出会い
一台の車が雨の中を心地よく走る、既に道なんてものはコンクリートからただの土へとなり、木が避けた獣道を走っている。車が選んで分岐できるような別れ道はなく、ただただ導かれるように、導かれるままに進んでいく。車のスピードはように百を超えていて一度事故の形跡さえ見られる。三日三晩休まず走り続けたその車が力尽き止まるころには、日が天球の真上に配置されあたり一面を覆っていた雨雲はどこかへと消え去っていた。
「おぉ、おぉいいところなんじゃない? 周り森に囲まれた人間界から隔たれたように建つこの家!横にはちょっとした園芸らしき後! とりあえず人が住んでるってことは間違いなさそうね!」
車から降りた若い女性は目の前にある古ぼけた民家を見て一通り、たった一人ではしゃいだ後、「くー」っと背伸びを一つした。かれこれ長い時間運転し続けた彼女の目の下にはクマができており、彼女の衣服には見た目にそぐわない血生臭いにおいがこびりついていた。荷台には約60キロの発臭元が半ば強引に詰め込まれている。
彼女はフラフラとどこかおぼつかない足取りで家へと足を進め、家の玄関に張り出された張り紙に疑問符を頭の上に浮かべた。数日前まで一般的な会社に勤めていたごくごく一般人だった彼女には少し変わった日本語に感じた。
「いつでもいますが、ご用件のある方は夜にお越しください。」
拙く勢い任せに書かれたその文字を読み返すたびに疑問符が増えていく、彼女は疲弊しきっており考えるのだってままならない状態だった。それにも関わらず彼女は考える。
「……、取り合えず夜に出直せってこと?」
彼女は車に寄りかかり張り紙について考え直す、ぐるぐると思考を回すと、彼女の頭に熱がこもっていき「うー」と呻き声を漏らした。そして彼女はしばらくした後、その思考を切った。彼女の意志ではなく彼女の体の判断、彼女はもう限界だった。精神的にも、体力的にも。
この場所の風は涼しく気持ちがいい、木々に囲まれ夏の暑さは半減してしまう。アブラゼミは生息できない地域らしく、夏の風物詩とも呼べる五月蠅さの代わりに遠くで控えめに滴る川の音がする。それが木々が夏の少しだけ強い風に揺られこすれ合う音と混じり、子守歌のような役割をしてくれる。居眠りに最適なこの環境で彼女はゆっくりと目を閉じ、疲れ切った心と体を徐に癒していった。
彼女が目を閉じると、いつの間にか彼女は今までに経験した事もないくらいの安心感と快適な環境に包まれ眠りに落ちていた。
「おはよう、そしてこんばんは。」
彼女が目を覚ました時には既に日が沈んでしまっていて辺り一面、夏の生き生きとした若緑色だった森が黒や紫紺といった暗色に拙く塗りつぶされていた。月の光だけが薄暗く彼女と彼女に声をかけた人物を青白く照らす。彼女は目をこすりながら自分の今置かれた状況を確認しだした。
「こっ、こんばんは…」
真の通らない、どこかあやふやな挨拶が彼女の口から細々と現れる。それでも虫の声一つないこの閑散とした空間で意思疎通を行うには充分な声量だった。
彼女は目の前に現れた男性について、いったい彼が何者なのか、満足な解答が想像できずに少しだけ動揺していた。まだ目もはっきりと覚めておらず青年の姿も青白い光に包まれぼやけていて、まだはっきりとも見えていない。でも彼がどこか安心するようなそんな雰囲気を持った存在である事が、混乱の一歩手前だった彼女を繫ぎ止めていた。
青年は彼女のそんな様子を見かねたのかゆっくりと手を上げ張り紙の張ってある一軒家のほうを指差した。
「僕はあそこに住んでいる人間なんだけどさ、何か用事?いやいや怒ってるとかじゃなくってねあんな張り紙してるからさ、もしかしたら夜が来るのを待ってたのかなーなんて思っただけ」
彼女は静かに首を縦に振る、その様子を見て青年は少し嬉しそうに微笑んだ。
「そう…じゃぁ立ち話も何だし家の中で話を聞こうかな。お茶とお菓子ぐらいは出すよ。実はずっと一人で寂しかったんだー。」
青年は踏み出しさっさと家のほうへ向かってしまう。置いて行かれないように彼女は少しだけ警戒しつつも青年の後についていく、今まで暗闇なんて微塵も怖くなかったはずなのに、ここの暗闇は少しだけ怖かった、いつもと違う、何か正体不明の異質な物が漂っているように彼女は感じた。青年との間が少しずつ広がっていく、皮膚にちょっとした針を刺したように恐怖が滲み出てくる。彼女は、それがどうしてか嫌で怖くて急ぎ足で追いつき青年の横を歩き出した。
ガラララ
玄関が開き真っ暗の廊下が現れる。青年は丁寧に靴を並べて先に上がり、彼女も青年に習って上がる。廊下は月の光すら差し込まないせいで廊下の先が闇に飲まれ彼女には全く、それこそ何も見えなかった。
「ちょっと、電気は?」
ついさっき暗闇に恐怖心が芽を出した彼女からしてみれば、青年がいたずらしわざと明かりをつけていないようにしか思えず、ほんの少しだけ憤りのこもった声が発せられる。青年はその声にちょっと苦笑しながら口をあけた。
「こんな所に電気なんて通ってるわけないでしょ?」
その声に気づかされた彼女は納得と言わんばかりに手元で手の平にこぶしを落とした。ポンっなんて擬音が出てくるぐらい。暗闇の中その様子を見て青年は面白そうに見分する。
「ん? 見えてるの?」
彼女は見えているはずがないのに口元が笑って見える青年の態度に疑問を持ち問う、まだ玄関付近で彼女は青年の手元こそ見えないが、かろうじて青年の表情はおぼろげながら確認を取ることができた。そして彼女は不思議そうな顔をする。
「うん、ほら。」
青年は唐突に振り向き彼女の顔の前へと顔を持っていく、彼女が驚いて反り返ってもさらに突き出し顔と顔の距離はほんの数センチほどまで縮まる。彼は右手を右の眼もとに持っていき彼女がわかりやすいように、確認しやすいように瞼を指でどけた。
「どう見える?」
青年は問う、悲哀や誇張にもとらえれるような表情。そんな全く本心の読み取れない表情を作った。
「…どうって、普通の目にしかにえないわよ。」
「よく見て。」
青年の声がすぐに彼女に返る、青年は気づいてほしかった。自分の背負った欠陥に、自分が今ここにいる理由に。
「目が黒い?」
ここだけ聞けば至極当たり前なことのように聞こえるが彼女の伝えたいことはそんな当たり前の事じゃなかった、もちろん青年には彼女が何を言いたいのかは容易にわかる。自分の事だから。青年はその答えに満足したように体勢を元に戻した。彼女も仰け反った体勢から元の直立へと戻る。
「当たり。正確には瞳孔が開きっぱなしになってる。」
青年は軽薄そうに笑って見せた。
「なんだか死んでるみたいだね。」
そんな彼女の声に少しだけ青年は止まり「そっか…」と何やら独り言のように呟きまたトコトコと歩いていく。追いつこうとして彼女は踏み出すと彼女は見えない何かに躓き前に体制を大きく崩した。ちょうどそこにあった青年の背中に抱き着き、冷たい廊下の床に彼女の頬がつくことはなかった。
「っあぁ、ごめん。」
その一連の動作を見て、青年は何かに気づいたように手を差し出す。しかしあたり一面に黒が見える廊下の中、彼女にその行動は全く見えず気づかなかった。
「危ないし、ほら。」
彼女が青年の言葉を理解できず、その場にただただ立ち尽くすと、唐突に彼女の手に青年の手が重なった。青年は彼女の手を握り、「これで大丈夫」と笑い声の混じった声で言う。彼女は突然手を握られ少し驚いた素振りを見せたが、よりどころを求めていた恐怖感に潰されそうだった彼女の心が青年の優しい声に惹かれ、そのまま彼に任せることにした。
そうやって二人でトコトコ。廊下の突き当りにある扉の前に立つ。扉を横にスライドさせて中に入ると少し広い空間に出た。もちろん明かりは無し、それでも窓がある分廊下より明るく、何がこの場にあるのかの確認くらいはできた。そこには長い机、穴の開いた座布団、厚く古すぎてタイトルがもう読めなくなってしまっている小難しそうな本、本棚、木箱、どこかで聞いたような大きなのっぽの古時計。
「三日くらい前にここに来たんだけどさ、片づけても片づけても気づいた時には元通りになっちゃうんだよね。ひとりでに何もかもが元通りになっちゃうんだ。」
青年曰く、座布団や長机を移動させても目を離したすきに元に戻ってしまうという。それを聞いた彼女は、背中に気味の悪い嫌な汗が、ゆっくりと滴るのを感じた。
「へぇーそうなんだ…」
力ない返事が広い部屋にこだまする。それから青年は彼女に例の座布団へ案内し長机を挟んで彼女の向かい側へと座った。
「さてと、さっきから気になってるんだけどさ、ここがどこだか知ってる?」
「…いや、知らない。」
彼女はポケットからスマホを取り出し現在地を確認しようとした、しかしスマホには現在地はおろか時刻までもがでたらめに表示されていた。
“午後後56時89分、北緯709度、南緯348度、西経0度、東経545度。”
「…なに、これ。」
彼女の呼吸は急に早くなり肌に鳥肌が立っていく。えも言われないような恐しさ、己の無知や闇からくる恐怖感に彼女は飲まれていった。彼女は奇怪な表示をしたスマホを腰を丸めてただただ眺める。ここは一体どこだ? 彼女は自らの決断出来ておきながら、何もわからない何も知らないこの場所の事に対して、無責任にも心に抱いた恐怖を増幅させていった。
「大丈夫、怖くない。安心して。」
青年の優しい声が彼女の耳に届いたとき限界まで張りつめていた彼女の心と涙腺が一気に緩み彼女の頬を滴が伝っていった。月の光が当たり反射し綺麗に光る。青年はそんな彼女の様子に少しだけ見蕩れた後、再び声をかけた。
「ここがどこなのかは今は言えない、でもそのうち君は気づくと思う。ここの安全は僕が保証する、たった三日だけどここに早くきていろいろ解ったんだ。ここは怖い場所じゃない、それだけは信じてほしい。」
男性にしては少しだけ高い透き通った曇りのない声、そんな声が彼女の精神を安定させ不安を取り除いていった。彼女はものの数分で落ち着きを取り戻しそれを見計らったように青年はまた彼女に話しかけた。
「それで、どんな用事があって夜まで待ってたのか聞いていい?」
彼女の様子を窺うように、慎重に言葉を選んで青年は聞いた。その言葉を聞いて彼女は持っていたバックの中から額にしてだいたい数百万の一束の福沢諭吉を取り出し、机の上において座布団の上で土下座して青年に頼んだ。
「お願いです、ここにおいてください。私には生きる目的も場所もないんです。」
彼女は誠心誠意をこめて頭を下げた。青年は立ち上がり彼女の横にやってきて「まぁまぁ顔を上げてよ」と彼女に土下座を辞めさせて自分の席へと再び座った。青年はうーんと少し考えたような素振りを見せた後、何か思いついたように左手を右こぶしでポンと一つ打った。これらの言動には意味はなくただ彼女の真似をしただけのものだった。
「僕としては全く構わないんだけど、いいの? 君としては、こんな訳も分からない夜にしか動けないような奴と同棲なんて。」
同棲という響きに彼女は少し気恥しくなって部屋を眺めているふりをした。そういった恋人同士がするようなことに彼女はずっと憧れていた。決して顔が悪いわけではない、むしろ美醜に分類すれば必ず美人の方に入るであろう容姿を持ち、真面目で優秀だった彼女には何故か恋人ができることはなかった。恋人を作ることに抵抗があったわけでもない、恋愛には人並みに関心があった。しかし中高一貫の女子高に通いそのまま女子大へと進学した彼女には出会いがなく機会がなかった。憧れていた一流の会社に働き出してからは身を粉にして働きそんなことにかまけている時間はないと思っていた。
彼女にとって恋人同士でするようなことはどこか手の届かない空想上のものというイメージが出来上がってしまっていた。それらに彼女は憧れるが届かない。手を伸ばそうとはしない。
そこまで憧れていたことが目の前に降って湧く、意中の男性かどうかよりもそういった恋人同士ですることの方に彼女は無意識に執着していた。
「わっ、私としてもかまわないかなっ、」
彼女は少し茫然自失となりながらもなんとか返事をする。そんな自分が恥ずかしくて、そして彼女は照れて伏目になった。
そんな彼女の様子を見て青年は何かと重ね驚きつつも微笑む。青白く照らされた彼の顔に優しい笑い顔が映った。
「とりあえず、これは直しなよ、僕がもらってもこんなところじゃ使い道もないしさ。そもそも勝手に住み着いた身だからこんなものはもらえない。」
そう言って青年は札束を押し机の上を滑らせて彼女の方に返した。
「そんな事より、何で君がここに来たかを教えてほしいんだけどさ、ダメかな…」
青年のあたりまえともいえる問いに、彼女は少し戸惑った。なぜなら単純に話したくなかったから、思い出したくもなかったから。人間を轢き殺したこともその前のことも。
口から出まかせを言えば済む話にも拘らず彼女はそうしなかった、もう出まかせを言い他人を騙す自分には戻りたくなかった。
彼女が悶々と考え込み苦しんでいる様子を見て青年は慌てて助け舟を出す。
「話したくなかったら別に無理にとは言わないからさ。ほら、これから一緒に住むわけだしさ、いつか話してほしいな。」
青年はそこそこ人間の出来た人物だった。何気ない気遣いが彼女の心に余裕を与えていく。
「うん、ありがと。じゃぁあなたが信用のおける人間だってわかったときに話そうかな!」
暗闇の中彼女はいたずらっぽく青年に向けて笑顔を作った。元気な子供のような笑顔に青年はまたあの人に重ね思い出す。苦虫を噛み潰したような顔になりそうなのを我慢し彼女と同じような笑みを返した。
「それであなたはなんでこんなところに来たの?あぁ、別に変に疑ってるわけじゃないよ?三日前って言ってたからちょっと気になっただけ。」
彼女の中で三日前とは現実から逃げたくて車を飛ばし、人を轢き殺したあの日に他ならない。青年とは何ら関係のないことだとは頭ではわかっていても、彼女の妄想の中でこの二つのことがもしかしてら結びつくんじゃないのかなんて考えてしまっていた。
青年は視線を下に落とし左手を顎に当てて少し考える、それから青年は何か思いついたように彼女の目を見て口を開いた。
「君が話してくれた時に僕も話すよ、」
そう彼女を軽く茶化した後で青年は立ち上がった。光が差し込む位置から外れ彼女からは青年の顔が見えなくなった。
「お腹空いてない?よかったら一緒に作るけど?」
彼女はもちろんお腹は空いていて、ぶんぶんと縦に首を振る。その様子を面白がって青年は暗闇の中で静かに笑う。
「じゃぁ、ちょっと待ってて。作ってくるから。」
彼女にそう言い残し青年が今を去ろうとすると「ちょっと待って」と彼女から声がして振り返る。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。」
「いえいえ、こちらこそ至らないところもありますが。」
青年と彼女はそんな堅苦しい恰好だけのあいさつを交わし、それがおかしくなって笑いあった。
「変な人。」
「あなたが言う?」
「え?僕って変?」
「ええ、充分変。」
「そんなぁ~」
なんてテンポよくある程度会話が弾んだところで青年は踵を返し台所へと向かった。ここにきて三日たったこの日やっと久しぶりに自分以外の人間がいる食卓を想像し喜んでいた。
彼女は青年がいなくなった一人きりの青白さと塗りつぶされた黒の混じった部屋で、さっきの青年との会話の余韻に浸っていた。彼女はもう既に暗闇に対して恐怖心を持たなくなっていた。順応が早く対応が早く誰にでも合わせることができる。それは彼女の勤めていた会社での彼女に対する評価であり、決して悪いものではなかった。
「はいはい、お待たせ。」
青年はお盆に二人分の食事を乗せてやってきた。長机にお盆を置き彼女の前と自分の前に配膳していく。ごくごく短時間で彼が見繕ったのはどこにでもありそうな一般家庭の朝食のようなものだった。ご飯、味噌汁、焼き魚、そしてちょっとした漬物。彼女は久しぶりに見る普遍的な家庭の暖かさの塊のようなものを目の前にして少し昔を思い出す。
「じゃぁ、いただきます」
青年は一人で食事をとるときは口にしない言葉を久しぶりに口にした、彼女も同じように後に続く。
「んんーおひひい!」
「こら、食べながらしゃべらない。」
「はーひ。」
「あー…返事しなくていいからとりあえず口の中を空にして。」
ごくんっ。
「わかってるわよ、それぐらい、そんなあなたこそここ、ご飯ついてる、行儀が悪い。」
彼女は自らの右頬をちょんちょんとつつき青年の頬にご飯粒がついていることを知らせる。頬を赤らめる。青年ではなく彼女が。彼女はこういったちょっとした幸せに飢えていた、仕事詰めにしていた彼女は今までの生活にはなかった新鮮な感覚に気恥しさを覚える。
「っあ。ホントだ、僕も君のこと言えたタチじゃないねぇ。」
なんて、どこの家庭にもありそうな他愛もない会話を広げるうちに箸は進み、あっという間に時間外れの朝食はなくなっていってしまう。
「ごちそうさまでした。」「いえいえ、お粗末様でした。」
そんな声が響く頃にちょうど居間にある大きな時計が十二回鳴った。低く古い音。でも怖くはなくどこか安心感や安堵感、精神的な安定感をもたらしてくれている、二人はそう感じ言葉に出す。
「この音、なんか落ち着く。」
「そうだね、どうしてかわかんないけど懐かしい感じがする。なんでだろうね、こんな音初めてなのに。」
「んー、この例えはおかしいかもしれないけど。どこかさ、この音って雨の音みたい。」
全然音階も違う、音の重さだって響きだって違う。それでも彼女はそう思った。そして全く同じように青年も。
「なんか、言いたいことは解る気がする。聞いてるだけで癒されるっていうかさ、心が満たされていく感じ。空っぽだった体に自然と入ってくるような。心に浸透して馴染む音、聞いてても疲れない音、聞き飽きない音。」
「そう、そう言いたかったの。」
彼女は指を立てその後、深く共感したように、共鳴したようにうんうんと首を振り同意する。
「他の人もこんな感じるのかな、こんな感想を持つのかな。」
青年は意味なんてない、ふとした疑問を思ったまま口にしてみる。今更になって少しだけ普通を意識してみた。
「いやー、それはたぶんないんじゃないかな…」
彼女は苦笑いしながらさっきまで鳴っていた時計の方に目をやった。彼女は自分の感覚が多少他人とずれていることを認識できていたし、人を轢き殺しておいて冷静に片付けをした自分の感性が普通の正常なものとは思えなかった。自分の頭はおかしいそう言い聞かせ罪悪感に対する免罪符にしたかった。
青年は彼女の言葉を聞いてちょっとだけ嬉しそうに、でもそれを隠すような表情をして彼女のそんな暗い考えを壊す。
「変なとこがお揃いだね、もしかしたらさ僕と君が今日ここで出会ったのは何か意味があるのかもしれないね。何かのために僕らはここで出会った。考え過ぎかな。」
「…変な奴。」
「君もだろ?」
自分と似ている人間が存在する。自分はおかしくはない、目の前にいる人間は悪意のあるような人間じゃない、そしてそんな人間と自分は似通った感性を持っている。そういった事実は彼女の心を優しく支えた。
「そうだね!あなたも私も変な奴。」
青年と笑い合うと心の苦痛が解消されることを彼女は気づき始めいていた。
「それじゃぁ、この部屋を好きに使って。って言っても何かしてもすぐに元の位置戻っちゃうんだけど。何かあったら隣の部屋にいるからさ日が沈んでる間はいつでも頼ってよ、太陽が出ちゃったら僕は無力だけど、その時はまた夜まで待ってて。」
「うん、いろいろありがとう。」
部屋は約畳十二畳といったところか、彼女にとっては少しだけ広く感じる部屋だった。角部屋らしく部屋の二か所からは月の光が差し込み宙に舞っている埃がキラキラと光る。青年は昨日までここで過ごしていたのだろう。部屋には出し忘れた青年の持ち物らしき写真の入っている方のロケットがあった。そして何より光を遮るために取り付けられる厚い板が部屋の隅に並べて置いてある。
テントウムシ型の金色に光るロケット、彼女はそっとそれの羽の方から撫でた。彼女の行動には特に意味はなかった彼女はただこうすれば何か起こる気がした。そして彼女の勘は当たり前のように当たる。あたかもそれが当然のように。
彼女の指がテントウムシの頭まで達したところでパカッと羽が開き、中に入っている写真が彼女の眼の中に映る。
「おやおや。」
彼女はその写真を見て数分ニヤニヤした後立ち上がった。部屋と部屋を区切る襖をトントンと叩くと「はーい」と青年の声がした。
彼女はゆっくりと襖をあける。
「どうしたの?」と声を投げかける青年に彼女はニヤニヤとした顔のままロケットを見せた。
「あぁ、それ探してたんだ。やっぱりそっちの部屋にあったんだね。見つけてくれてありがとう。」
青年がそのロケットを見て手を伸ばそうとすると彼女が写真が見えるようにテントウムシの頭をそっと撫でた。パカッとテントウムシの羽は開く。
「ねぇねぇ、これってお嫁さん? それとも彼女? それとも片思い中の相手とか? ねぇねぇ、教えようぜ?」
ニヤニヤニヤニヤからかうような、楽しむようなそんな顔をして彼女は青年に聞いた。青年はそんな彼女を見てどこか呆れたように嘆息を漏らす。
それでも彼女は目を輝かせて青年を見ていてとうとう青年は諦めおとなしく白状し始めた。
「それは僕の元恋人……いろんな意味で。ほらほら、早く返す。」
青年は彼女の手から半ば強引に彼女の手からロケットを取り上げる。あまり触られたくない記憶に触られ、彼は暗闇の中苦い表情をしていた。
彼女はそんな青年の表情は見えるはずもなく「その子のどんなところが好きだったの?」だったり質問を投げかけてくる。それがいやで青年は彼女を抱え彼女の部屋に戻し自室に戻り襖をピシャリと閉めた。
「もぉ~つれないねぇ」
彼女は青年の部屋と自室を仕切る襖に向って大きな声で、もちろん青年に聞こえるように発した。しばらくたっても返事はなく「なーんだ」と彼女じゃそのまま後ろに倒れ部屋に横になる。
「やっぱり誰でも恋愛するんだよね…やってなかった私がおかしいだけで、そもそも恋愛しなきゃ種は途絶えちゃうわけであって…」
今度は独り言のように呟く、ぶつぶつと今更当たり前なことを彼女はただ淡々と呪文のように復唱していく。まるで絵空事でも諳んじたような事実を受けて、彼女は青年について考えちょっとした劣等感に苛まれていた。
誰でもやってることを自分だけしたことがない。だから、自分も。よく小学生が言う誰でも持ってるから私も欲しい。なんてものと並べると類似していることが簡単に露呈してしまうような、単純で真っ直ぐで幼く拙い願い。
彼女の視界が滲む。ぐにゃりと曲がり窓から入ってきていた光の線すら曲がる。頬から何か透明な液体が落ちる。頬に伝う液体に彼女は触れ、ため息と一つこぼした。天井が曲がって見える、何もかもが曲がって見える。世界だって曲がって見える。彼女は少しだけ自虐的に笑い目を閉じた。
感想お待ちしております!
評価等もして頂けると嬉しいです!