7
じっとりと濃い闇だった。土手下の草はどこか湿っていて、なおさらそう思った。
川に揺らぐ月だけが浮かぶ。そうでなければ、そこが水面だとも気付かないだろう。
土手の下にあるのは田んぼと、おはぐろ溝と言われる真っ黒な堀である。吉原の生活用水を流しているものだから真っ黒に変色し、嫌な匂いがする。
そこから金魚たちは見る見るうちに川から上がってくる。
泡が立つように、赤い頭がぷかりぷかりと上がってくる。
「ま、まさか……」
寒気がするような光景に、甘斗はうめいた。
格別に数が多いのは、ここに集まっているからではない。
ここから金魚人たちが生まれているのだ。
鈴代を探してとんでもないものを見つけてしまった。
こうなったら、石榴でも誰でもいいから人を呼んでこよう。もう完全に手に余る。
そう決め、甘斗はゆっくりと後ずさった。
かさり、と草を踏んだ音がした。誰も手入れのしない土手下である。無論、背の高い草から雑草までぼうぼうと生えている。
ただ、それだけである。だが、夜の静けさは予想以上に深かったようだ。衣ずれの音のように高く響く。
(くっ……!?)
甘斗の心臓が、息苦しくなるほど勢いよく跳ねた。
金魚たちが一斉にこちらを振り向いてきた。
「あ、え、えーと……」
甘斗は薄笑いを浮かべ、後ずさりした。
一筋汗を垂らし、こういうところは師に似てきたな、と悲しく思う。
回れ右して逃げようとするが、足が竦んで動けない。
それほど、一斉にこちらを見る圧力が強かった。
陸に上がってきた金魚人たちが、ひたひたと近づく。
覚悟を決め――なんの覚悟かわからないが――甘斗はうでをかざして目をつむった。
静寂が、土手原を流れていった。覚悟していたはずの衝撃が来ず、訝しんだ頃。
声がすぐ目の前から聞こえてきた。
「ここで何をしている? 鈴代の弟子」
その声に、甘斗は目を見開いた。
常は鋼のように冷徹な声に、今はやや呆れたような声が混じっている。
やや年若い顔、丈の短い紺の半纏をなびかせ、この河原では歩きにくい二枚歯の高下駄で平気な顔をしている。それに、頭の後ろに回した狐の面で正体を明かしているようなものだ。
「初東風さん!? なんでこんな所に――」
甘斗が驚いたのは、なおさらここにいるはずもない人物だったからである。
彼は石榴と同じく稲荷神の神使であるという。若い見た目に似合わず、神田稲荷のまとめ役をしている。神田を守ることが彼の使命であるらしく、甘斗も何度か世話になったことがある。
だから、神田以外で会うことはほとんどなかった。
腕組みをしたまま稲荷は振り返ると、にこりともせずに告げてきた。
「こちらが問うている。答えるつもりがないなら消えろ」
「なっ……」
相変わらず愛想の欠片もなく、斬りつけるように厳しい。
じりじりと近づいてくる金魚人を、甘斗は指差した。
「こ、こいつらって何なんですか、いったい!?」
「物の怪だ。見ればわかるだろう」
「いや、見ればわかるって……それにしては何か、変っていうか」
ごにょごにょと甘斗は語尾を濁した。
物の怪というのは人の病のようなものだと師からは聞いている。執念や心につく病だと。それが形に現れるほど悪化すると、人に牙を剥くほどの物の怪となることがある。
または、人間以外の物につくこともあると聞いたことがある。その場合、物に触れた人間に病を振りまく元凶となる。
この場合は後者なのだろうが、何で金魚に人の手足が生えて動いているのかさっぱりわからない。元が物だった、そもそもこうやって自由に動けるものだったのだろうか?
そう言っている間にも、川から金魚たちはなおも上がり続けている。
ゆらゆらと近づいてくる金魚人たちを見て、甘斗はふいに気付いた。
ここには初東風しかいない。彼は、たったひとりで相手にするつもりなのだ。
「こんな数、ひとりじゃ無理ですって! どこかから応援って呼べないんですか!?」
「無理だ。こいつらは川伝いに広がっている。いずれ橋を越えて江戸中に広がる」
初東風は帯に挟んだ腰刀の柄に手をかけた。
それだけで空気が張り詰めた気がした。
これを抜けば、戦いが始まる。
甘斗には手出しのできない、ただ見ているしかできない世界に変わる。
なんとかできないかと考えを巡らせても、浮かばない。それはそうだ。圧倒的な数の差を埋めるだけのことが容易くできるはずもない。
甘斗は必死に言葉を探した。
「けど……」
「たったひとりで突っ込んでくなんて無謀じゃないの――でしょ?」