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江戸の町、その数八百八町。
使用人たちも藪入りということで実家へ帰り、家族たちと水入らずで過ごしているのだろう。江戸に住まう者はやれ盆踊りだ、やれ集まりだと言って理由を付けて外出するものが多い。
老いも若きも憂いを忘れ、今日ばかりは浮かれて歩く。
特に、大川にかかった両国橋の近くは、常以上の盛況である。
あまりの人の多さに、三歩歩けば人に当たり、橋を見ることにすら難儀するほどである。
「……ったく、どこいったんだか?」
ぼやいて、甘斗は近くを見渡した。上背がないせいで、完全に人ごみに埋もれてしまっていた。だから人の多い場所は嫌いなのだ。
師の鈴代と、ここで待ち合わせをしたはずなのだが……
甘斗は鼻を動かすが、あまりの人出で匂いが紛れて分からなくなっている。甘い匂いは水菓子や飴、動物の匂いがするのは見世物小屋の猿だろうか?
どうしても興味のある匂いばかりに惹かれてしまう。物の怪を嗅ぎわけることはできても、人探しには向いていない。
師を探すのをあっさり諦めて、甘斗はたまたま席の空いていた近くの茶屋に座りこむ。臨時で作られたようで、木組みの小屋にむしろを敷いただけの簡単なものだ。
手伝いをしているらしい少女の給仕に茶を頼んで、息をつく。神田からここまでは結構な距離がある。堀に沿って、川に出たところに両国橋がかかっているのだ。
沈みゆく夕陽に照らされ、大川は紅に染まっている。深い陰影に浮き彫りにされ、大人も子供もまるで影法師のように歩く。まるで錦絵のような光景に、甘斗はしばし言葉を失くして見惚れた。
日が暮れたということは、別れてから一刻以上は過ぎているはずだ。
師は一体、どこで油を売っているのだろう。もしかしたら、着付けを終えた輪廻が追いついてくる方が早いかもしれない。そもそも、輪廻が張り切ったのも師のせいなのだから責任はきちんと取ってもらうつもりだった。
と、考え込んでいた甘斗の横に、新しい客が座った。
(……あれ?)
すん、と甘斗は鼻を動かした。
川が近いためか、なぜか生臭い。まるで日本橋界隈の河岸のような――
売れ残りでも抱えて歩いているのだろうか、と川から目をそらす。
匂いは傍らで止まった。
つられるようにして、甘斗もそちらを見やる。
真っ赤な肌、水分を含んでうるんだ黒い瞳。ぬめりのある白い腹は、夕日に照らされて気持ち悪くなるほど光っている。肉厚で分厚い唇を時々ぱくぱくと開けているのは、息苦しいのだろう。なにせ、魚は水の中でしか呼吸ができないとものの本で読んだことがある。まるで金魚のような人だな……
と、そこまで観察して気付く。
金魚だ。
「でええええ!?」
大声を上げて、甘斗は茶屋から勢いよく飛び退った。人々が不審げな目で見てくるが、そんなことも気にならなかった。
大人ほどの体長の金魚が、なぜか生白い人の手足を生やしている。むしろの上でお行儀よく膝に手を置いて正座している姿は、笑えるのを通り越してもはや不気味だ。
「え? え?」
それこそ金魚のように口をぱくぱくさせて、甘斗は混乱する頭をなんとか落ち着かせようと努力した。
正真正銘の金魚である。江戸で金魚はペットとして人気で、手軽に飼う者も多い。飼育書がよくよく売れるほどの人気ぶりであった。甘斗も師に付いて行った先で数度見かけたことがある。
けれど大きさはせいぜい二寸ほどで、ここまで大型のものは見たことがない。それよりも金魚に人間の手足が生えて地上を歩いている時点でおかしいのだか。
とりあえず頬をつねって夢でないことを確認し、甘斗はため息をついた。
これで騒ぎが起こっていないのだから驚きだが、他の人間に見えていないのだとすれば納得できる。物の怪だろうか? それとも悪戯好きの妖だろうか? 何にせよ、こんな面妖な姿をしている生き物は見たことがない。
甘斗はもう一度、頬をつねった。今度は強めに。
ちゃんと痛い。少々力を込め過ぎたかもしれない。
そして、これは現実であることをようやく認めた。