8
しゃらん、と涼しい音が河原に響く。
黒の羽織に若草色の着物、偽紅色の帯を締め、錫杖を持った青年。
ゆっくりと土手から下りてきたのは鈴代だった。
それを甘斗があんぐりと口を開けて見守っていると、師はぽんと頭に手を乗せた。
「もう甘斗、どこまで歩いて来てるわけ。探しちゃったよ?」
「は……はあああ!?」
あまりの言い様に、甘斗は肩をわななかせた。
即座に手を振り払って、怒鳴る。
「探してたのはこっちですよ! 先生のせいでえらい目に……」
「はいはいはい。甘斗、危ないから下がってて」
甘斗にぴたりと言い、前に立つ。
初東風は、ちらりと横目で鈴代を見た。
「……何だ」
「水くさいなあ、って。ひとりで勝てないのは見てわかるだろうに」
「…………」
答えないということは、それを認めていることに違いない。
黙り込んだ無口な稲荷の肩を、鈴代は軽く小突いた。
「勝てなさそうだったら人数を増やせばいい。ここは共同戦線と行こうじゃないか」
「……好きにすればいい」
そう諦めたように告げ、初東風は腰刀を抜き放った。
しゃあああ、と金属の擦れる甲高い音が月夜に鳴き声のごとく響く。
――露にも濡れて薄紅葉 染めて色増す金色は 霜夜の月と澄み勝る
季節外れの言霊に応じるは澄んだ月と霜色に凍りついた刃のみ。
初東風が刀を抜き切った時、明らかに元の鞘に収まらないほどの長さまで伸びていた。
鈴代が杖をかざす。
先に動いたのは初東風だった。
「……!」
泥に近い葦原を、まるで雲の上のように軽々と跳ぶ。
身体の半分以上ある刀を扱い、金魚人三体を一気に斬り払った。
ぱぁん、と弾ける音がして、土手下に水が散る。
両国橋でもそうだったが、こいつらは水でできている……のかもしれない。
「それっ!」
鈴代が杖で突くと、同様に水となって弾ける。
相変わらず、喧嘩は弱いが物の怪相手になると強くなる師である。
だが、いくら斬り払っても敵はいくらでも沸いてくる。
鈴代は肩で息をし、初東風も同じ場所へと後退した。
「ちょっと初東風、稲荷お得意の人海戦術はどうしたのさ? 何で君しかいないわけ?」
「……生憎、皆が貴様ほど暇ではない」
「お、そんな口利いてられるってことはまだまだいけるね」
後ろで眺めながら、甘斗はもどかしく思った。
分が悪いのはわかっているのだ。
鈴代は疲れてきているのが見てわかるし、初東風にも斬り逃しが出始めている。
いくら水を斬っても斬れるものではない。きりがないのだ。
「やっぱオレ、助けを呼んで――」
後ずさろうとする甘斗を、鈴代が手で制した。
「もう手は打ってある。……もう少しで来るかな?」
「何?」
初東風が聞き返すが、鈴代は笑っただけで答えない。
何かわからないが、策があるらしい。
それを見て、甘斗はなんとはなしに誇らしい気分になった。
こういうどうしようもない時、なんとかしてしまうのが師なのだ。
と。
よたよたと陸にあがった金魚人が奇妙な様子を見せた。
一匹が、別の金魚に襲いかかったのだ。
初東風は表情を変えなかったが、甘斗と鈴代は目を丸くした。
覆いかぶさって飲み込み、しばらく経つと二匹だった金魚は一匹になり、片方の身体が大きくなっている。
共食いして体積を増やしたのだ。
「…………」
涼しい川の風が流れていった。沈黙が、夏の空気に降り積もる。
鈴代がくるりと振り向いた。
がたがたと震え、その顔は真っ白に青ざめている。
「甘斗ぉぉぉ……ヤダ、こいつら気持ち悪い。食ったぁぁぁ……」
「って、はっきり言わないでくださいよ! オレだって気持ち悪いですよっ」
泣きそうになっている鈴代に、甘斗は叱咤激励した。
ただでさえ気持ち悪い生き物に、さらに気持ち悪い光景を見せられたのだ。しばらく魚が食べられなくなりそうだ。というか、夜に厠に行けなくなってしまいそうだ。
そうしている間にも、金魚たちは次々に共食いしている。数は減っているものの、気持ち悪さは変わらない。むしろ倍増している。
「先生っ、いつもの杖でばーんと木生やして倒してくださいよっ。あの、いろはにナントカって奴で!」
弟子入りして数か月、いくら聞いてもはぐらかされてしまうが、さすがの甘斗も師が物の怪を相手にする時に使う不思議な力については知っていた。師がそれをあまり使いたがらないことも知っているが、今はそんな悠長なことも言っていられない。
鈴代が今持っている杖もそうだ。その力で何度助けられたかわからない。
「それって生杖のこと!? 今はムリ! だってここ、水ばっかじゃん! 木気がないと使えないんだってば!」
ぶんぶんと首を振る鈴代に、甘斗は続けて叫んだ。
「じゃあ使える奴使ってくださいよっ! 傘とか扇とか!」
「《傘》は雨が降ってないと使えないし、《扇》は水には効かないから駄目!」
「使えねぇ!」
などと不毛なやりとりをしていると。
ふと、空が暗くなった気がして、空を見上げる。
「……うわあ」
と、言うのが精一杯だった。
金魚人は一匹に減っていた。正確には、巨大に膨らんだ一匹に集まっていた。
頬は怒っているようにぷっくりと膨れ、身体のあちこちにも肉が余っている。甘斗もこういう金魚は本でしか見たことがない。蘭虫という、金魚愛好家が天塩にかけて育てあげるような、珍しい種類だ。
巨大な身体には、やはり人の手足がついている。不気味を通り越し、吐き気を催すような奇怪なものへと変じている。
「う……」
思わず甘斗が口を押さえると、ぎょろりと黒い魚眼がこちらを見る。
鈍重そうな見た目に反し、滑らかな動きで腕を振り上げた。
「っ!」
風のように何かが視界を横切った。
初東風の振るった刀が腕を斬り落とした。
腕は完全には斬れず、すぐに繋がってしまった。その本性は水だ。いくら斬っても、完全に断つことはできない。
その場で大太刀を振るい、露を落としている初東風に、甘斗は慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……」
「…………」
黙したままだったが、初東風は視線を鈴代へと向ける。
「策があるのか?」
「一応は。でも、まだ時間がかかるみたいだ」
鈴代は悔しそうに口を曲げた。
「上等だ」
初東風が撫でると、たちまちに刀は脇差ほどの長さに縮む。
「ちょっ……」
甘斗の止める間もなく、初東風は走り出した。
刃を後ろ手に持ち、腕を駆け上がる。
蘭虫からすれば羽虫が寄ってきたのと大差ないだろうが、邪魔であることに違いはない。振り払おうと無闇に巨体を揺らす。
甘斗にも見当が付いた。彼は囮になるつもりだ。
あの大きな腕で一閃されただけで人間などひとたまりもない。神使がどれほど人間と違うのかはわからないが、大怪我をすることは必至だろう。
何を言おうとしたのかはわからない。けれど、唇を噛みしめ、甘斗は鈴代を見上げた。
「先生っ――」
見上げて、こんな時なのに何だか可笑しくなった。
他に頼る場所もない甘斗がすがる場所は、いつの間にかここになっていた。
何とかしてくれるのではないかと思うようになっていた。
それは――なぜだろう。
「甘斗」
鈴代が口を開いた。呼びかけ、一点を指差す。
そちらを見て甘斗は自分の目を疑った。
水面が光っている。
いや。
川の向こうから、ぼんやりと光る何かが流れてくる。
闇を切り裂いて、ゆっくりと淡く光る何かが流れてくる。ひとつひとつは小さく、けれど地上に落ちた星屑のように暗闇を照らす。
蛍――?
橙色の暖かな光が近づき、徐々にその正体が明らかになる。
灯籠だ。
小さな舟に乗った灯籠が、ゆっくりと水の流れに乗っている。
――そうか。
甘斗は内心でつぶやいた。
今日は盆の宵祭り。川の上流の村が行った、祖先を送り返すための行事の一環だろう。
鈴代が懐から何かを取り出した。
表も裏も緋色の扇だ。支える骨は黒、中心には黒い丸の新月模様が描かれている。
「…………」
初東風が何かを察したのか、金魚の背から大きく跳び、後退した。
火種が上流から流れてくる、この瞬間。
鈴代はこれを狙っていたのだ。
――天の川 あふぎの風に露はれて 空すみわたるかささぎの橋!
扇をかざし、鈴代が言霊を紡ぐ。
灯籠は、ちょうど蘭虫の足元まで流れてきていた。
――ぼっ。
張られた紙が音を立てて燃える。
いくつもの灯籠が燃える様子は、まるで地上に小さな花火が咲いたようだった。
そしてその炎は、金魚を巻き込んで大きな火柱となる。
送り火だ。
火は、油に付いたようにあかあかと燃え、辺りを昼のように照らした。
水の上で炎が燃える、世にも不思議な光景だった。
けれど、嫌な炎ではない。灯籠の灯りのまま、やわらかであたたかい炎だった。道に迷った者を導く灯火だ。
その煙は天高くまで昇り、やがて消えていった。
後には、静寂と水鏡に映った月と闇だけが辺りを包む。
黒い溜まりに残っていたのは、腹を逆さにした魚だった。
「金魚、か……」
扇を懐に収めた鈴代は肩をすくめた。
「野分で流された金魚に物の怪がついたんだ。折しも今日は盆の日。町も人も浮き足立ってるからそれに影響された分もあったんだろう」
魚たちは足元を流れ、そのまま川へと流されていった。やがて海へと届き、土に返るだろう。
「あれ? 彼は?」
辺りを見回す鈴代に、甘斗はため息をついた。
「ええと……お礼言ってましたよ、多分」
上がった火柱に見入っていた時、甘斗は耳元でふと声がしたのを聞いた。
「……借りは返した」
それを言ったきり、初東風は姿を消した。
礼とも言えない礼だが、ちゃんと言ってから消えるから義理堅い。
(ただの照れ屋なんすかね……)
そう思い、甘斗は空を見た。
月は既に高く昇り、そろそろ天辺に位置するくらいにまでなっていた。
騒ぎが起きた頃は夕方だったというのに、今宵はなんて長い夜なのだろうか。
そう自覚すると、どっと足が重くなったように感じられる。
両国橋から吉原まで走ってきたのだから、疲れるのも当然か。その最中にも橋から勢いよく投げられたり、金魚に襲われたりと散々な目に遭った。あとはさっさと帰ろう、と甘斗は心に決める。
輪廻は怒るかもしれないが、鈴代から言えばきっと文句も言わない……
と、その師の姿が見えないことに、甘斗は気付いた。振り向くと、さっきの場所に立ち止ったままである。
「甘斗……」
神妙そうな顔をする師に、なんとなく嫌な予感をしながら答える。
「なんすか?」
「足がハマって、抜けないんだけど」
「なにしてんすか!? ったくもう!」
甘斗は半ば本気で叫び、駆け寄って手を貸してやる。
が、もともと疲れきっていたのに急に走ったものだから、ずるっと足元がすべった。
「あっ」
ゆっくりと見上げた空と大きな月が目に入る。
十五日の綺麗な月だった。
その下に、ほんのりと灯るのは人の手による明かり。人の作った喧騒。
そして、二人分の悲鳴が響き渡った。