「……間に合って良かった」
そう呟いた人の顔を見たくて身を捩ると、体に回された腕の力が少し強くなった。煩く跳ねている心臓の音が二つ重なっているのが聞こえる。
「私、あなたに謝らないといけないことがある」
嫌われたり軽蔑されるのが怖くてずっと言えなかったことだ。理由は分からないけれどアレンが機会を作ってくれたのだから最後に言っておかないといけない。
「名前を呼ぶ時にキスをする慣習があるっていうのは嘘なの。ずっと言い出せなくて、本当にごめんなさい」
「知っていた」
「…………えっ⁉」
間髪を入れずに返ってきた答えに、たっぷり十数秒間私の頭は真っ白になった。
「なっ……、えっ、どうして⁉」
「救世主は数十年に一度召喚されるからお前の世界の文化や風習は大体記録されている。祖母からもその慣習は聞いたことがなかったしな。初めから、嘘だと知っていた」
違う、その理由も気になったけれど、私が一番知りたいのはそっちじゃない!
「――お前の目に紫色が映ってたんだ」
「は?」
恥ずかしすぎて一旦この人から離れて出直したいけれど、私の背中にまわる筋肉質な腕がそれを許してくれない。結局言葉を噛み砕くことしか出来ないでいる私に、彼が唐突に言葉を落とした。
「俺の名前は、本当はこう書くのだと祖母から聞いた」
不意に体が離されて、漸くトーリの顔が見えた。いつも通りの感情が見えない顔だったけれど私の左手を掴んだ手は少しだけ震えている気がした。
そうして手の平に文字がなぞられた。
「藤、里?」
「ああ。祖母がつけた名だ」
彼の淡紫色が瞬きをした。多くの実を付ける凛とした紫色の花の名は確かに彼にぴったりだ。私と同郷のその人は、懐かしい黒髪を持つ孫を慈しんだに違いない。
「お前の目に俺の紫が映っているのを見て、不思議と見たことも無い花を見つけたような気がした。だから初めはその理由を知りたかったんだ」
「『初めは』?」
「ああ。……リコを知る度に俺は少しずつ惹かれていた」
「でもっ、いつも私だけがあなたのことを好きで、キスをしてくる時も動揺していることなんて無かったし」
――リコちゃんはすぐ感情が顔に出るけどそうじゃない人もいるんだよ。彼はどうかな?
必死で言い募ろうとした時頭の中に浮かんだのは私をこの世界に、そして『彼』の腕の中に連れてきた召喚士アレンの言葉だった。確かにキスした後も彼は平常通りの無表情だった。けれどもし、いつもと違うことがあるとするならば。
「もしかして緊張したときに饒舌になったり、とか……?」
「…………好きな女にキスをするのに、緊張しないわけがないだろう」
そう言うと、彼はふいとそっぽを向いた。その首の後ろは薄暗い廊下でも分かるくらい真っ赤になっている。
好きな女。好きな女……って、えっ⁉私の事、だよね⁉あまりにも突然の言葉に私の脳内は嬉しさよりも混乱が広がっていた。口をぱくぱくとさせている私の顔はひどく間抜けなはずなのに、目の前の彼はまるで宝物を愛おしむ様な表情でとろりと微笑んだ。
「名前を呼んでくれないか、リコ」
「え?」
「お前は俺の名前を呼んだことがないだろう」
……ばれていたのか。
出会って二日目にあんな嘘を吐いてしまったのだからこちらから名前を呼べるはずもない。だからこれまで出来るだけ避けてきた。しかし嘘は初めからばれてしまっていたと判明して、しかも貴重な彼の笑顔で頼まれてしまっては私に断る術があるはずもなく。
「――藤里」
トーリは「本当はそう発音するんだな」と呟いてもう一度私の体を強く抱きしめた。と、耳元で低い声が聞いた。
「キスはしなくて良いのか?」
「……嘘だって知ってたくせに」
意地悪な言葉に言い返すと、トーリが珍しく声を上げて笑った。一歩下がると今度は簡単に体を放してく
れた。トーリの頬を両手で包んで、精一杯背伸びをする。彼が眉を上げた一瞬の隙をついて唇を重ねた。
初めての嘘が無いキスは、今までのどんなキスより甘かった。