九話 一人の所以 前
書類にサインを記す音。
判を押す音。
封筒に蜜蝋を垂らす音。
封筒を開封する音。
大凡、書類関係の音だけが狭い小屋に響く。
クリスとゴリアンは只管事務処理に追われていた。
「蜂蜜に塩……、備蓄用? 塩たけえなぁ……これ他の商会使いましょうよ、わざわざ高い岩塩使わずに、海辺の塩田でとれる塩で良くないですか? 南のほうならいくつか知り合いの商会がありますし」
「そうすると今度輸送費がかかるでござる……、翼竜を使うわけにもいかないでござるし」
「地竜騎士団の地竜でも借りますか?」
「ああ、それならいくらかは安く済むでござるな……しかし、借りれるでござるか? 地竜に知り合いでもいるでござるか?」
「兄上がいるので、使います」
「リリィ家嫡子殿を使えるのでござるか……」
「使います」
言い切るクリス。
頼むではなく、使うという辺りにエンバスがクリスに強く出れないのをいいように利用してるのが伺える。
「任せるでござるよ……しかし、こういう時やはり力竜が実用化されて欲しいでござるな……通常の竜種ではやはり経費が高い……小竜のほうの経過はどうでござる?」
「ほとんど……食いませんね」
そう言ってゴリアンは、予想していたのだろう、不安そうな表情を浮かべた。
「……原因はわかりそうでござるか?」
「今だ不明です……餌も環境も資料どうりなら問題はないと思うんですが……あれって、何の竜の育成資料なんですか?」
「あれは資料室にあった、地竜の育成資料を某が抜き出し現代語訳したものでござる」
「であれば、少なくとも力竜は飼育できそうなものですけどね……」
地竜と力竜は見た目や生態が似通っているのである。
両方とも、荒野を好み、岩場で生活をする竜である。
なれば、同じ方法で育成しても育成できる可能性はあるはずなのだ。
羽竜や走竜が失敗しても、力竜は成功しても可笑しくはないのである。
しかし、結局三竜とも餌を受け付けない。
翼竜や地竜の食事はほとんどが肉食だ。
思い出すのは、翼竜の厩の餌やり場、血まみれの魔法陣。
「……午後に厩の掃除をしたいのですが、人出を借りれませんか?」
クリスが血まみれ……と思い出して、思いついたのは掃除だった。
僅かな可能性といえど試すべきである。
「解った。何人か都合しよう。人事、ジャック副団長に掛けあってみるでござる、恐らくお主と同じ新人が回されよう」
そう言うとゴリアンはポンと手を叩く。
「ちょうどよい機会でござるし、友人でも作るでござるよ」
「友人……ですか……」
その言葉に少しばかり躊躇する。
クリスに友人は少ない。
立場的なものも関係するが、基本的に他人を信用していないのである。
心置きなく会話できる相手など、数えるほどしか居ない。
「技術部では、同期というものはいないでござるし、本来ならクリスも一般騎士部隊の歩兵科から始めるはずでござったと思うが、訳ありでこちらなのでござろう? これから何年も騎士団に所属するのでござる、友人とまではいかなくとも知り合いになっておいて損はないでござるよ」
ゴリアンの気遣いが微妙に心に突き刺さる。
クリスは、少しだけ考えて。
気づけば、書類仕事に戻っていた。
***
「来ないな……」
一人呟くクリス。
既に決められた時間より半刻。
手伝いの者がこないので クリスは一人小竜の厩の掃除を開始した。
糞尿が入り混じり、僅かに湿った敷藁。
遺骸があったときと比べるとさほど匂いはきつくない。
翼竜の厩のほうが遥かに臭い。
厩に入り、羽竜をどかし、熊手で古い敷藁を丸めていく。
ただ引っ掛けて引っ張るだけだというのに、敷藁は面白いように丸まった。
丸まった敷藁を厩の外に放り出す。
もう一度、熊手で敷藁を引っ張る。
「……」
無言である、けれども何処か、其の瞳は楽しげだ。
くるくると、敷藁を丸めていく。
時には巨大に、時には小さく、時には球形に。
完璧に遊んでいる。
ともあれ気づけば、羽竜の分の古い敷藁は全て厩の外である。
「うむ……」
良い汗をかいたとばかりに、クリスは満ち足りた表情で新しい敷藁を引いていく。
力竜と走竜の場所も順々にやっていく。
全てを終えて、厩に入れなおした時には既に日が暮れかけだ。
掃除だけで終えてしまう。
これでは、飼育所の話ではない。
外に放り出した敷藁に、握りこんだ拳を向ける。
正確には指輪型の小さな魔法道具だが。
日常に不便のないように、魔法が使えない事がばれないように、ロイドからの提供品である、他にも風と水の合計三種類を受け取っている。
意外と気の効く男である。
小さな炎が指輪の宝石から噴出される。
古い敷藁が煙を上げて燃えていく。
クリスは少し離れた所で、それを見る。
厩を見る。
思わず比べるのは翼竜の厩。
翼竜の厩など、ほぼ自然と一体化している。
「ふむ……」
翼竜の厩の糞尿は地面に落ち、巨大樹の栄養となる。
いちいち掃除などする必要などないのである。
ともあれ、自然というのは得てしえそういうものである。
植物を食べる者が居り、植物を食べるものを食べる者が居り、両者の糞尿や死骸は植物の栄養素となり、植物が繁殖する。
少なくとも、クリスの知る最近の研究ではそういう事になっている。
最近など肥料というものが出まわり、穀倉地帯などの収穫高が向上していると聞いたこともある。
おかげで最近麦の値崩れが起きている。
そこまで考えて、今は関係がないと……首を振った。
考える必要があるのは、小竜の飼育方法だ。
クリスは考える。
飼育方法は地竜の飼育を元にしたものだ。
地竜の飼育は、家畜に似ているようであまり動かないらしい。
たまに放牧し、決まった時間に餌をやるだけでいいという。
小竜の飼育もそれに習い、時たま放牧し、餌をやる。
特に問題もないように思える。
はじめは衛生状態かと疑い、掃除もしたが、思ったよりも厩は清潔で遺骸があったときの異臭を捨て置けば、他に変な匂いはしなかった。
光も風も入るし、良好な状態といえるだろう。
原因が解らない。
巻藁の焚き火を光源にクリスは資料を閲覧する。
皮紙に書かれた文字を読み込んでいく。
古代語の翻訳が難しいのか、ところどころ虫食いではあるが、それなりに読める文である。
二十枚にも及ぶ資料には生態系、放牧、食事の仕方などが書いてある。
「他の資料もないのか……?」
ゴリアンは資料から地竜だけを抜き取って翻訳したと言っていた。
クリスなら、わざわざ翻訳せずとも古代語を読むことができる。
ならば原本を見れば、何かしら解るかもしれない。
他の竜の資料もあれば、相違点を見つけることも可能だろう。
資料室は、事務を行う小屋の地下にある。
一度戻らなければならない。
「帰るか……」
既にに燃え尽きる寸前だった焚き火をそのまま、踏み潰す。
夕暮れ時で辺りは暗くなりかけだ。
結局、手伝いの人員は来なかった。
不思議に思いつつも崖上の宿舎へと足を進める。
歩みを進めると、俄に食堂のほうが騒がしい。
食堂はやたら混雑している。
思い出せば、クリスも少しばかり腹が減る。
既に夕飯にはちょうどよい頃合いだ。
とはいえ、クリスの格好は汚れすぎて、食事をするには適していなかった。
宿舎の裏口の水場へと向かう。
井戸があるが、人気の少ない場所である。
季節はまだまだ夏である。
汚れは放おっておけば臭う。
クリス自身さほど匂いは気にしないのであるが、クリスの部屋はオランとの相部屋だ。
隣人トラブルは、流石に遠慮したい。
水の魔法道具を起動する。
空中に水流が渦巻いた。
髪を解き、それを頭から被る。
僅か数秒、汚れという汚れが水にとけだし、地に滴る。
風の魔法道具を起動する。
純粋に風を起こし、しばらく吹き付ける。
あっという間に服と髪が乾く。
「案外便利だな……」
三種類の魔法道具は専用化までのつなぎにと、本来護身用に渡されたものである。
簡単な召喚系魔法が込められてあるだけである。
それぞれ一日二回しか使えない。
使い方が間違っているが、それなりに重宝している。
一息ついて、食堂へ足を進めようかという時だった。
「そこで何をしているの?」
高い声が響く。
明らかに女性の声だった。
現れたのは、金髪を肩までたらした少女。
背は女性にしては高く、目は少しタレ気味。
黒いドレスを着込んでいる。
年齢でいえばクリスと同じか少し低いくらいだろう。
「女? なぜ騎士団に女性が?」
クリスは思わず驚き、声をあげた。
「あら、貴方も女性でなくって? その髪、お綺麗でしてよ」
微笑み、柔和な声でそう返される。
「自分は男です……」
髪と言われて、クリスは髪を解いていた事を思い出す。
クリスとて髪を解けば肩ほどまでの長さになる。
なれば、女性に見える確率は上がってしまう。
本来なら髪は切ったのだが、何故かすぐ同じ長さまで生えてしまうのだ。
意味がわからなかった。
クリスはテートに返答しながらも、すぐさま髪を結ぶ。
テートは一瞬目を丸めると、微笑みを浮かべた。
「お綺麗でしたのに、縛ってしまうのね……残念。綺麗な髪なのにもったいない……」
その時だった。
騎士団員が叫びながら駆けて来た。
「テート様、こちらに御出でしたか!」
「もう来たんですの?」
その声を聞いて、女性……テートは眉を顰めた。
「騎士団は男所帯、万が一が御座います! 余り勝手をなさらぬように! お父上が心配なさっております! 部屋までお戻りください!」
矢継ぎ早に告げる団員。
けれども、テートは辟易とした態度で、不満そうな顔をする。
「窮屈ですわね……」
そう言うと、テートはクリスの背中に回り込んだ。
「あ、おい……?」
「助けて欲しいですわ」
「助けるたって……」
クリスは混乱した、意味がわからないのだ。
さらには、助ける理由も、メリットも特にない。
「じゃないと、貴方が女性だってバラしますわよ?」
テートはクリスの耳元で囁いた。
「え、おい?」
「先程魔法道具で体を洗って居たでしょう? 騎士服といえど濡れれば体のラインくらいわかりますのよ?」
笑を浮かべるテートにクリスの頬が引きつった。
迂闊としかいいようがない、自分の行動に後悔する。
仕方なしにクリスは、一歩前にでる。
「なんだ、貴様は!? さっきからテート様と話しやがって! その御方をどなたと心得る!」
クリスが前にでた事に驚いたのか、騎士団員の男が叫ぶ。
怒鳴り声がかなりうるさい。
「知らん……」
「知らんだと……!? 我らが団長、グラン様がご息女であらせられるぞ!」
「へぇ……」
グランの娘ならば、ここにいる理由もある程度予測はつく。
場合によっては、居ても可笑しくはないだろう。
クリスは、テートを横目で見る。
「あんまり似てないな?」
「ですわよね、それが自慢なんですの」
朗らかに言い切るテートに、クリスは少しだけグランに哀れみを覚えた。
「ええい、ごちゃごちゃと! 貴様なぜ私の邪魔をする!」
騎士団員が一人で勝手に盛り上がっている。
体も大きく声もでかい、かなり暑苦しい男である。
「なぜって……「私、見目麗しい方のほうが一緒にいて気分が良いので」……は?」
クリスの言葉を遮るようにテートが話す。
クリスの顔が驚愕に歪む。
いくら一緒にいるのが嫌だとしても理由が辛辣すぎる。
これでは相手が不細工だと言っているようなものである。
「テート様……、そんな、なよなよした奴がいいんですか!? 私は! 私はテート様のために!」
男は俯くとわなわなと震えだす。
そして、顔をあげるとその暑苦しい両目を見開いた。
「貴様、決闘だ! 名を名乗れ!」
「えっ、嫌だよ」
決闘の申し込みをクリスは反射的に断った。
沈黙が辺りを支配する。
一瞬の空白。
けれども男はおもむろに手袋を外し、それをクリスに投げつけた。
決闘の申し込み其の二である。
「汚ぇ……」
けれども、クリスは投げ付けられた手袋を避けた。
「……避けるなああああ!」
「えー」
クリスは心底嫌そうな顔をした。
男は、腰のベルトから剣を抜き、クリスにつきつける。
「我が名は、ジスタン・トライム。トライム候爵領が主、エスライ・トライム候爵の次四男である。貴殿に決闘を申し込む」
決闘の申し込み、其の三である。
「断る……理由がない」
けれど、今度は正面から断った。
受ける理由がないし、仮に戦ったとしても今のクリスでは勝てる可能性が低いからだ。
「貴様になくとも私にはあるんだ! 受けろ!」
「しつこい男は嫌われるぞ?」
何気ない、その言葉。
単純な意見だが、ジスタンは言葉に詰まった。
数秒だけ思い悩み、けれど結果……叫んだ。
「我が剣の錆となれ!」
振り下ろされるジスタンの剣。
クリスが普通に避ければ、そのままテートに当たりかねない。
「あぶねえ!」
クリスはテートを押し倒し、間一髪でそれを避ける。
「おまえ、周りを見ろよ!」
クリスは叫ぶが、その手には何かやわらかい感触。
「あら」
クリスの手は倒れたテートの胸を掴んでいた。
「貴様あああああああああああ!」
それをみてジスタンがさらに叫ぶ。
呪文詠唱。
身体強化を己が体に掛けた。
淡い光がジスタンを包む。
「げっ」
クリスは起き上がり、腕をジスタンへと向けた。
「炎よ!」
魔法道具を発動させる。
ジスタンに向かって巨大な炎が迸る。
ジスタンは怯み、けれども結界を発動させた。
「ふん、なんだその威力の低い炎魔法は! 貴様それでも騎士か!」
「水よ!」
けれども、クリスは続けざまに魔法道具を発動させた。
水の奔流が、足元に向かう。
ジスタンは、一歩飛び退る。
「足止めのつもりか!」
水の量は多いが威力はさほどでもない。
ジズタンは結界を発動させたまま、走りだす。
水は飛び跳ね、土と水が混ざり合う。
「風よ!」
最後の魔法道具を発動させる。
これでクリスが使える今日の魔法は打ち止めだ。
強風がジスタンを中心に吹き荒れる。
「効かぬといっているうううううううううううううう?!」
気合の声は驚愕の声へと転化する。
ジスタンは其の身になにが起こったのかわからなかった。
反転する視界、泥まみれの己。
そして理解する。
盛大にコケたのだと。
クリスのした事は単純だ。
炎で目眩まし、時間を稼ぎ。
その間に水で泥濘を作り、風力でジスタンの体を煽ったのだ。
結果、ジスタンは足を滑らせたのである。
勢いをつけるために、走ろうとするなら尚更だ。
本来なら、引っかかるような奴はいない。
けれども、今は夕方。
薄暗く足元など見えはしない。
「まぬけ……」
クリスはと間髪入れず、転んだジスタンの頭を蹴り飛ばす。
蹴る、蹴る、蹴る。
とりあえず、動かなくなるまで蹴り飛ばした。
いかに身体強化の魔法をかけようとも人本来の急所はかわらない。
弱い女性の力でも頭部を何度も蹴り飛ばせば、昏倒させるくらいはできるものだ。
「やりすぎではなくて……?」
クリスは、テートが止めに入るまで蹴り飛ばしていた。
「死んじゃいねーだろ……、体は丈夫そうだ」
「そう……助けてくれてありがとう。私はテート。テート・サーシェス……ここの団長グランの娘ですわ。貴方の名前を教えてくださらない?」
「クリスだ……」
クリスはぶっきら棒に、そう言うとテートを置いて歩いて行く。
「何処へ行くの?」
「飯……」
「……そうですの、では、また会いましょう」
テートは笑を浮かべると、宿舎のほうへ歩いて行く。
――変な女だ。
クリスはそんな事を思いながら食堂へと歩いて行った。




