散歩
彼女は窓から差し込む眩い光に起こされ、ゆっくりと体を起こす。「ったたた。」布団も敷かずに寝たため彼女の体は所々痺れたり痛めたりしてる。それでも何とか立ち上がった彼女は窓から外を眺める。夜間、一面紫苑や黒で塗りつぶされていた景色は生命力の感じられる緑で彩られていた。それを見た彼女は窓を開ける。湿ってじめじめとしていた部屋の中に少しだけ涼しい風が吹き込んでくる。緑の匂いのするその風に目を瞑り少しの間だけ当たる。
彼女は立ち上がり昨日説明されていない洗面台を探し家を散策した。彼女が来た初日、全てモノクロにしか見えなかったものに色がついた。そして夢みたいだった青年の優しさ、時計の落ち着く音、穴の開いた座布団、長机に記憶のなかで色が付けられていく。
数分間探したのち、この家に洗面台なんてものがないことに気づく。昨日は暗くて気づかなかったがこの家は相当古いものらしくドアは全て引き戸、居間の床には畳が敷いてあった。
彼女は青年に水の出る場所を聞こうとしたが、まだ日が出ていることを考えた。彼は昨夜「太陽が出ちゃったら無力だけど」と言っていた。聞いたその時はあまり引っかからなかったが今考えてみればおかしな話だ、一体どんな理由があるのだろうかとそう彼女は疑問に思った。
一通り家の中を探し回った後で、彼女はダメ元覚悟で家から出た。玄関を開けると強い夏の日差しが彼女を包む。彼女は左手で太陽を隠しながら空を見た、それでも指の間から光が漏れ彼女の目に差し込んでくる。文句なしの快晴、雲なんてどこにもなくただ青く、広がった空が彼女弦の目に映る。
「んー、いい天気。」
空を見たのはいつぶりだろうか。働いていた間はそんな余裕すらなかったな、なんて彼女は懐かしむように考えた思考を途中で半ば無理矢理止めた。彼女は思い出したくもない事。今でも思い出したくない悪夢のような事をあたかもいい思い出のようにに思い出すのはよくないと判断した。
頭の中をぐちゃぐちゃにし自分をごまかした彼女は外に水の出る場所がないか探す、すると大して時間はかからずにそれはすぐに見つかった。彼女も今更水道があるとは思ってはいなかった、たぶんこの家は昭和初期に建てられた程度のものだろうと勝手に踏んでいた。だからあるとすればポンプ式、今の若い世代には通じないかもしれないが手押しポンプや井戸ポンプのようなものがあるのだろうと思っていた。
「うわぁ…」
彼女の目に入ったもの、それはおおよそ江戸時代あたりに使われていたであろうデザインの井戸だった。
彼女は近づいて中を覗き込む、周りが明るいせいか真っすぐ続いているはずの井戸の奥先が暗すぎて全く見えなかった。それでもとりあえずそばにあったにこの井戸で使われているであろう紐のついた桶を彼女は投げ入れてみる。
シュルシュルと縄が落ちていきある程度井戸の中へ吸い込まれていったときポチャンと何かが水に落ちた音が井戸の中を反響し彼女の耳に届いた。澄んだその音は身に染みるような音だった。
彼女は音を確認し、中に水があることを確信し引き上げる、しかし彼女のっ貴社な腕で桶一杯分の水を引っ張り上げるには結構な時間を要した。
彼女の息は荒くなり、ツーといたるところから汗が流れる。井戸から桶が出てきたとき彼女はもう汗でびっしょり濡れていた。こんな状況に置かれてやっと風呂場の使い方など聞いていなかったことを後悔する。
桶から水を両手ですくい顔に当てバシャバシャと洗う。もともとメイクはしない派だった彼女はここに来てその手の不便を感じることはなかった。水に触れた顔がどんどん体温を奪われ気持ちがよく、ふと彼女の頭を大胆でバカな思い付きがよぎった。普通なら考えても実行しないだろう事を、彼女はここだからやってみようと思った。
昨日乗ってきた車の中に着替えはある、今は汗だくでいち早くこの汗を流したい、ここには誰もいない、青年は太陽の出ている間は出てこない、なら。
彼女は桶を自分に向って強くひっくり返した。水が勢いよく肌にあたる。爽快感と涼しさが身を包み彼女は満足に微笑んだ。
「あー、涼しい。」
長い髪から水を滴らせつつ車へそそくさと足を運び、ドアを開け荷物を取り出し家へと向かった。玄関を開ける、このまま家の中に入ると家の中を濡らしてしまうので彼女はいったん濡れている衣服を全部脱ぎ、荷物から取り出した大き目のタオルに身を包み、自室へと駆け込んだ。
自室に戻った彼女は素早く着替え今日のこの後を考えた。これから何をしようか、そう考えつつもとりあえず台所へと向かう。食材は木箱に詰め込まれていたのを勝手に使い適当に見繕った。一人で食事をとる。青年がいなかったので、“いただきます”や“ごちそうさま”は言わない。
「んー、何しよっかな~」
逆に何ができるのだろうか。そんなことを考えつつ彼女の中ではもう答えは出ていた。玄関に向かい履き慣れたスニーカーを履く、足を立て爪先をトントン、踵をしっかり靴の中に入れる。
「行ってきます、」
青年の名前を口にしようとしていまだにお互い名乗ってないことに気づく、彼の名前を発しようと開けた口がぽかんとそのままになった。彼女はもともとから自分の名前は好きじゃなかった、だから心のどこかで名乗るのを敬遠していたのかもしれない。でもそんなことがどうでもよくなるぐらいに彼女は幸せだった。静かに閉じた口元は自然と笑みを帯びる。誰かが帰りを待ってくれている、そんな小さくでも大きい事、それが彼女にとっては嬉しくてたまらない事だった。
「さて、どこに行こうか。」
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彼女はある程度したところに道らしきもの見つけ、今日はそれが続く限り歩いていこうと考えた。途中の分かれ道を全て上っている方、つまりきつそうな方を選ぶ。ほんの一週間前と比較すれば考えられないような今だった。曲がりくねった道、風が吹き込み木々や葉っぱのこすれ合う音が一定の不規則なリズムを刻み彼女の耳に入る。
足を進める速度は速くなったり遅くなったりしたが彼女は疲れなかった。彼女は周りの風景を楽しみながらもこの先に何があるのか楽しみで仕方なかった。
「こーくん待ってよ。」「×―ちゃん遅いよ!早く早く!」
なんてはしゃぎながら幼い彼と遊んでいたのはいつの事だっただろうか、彼は今頃何をしているのかな?すくなくとも私みたいに人を轢き殺してはいないんだろうけど、あの頃私たちが目指した先には何があったんだっけ…。その先は彼女はいくら考えても思い出せなかった。
記憶は摩耗しきっていてその部分以外の情報はなくなっていた、彼の本当の名前すら思い出せなくなっていた。彼女はどことなく彼が青年に似ていると思った。そのことは深くは考られず気のせいにされ、頭の隅っこに押しやられる。
「すごい前のことだし、思い出せないのも仕方ないよね。」
記憶の中の彼が今幸せでありますように、と少しだけお願いをした。心に余裕ができてきたのだろう、彼女のゆっくりだった足踏みは少しだけ早くなっている様だった。
この先に、彼女は何かを求めていた。どんなものでもいい何か。ゴールと呼べるようなものそんな何かが欲しかった。彼女は仕事でゴールを目指し、その結果たどり着くことはできなかったから。まるで目指した方向と逆に行ってしまったから。
そうやってどんどん進んでいくうちに彼女の目には森の切れ目が映る、でもここからじゃ向こう側が明るすぎて、眩しすぎて全然何があるのかなんて見えなかった。
それがもどかしくて、ゴールまでの距離が何故か忌々しくて、手が届きそうなのが歯がゆくて、楽しみでじれったくて彼女は駆け出した。
たった数十メートルのでこぼこした坂を全力で登る、息が切れても、足が引っ掛かって靴が片方脱げても全く構わずに進んだ。そして彼女は森の裂け目へとゴールに立つ。
「うっわぁぁ…」
そこに待っていたのは一面の花畑だった、赤、白、黄、ピンクたくさんの色で彩られた花畑は彼女から声を奪うほど感動させた。彼女が見蕩れていると花畑に吹いた風が彼女を祝福するように花吹雪を作り出す。
彼女は用意されていたゴールが、快事、娯しみ、楽しみ、慶しみ、御楽、佚楽・愉快、悦び、愉しみ、逸楽、快楽、愉楽、悦楽、歓び、そんな言葉をいくら尽くしても足りないくらい彼女は嬉しかった。求めた先に何かがちゃんとあるという感覚が何事にも代えがたいような、暖かい感情を彼女に与えた。
彼女は再び駆け出し花畑の中を走り抜けていく、まるで無邪気な子供のように、屈託なく笑いながら花の絨毯を散らしながら駆けていく。
くるくる舞わって、目が回って、その場に後ろ向きに倒れる。心地いい風、甘いにおい、照り付ける日差しがどうしようもなく嬉しくて、彼女はいろいろな衝動に駆られた。
もっと何かがしたい。もっと楽しいことがしたい。楽しさで自分を埋めたい。
そして何となく、それが叶う気がする。そう彼女は感じた。
「あーあ、どうしてくれんのよ…これからが楽しみになっちゃったじゃん…」
帰ったら夜まで待ってこのことを青年に話してみよう、たった一人の同居人は言ったどんな反応をくれるだろうか、そんなことを考え彼女は頬を緩ませる。
夜になれば、そう考えて、でも待てなくて彼女は一人この場所でずっと溜まっていたストレスを吐き出すようにはしゃいで回った。まるで子供みたいに。日が沈み始め、花畑が一面橙一色に染まったときにはすでに彼女は暖かい地面をベッドにして、気持ちよく眠りに落ちていた。
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青年は好きな時間に起きたり寝たりすることが得意だった。体内時計が人より発達しているとか詳しい理由を一度だけ聞かされたことがある、しかし青年にとってそんな原因はどうでもよく大して憶えてはいなかった。
起きてすぐ居間に出て自分の身長ほどある時計を確認する、目を時計に向けたときちょうど時計が鳴り出した。
「一」「二」「三」「四」「五」「六」「七」「八」。「よし、予定通り。」
彼は台所に向い、段ボールに入っている食材を手にする、この段ボールは彼がここに来た時からあったものでいくら取り出しても減ることがない、いったどんな仕組みになっているのか全く理解しているわけではないが背に腹はかえれない、空腹に青年は正直だった。
手早く料理を済ませた後、彼は昨日の彼女との食事を思い出した。彼女はちゃんと食事をとったのだろうかと考えあたりを見回す、来た時と変わらない閑散とした雰囲気、静寂がただよっていた。彼女の気配がしない気がして彼女の部屋の前に立った、襖を開けようとして寸でのところでその行動を辞めた。確認といっても相手は女性だ、下手にやらかしてしまえばこれからの同棲が成立しないことを青年は考えた。
青年は別の方法を考え、玄関へとトコトコと足を進める。
靴の数を確認し、青年は彼女の分がないことに気づいた。青年は冷静を保ちながら考える。
1、彼女は日の高いうちに起きて外に出てしまい戻ってこられなくなっている。
2、彼女は僕よりちょっと前に起き出ていったばかり。
3、そもそも彼女は僕の妄想の産物で、孤独に耐えられなくなって僕の幻覚で初めからいなかった。
青年はまず3番の仮説を潰した。今は自己嫌悪にふっけている場合じゃないと青年は思ったからだった。
手を顎につけ頭脳を回転させ思案にふっける。ほかの可能性もなくはないのだが、たぶんどちらかなのだろう、そして何となく、青年は何の根拠もなく嫌な予感がした。
この予感は半分だけあたり、半分だけ外れることになる。
「1か?」
彼は自分自身に問う、ここで僕はそう行動すればいい?どうすれば彼女とまた笑うことができるだろう。もう失うことはこりごりだった。もう何も失いたくはなかった。彼女にここは安全なんて言っておいて本当に安全な場所はどこにも存在しないことを彼は知っていた。
人がそこにいる限り、絶対に死なない場所なんてものはこの世のどこにもないことを彼は身をもって知っていた。
青年は不安になっていく、一度なり始めた胸騒ぎは次第にその大きさを増し青年を飲み込んでいく、青年にはトラウマがあった。大切なものを目の前で亡くし、絶望にくれた経験があった。そうやってトラウマは青年の足を動かし始める。
青年は慌てながら、靴のかかとを踏み玄関を荒っぽくあけて出ていく。彼の用意した食事は誰の口につくこともなく冷えていった。
青年は頭の中で彼女が行きそうな場所をリストアップしていく、小高い丘、花畑、大きな川、しかしどこに何があるかも知らない彼女が生きたいところにホイホイ行くことができるだろうか。
青年は分かれ道に立ち、いったん止まり考え込む。苦悶の表情を浮かべた青年の頭にふと昨日の会話の一部がよみがえる。
「私もあなたも変な奴。」
昨日の会話で彼女の感性と自分の感性に似通ったところがあることはわかっていた、それが自分の存在が認められてた様で、どうしようもないくらい嬉しかったのを青年は憶えていた。
「じゃぁ、たぶんこっちだよな。」
根拠なんて何もない、でも僕だったら必ずこっちに進む。そして彼女だってこっちに進んだんじゃないだろうか。こっちで合っている。青年は確信を持った。
青年は坂道を勢いよく駆けあがっていく。彼女が登ったその道をその何倍もの速度で駆け抜けていった、青年に久しぶりに心臓が張り裂けそうな感覚が襲う、それが青年には嬉しくてついつい走りながら喜びをこぼす。
「あぁ、いい気分だ。」
青年は呟く、汗をたらし下だけ見て、転ばないように、そしてできるだけ早く足を進める。前から強い光が差し込み顔を上げると月の光が森で遮られていない場所が見える、ここからは明るすぎて見えないが微かに彼女の気配がした気がした。
限界だと思っていた足が自分の意志に応じたようにさらに加速した、地に足がついていないような、彼も体感したこともないスピードで走っていく。今更こんなになってやっと自分が生きている感じがした。
月明かりに照らされた花畑を見て、真ん中あたりに人間がいるのが見て取れた。彼はそのままのスピードでその場所へと急ぐ。
苦しかった胸がさらに苦しくなる、息苦しさじゃなく別の苦しさ、心臓がきゅっとしまったような類のもの。青年には前にも身に覚えのあるものだった。
横になっている人影のそばに駆けつけて彼女に目を落とす、彼女の嬉しそうで心地よさそうな寝顔を見ることができた。青年はなんだか馬鹿馬鹿しくなり、彼女のそばで膝を折って腰をゆっくりと下ろした。
「ったく、心配かけさせて…」
青年は彼女の頬っぺたをちょんちょん突つく、「むんんん…」と彼女の顔は動いたが彼女は起きなかった。
青年は彼女をロッケットに入っている元恋人に重ね、彼女の頬を慈しみながらなぞった。青年の元恋人はこうするとくすぐったがってすぐに起きる、そして彼女も同様にむくっと体を起こした。
目の焦点のあっていない覚醒前の彼女に優しく青年は声をかける。
「おはよう、そしてこんばんは。」
「……えっと、なんであなたがここに?ここではしゃいだとこまでは憶えてるんだけどなぁー」
彼女は少しの間ぼーっとした表情を見せた後頭をぐしゃぐしゃにして思い出そうとした、そしてあたりを見回してとっくに日が暮れていることに今更気が付く。
「もしかして、心配して探しに来てくれたり…?」
「もしかしなくても。」
青年は含みのある笑いを彼女に向ける。彼女は申し訳なさそうな表情を作り顔の前に両手を合わせ青年に謝るようなポーズをとった。
「ごめん、迷惑かけちゃって。」
「いいよ、それと心配はしたけど迷惑なんかじゃない、僕は君が来てくれて心からよかったって思ってる、君が来てくれたから久しぶりに声が出た、いろんなことを思い出せた、笑えた、単調だったものが壊されて予測がつかないような、そんな風に思えた。」
寝起きの彼女がわかったような、わからないような顔で青白く照らされた青年の顔を眺める。そんな彼女の顔を見て青年はにこやかに微笑んで彼女の頭を撫でた。
「君が来てくれなかったら、たぶん僕は今頃、狂ってたかもしれないってこと。」
そういって青年は立ち上がる、先に立ち上がった青年に彼女が手を伸ばし、それを青年は優しく引っ張って彼女を立ちあがらせた。そして青年が手を放そうとすると彼女は青年の手をぎゅっと握り、腕を抱きしめた。青年は少し驚き彼女の方を見ると彼女はそっぽを向いてこう言った。
「年上命令、私を転ばさないように家まで連れていきなさい。」
「はいはい、」青年は呆れたような、でも歓気が漏れた声を上げる。
月明かりが色を失った花畑に、ぴったりとくっついた二人の影を映し出した。
「じゃ、帰ろうか、」