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梅雨も終わり、江戸は七月に入った。
夏を過ぎた、とはいえ暑さが急に引いたりはしない。
じっとりと張り付くような湿気が満ちて、江戸の町はまるで蒸し風呂のようだった。
毎年、この時期になると暑さに倒れる者がどっと増える。
特に幼い子供や老人は身体が弱いため、命に関わる事態に陥ることも多い。総じて、一年のうちで真夏が一番死者が多いとも言えるだろう。
けれど。
通りすぎる人々の顔はにこにことして、どこか浮足立っていた。
子供たちが門の前を走っていく。手には飴に、水菓子に、役者絵の団扇を持っている子供もいる。
それが通るたび、甘斗は猫じゃらしを突きつけられた猫のように、そわそわと反応を返していた。
「輪廻さーん、まだ終わらないんすかー?」
ついに我慢できなくなって家の中へと叫んだ。
少しの間が空いて、まだぁーという明瞭な答えが返ってくる。だったら、どれくらいかかるのか教えてくれてもいいのに、と甘斗は大きくため息をついた。
元服前でまだ前髪のある、十ほどの少年だ。まだまだ背も小さいが、世間を悟ったような目が不釣り合いに大人びている。けれど、玩具や菓子を持った子供が通りすぎるたび、うきうきとした年相応の様子の顔が垣間見える。
なにせ、今夜は特別なのだから。
と。
「わはは、甘斗殿。女子の身支度には時間がかかるもの! ここはどっしりと構えて待つのが男としての礼儀というものですぞ!」
屋根から下りてきたらしい男が快活に笑いながら降りてきた。筋骨隆々で、剃りあげた頭にも玉のような汗がきらめいている。一見して大工か鳶職かとも思うが、こう見えて実は医者である。この家の主で、静海という。
いつもの僧形ではなく、力仕事用の股引と暑いために上を脱いでいるから、なおさら医者には見えない。
「あ、お疲れ様です。屋根直ったんですか?」
「うむ! わざわざ大工の手を煩わせる必要もなし! 台風といえどたかが風、恐るるに足りませんな! ちこっと飛ばされた個所に板を打ち付けてやるだけで済みましたぞ!」
「そ、そうすか」
むやみに暑苦しく語る静海に、甘斗は顔を引きつらせた。恐らくこの家、次の雨が降った時に雨漏りするだろうが、言わないでおいた。
江戸を台風が過ぎていったのは一週間ほど前のことだ。強い雨と風で、甘斗たちが普段住んでいる家の方も川が増水したり気が気でなかった。
だが、もっと被害を受けたのは江戸の町中だったようだ。台風一過を見計らって江戸に来たのだが、その荒れた様子に最初は呆気に取られた。
なにしろ家だった木片やら石やら、どこから流れてきたのか駕籠や床几まで川に流れている始末である。人の被害も出たらしく、暗い顔をしている者もいた。
けれど、今目の前を過ぎていく人々は皆楽しげだ。なにしろ今夜は――
「ところで甘斗殿、鈴代先生はいずこへ?」
「知り合いに顔出すっていうんで、先に行ったんですよ。待ち合わせしてるんで、もう両国橋辺りにいるんじゃないですかね」
甘斗の師である鈴代は、驚くほどに顔が広い。しかし、その知り合いの大半が女性だろうことは予想ができていた。鈴代の、女と酒に弱いことは甘斗の悩みの種である。
甘斗はうんざりとしながら言った。
「先生が煽るもんだから輪廻さんが張り切っちゃって。奥さんに無理言って振袖なんて着付けてもらってるんですよ。どーせ誰も見ないっていうのに」
輪廻とはもうひとりの鈴代の弟子であり、甘斗の姉弟子にあたる。ちょっとそこらでは見当たらないくらいに可愛いのだが、子供っぽくてすぐ威張るのが玉にきずである。
「はっはっは、甘斗殿。着飾った女子を見るのは、男子だけではござらぬぞ。なにせ今宵は盆踊り。あの世より戻ってきた先祖の心を和ませるには、笑顔が一番ですぞ!」
「はぁ」
「吾輩も供をしたいのはやまやまですが、次は社を直さねばならないからなあ。早く直さんと神さんに怒られてしまいそうですからな!」
ちなみにその神は、今は別の神社に仮住まいさせてもらっている。朝夕お参りを欠かさない静海に多甘だから怒ってはいなかったが、虫が入ってきて困るとだけ言っていた。
甘斗はため息をつき、柱から背を離す。これ以上待っていたら日が完全に暮れてしまう。
「俺ももう行きます。輪廻さんには先に行ってるって伝えといてくれます?」
「承知しましたぞ! 甘斗殿、ご武運を!」
どこまでも暑苦しい静海の声を背に、甘斗は生ぬるい江戸の町を、ぶらぶらと歩き始めた。