五話 アリシアの冒険
改修
ここは鉱山街アルザーク。
第三区画中央広場だ。
様々な食べ物や生活雑貨から武器や燃料、服までもが売られている。
俗に言う屋台街である。
中央広場は一般開放されており、朝早くから夜遅くまで市場として利用されているのである。
この一番は、中央市場という名のとおり、街の中央にあり、最も利用される場所でもある。
今はお昼どきということもあり、溢れるような混雑を見せている。
二人は屋台で買った昼食をとりながら、広場端に設置されている長椅子でそんな人混みを見つめていた。
クリスがこの街の騎士団二つに協力を求めてはや五日。
情報について進展はまるでない。
クリス自身も情報の収集に努めているが、やはり知らない土地では勝手が違う。
地道に足で探しているが、中々に結果はでなかった。
それどころから、何度か軟派まがいな連中に出会う始末である。
王都では破落戸は居なかったが、流石に田舎町にはいるようだ。
最初はそれでも情報の可能性があると何度か軟派に付き合ったりも試してみたもののろくな成果もない。ちなみにアリシアはお留守番である。
騎士や役所の人間と違い、侯爵家の名前すら知らなかった人間もいれば、侯爵家所縁と知ってしつこくなるものいる始末。
王妃の使いとして来ている以上、仮にも無辜の民を殴り飛ばすわけにも行かず、結局レジールやランドルフの名前を出して追い払う羽目になったりしたものだ。
遠くの知らぬ高位の貴族よりも近場の衛兵のほうが怖いうことだろう。
場合によってはレジールかランドルフを直接呼ぶ羽目になってしまい、自ら足を引っ張る結果となったのだ。
仕方がないので、単独での情報収集は諦めて、今度は二人で観光という名の情報収集を行っているのである。
アリシアが留守番に我慢できなくなったわけではない、きっと。
「クリスあの屋台はなんでしょうか?」
「あれも美味しいそうです」
「あの服とかどうですか? きっとクリスにも似合うと思うんです」
「あ、氷のお菓子ですって食べましょうよ?」
「あのお肉美味しそうです」
「麺というらしいです、食べましょう?」
「子猫、可愛いですね」
「牛の乳で作った、生菓子っていうんですか? ふわふわして美味しそうです」
ともあれアリシアは平常運転だ。
留守番だった不満でもあったのか、不満を発散させるように精力的に動いている。
もっとも九割型食べ物にしか意識がいってないようではるのだが。
だというのに、クリスにとっては存外それが役に立った。
アリシアは今まで実家や神殿から出たことが殆ど無かったそうだ。
その割には怖い物知らずというか、何にでも興味を示すし、誰にでも話しかけるのである。
何かを発見するたびにクリスを呼び、質問し、聞かせ、買い物し、物を食う。
本人は完全に気の向くままに遊んでいるわけだが。
アリシアの明るさと朗らかな性格は、他人の警戒を解くのにうってつけだ。
気づいたら甘やかしていた、そんな外見と性格である。
おかげで、気づけば予想以上に住人との交流が増え、アルザークの情報も噂の話も徐々に集まっているのである。
初めの方の日に一人で動いて、軟派されるような苦労は何だったのかと言いたくなるほどである。もっとも雑多な情報の中から仕える情報を選別するのはクリスの仕事ではあるが。
それでも随分と遣りやすくなった。
今現在もアリシアは抱えきれないような量の屋台料理を食べている。
金額にしても相応だが、勿論クリスの財布からで出している。
クリス的には一応お礼の気持ちである。
本人には決して言わないのが味噌である、悔しいのである。
本人に仕事している気がないのが特に悔しい。
「んー♪」
ご機嫌を表したような表情でアリシアは満足げな声を出す。
ご機嫌な理由はもちろん、その手にもった食べ物だ。
今は何かの串焼きを幸せそうに齧りついている。
頬を膨らませて食べる様子は齧歯類などの小動物を思わせる。
「タレが付いてるぞ」
頬についた、タレを手拭で拭う。
「ん~!」
不機嫌そうに、それでも侍女のなすがままに拭かれているのだから、アリシアは見た目も相まってずいぶんと幼く見える。二十歳なのに。
アリシアはごくりと今のぶんを飲み込むと、横に置いてある……食べ物の山から、次のを手にとった、今度は甘味のようで、屋台の品書きには小麦の輪揚とか書かれていたものだ。
アルザークについた初日から、考えられない量を食べているアリシアではあるが、まだまだ余裕そうである。
長椅子の間には普通なら到底食べきれないであろう量と種類の屋台の食べ物が積まれている。
クリスもいくらか頂戴しているが、勿論ほとんどがアリシアの分である。
文字通りの山なのだが、次々とアリシアの口に入っては消えていく。
聖騎士の能力の一つではあるが、クリス等はこれだけの量は荷が重い。
これも一種の才能なのだろう。
しかし、これを全て食べたとしても体力として貯蓄されて、体には一切の変化がないものだから聖騎士とは不思議な生き物である。
もしかして既に人間ではないかもしれない。
しかしこれは、下手をすれば世の中の女性が喉から手がでるほど欲しい力であろう能力だと確信できる。
いつか聞いた、金を払って聖騎士になろうとした者はこの能力をが欲しかったのではないだろうかと邪推している。
「ご馳走様です!」
アリシアが食べ物をあらかた食べ終わったのだろう。
満足げにお腹をさすりながら立ち上がる。
「第三区画のお店は全部食べましたね、次は第二区画ですかねぇ?」
アリシアはうきうきしながら、次は何食べようかと考えている。
まだ食べるきである。
二人は公園に備え付けられている簡易地図を確認する。
街は東西に長い歪な楕円形をしており、街を囲む外壁以外は区切りこそあるが、壁はない。
そして、アルザークの街は第一から第五区画までに区切られている。
第一区画は北側でクリス達が入ってきた北門より通じる区画であるである。
西へ行くとそのまま、鉱山へと繋がっているため、製鉄所なども存在しており、鍛冶屋や工場なども多い、工業区である。
第二区画は西川で、主に公共機関等が多いがここも基本的に第一居住区、所謂貴族街である。
貴族街ということで、高級な店を散見している、二人が宿をとっているのもこの区画だ。
第三区画街の中央で、主に露天や店舗が軒を連ねる場所で、主に飲食店は小売商が多い。
第一商業区であり、一般の住民たちは買い物に主にここを利用する。
第四区画は東側で主に住民の生活区であるらしい、街内農地なども存在しているので最も広く
第二居住区及び農業区である。
第五区画は南側で海に連なり、漁業従事者や貿易のための船門、港等、が存在し、居住区兼店舗、それに準ずる酒場等がある、漁業区及び第二商業区だ。
「俺は第一区画の鍛冶屋を少し覗いてみたいな」
ざっと地図を確認して、クリスも興味がある地点を述べてみた。
情報が集まるといっても食道楽も飽き気味なのである。
「昨日露天商で買った細剣では駄目なのですか?」
アリシアの視線がクリスの腰帯に吊られた一つの剣を見る。
美しく、綺麗な薔薇の装飾がされた鞘。
鞘に入った状態で、剣事態は見えないが鞘や柄の形状から細剣であるとわかる。
柄には蝙蝠の羽を模した形であった。
「ダメというわけではないが、これはただ頑丈なだけでな。せっかく鉱山のある街に来たんだ、掘り出し物の一品でもないかと期待しているわけだ」
「そうなんですか」
完全に興味がない反応である。
おざなりだ。
「見てみるか?」
クリスは腰に下げていた細剣の金具を外し鞘ごとアリシアに手渡した。
流石に手渡されば多少の興味がでるのか、アリシアが細剣を鞘から引き抜いた。シャランという金属がこすれる音がし、その刀身が姿を現した。
細剣の刀身は白く半ば透明、反対側が透けて見えた。
そして磨き上げられた刀身は鏡のようにアリシアの顔を写している。
「細剣の戦い方は突き主体の剣術でしたっけ?」
アリシアが片手で細剣を構えてみるが、背が低くて様にならない。
両手で構えたらちょうどいいように思えなくもない長さである。
「元々は突き主体の元はどこぞの国の王宮剣術だったかな? 室内での取り回しを考えた、鎧の隙間を突いて戦う感じの対人用剣術だ。こいつは諸刃だから一応通常の剣のように扱う事もできるが」
剣を見て、クリスを見て、アリシアは不思議に思う。
アリシアの記憶が正しければ、神殿で聖痕の訓練をしたときにクリスが手にしていたのは他の得物である。
「クリスがその剣術を使うんですか? 神殿で訓練したときは、片手平剣とか短刀を使ってませんでした?」
「俺は別に得意な武器とか苦手な武器とかないんだ。前の騎士団に居た頃は時折、武器管理もやっていてな、新兵の装備調整とかもしたし、武器管理してるやつが使えないとか説明できない武器があったら困るだろう?」
自慢げに語っているが、万能といえば聞こえが良いが、クリスはどちらかというと器用貧乏なような気がする。
少なくともアリシアにとっては使う武器は一つに絞るものである。
例え同じ種類の武器であろうと手に馴染むまでその武器は使いにくいのものである。
武器種事態が違えばどうしてもそれはもはや、使いにくいというものではない。
違う戦術を使わなければいけないという事だ。
故にアリシアは手に馴染んだ自分の杖以外を使う気はなかった。
「その剣はな、芯になかなかいい鋼鉄と特殊な材料が使われていてな。そこに守りの加護を彫り込んであるんだ」
「武器に守りの加護ですか?」
加護といえば、神殿の十八番のような気もするが、神殿のは加護と銘打っているだけで実際は魔法である。
アリシアは彫り込む様式の加護など聞いた事がない。
とはいえ、掘っていると言われたので透ける刀身を覗き込むと文字とも紋様とも判別つかぬ柄が有った。
「ああ、最近の剣は鋭さとか衝撃とかもっと攻撃的な加護を彫り込んでいるのが多いんだが、この剣には守りのみ彫ってある。昔ながらの頑丈で壊れにくい剣だ」
どこか楽しげに喋るクリスに対してアリシアは男の子って武器とか好きだよねとか思っていた。まるで興味がないようである。
鞘に細剣をしまい、クリスへと返還した。
アリシアと対照的にクリスは目線をアリシアの背中にある杖に移していた。
「アリシアの使っている杖にも、守りの加護が彫ってあったな」
あまり気にしてもいなかったアリシアだが、自分のものになると流石に気になるようである。
ほんの少し興味をもったようで、杖を取り出し不思議そうに見つめた。
探してみると、細剣と同じような柄を見つけた。
「そもそも加護ってなんですか?」
今までの会話を流していたのがわかる一言に、クリスの頬が少し引きつった。
クリスはしかたないなと首をすくめ、説明をはじめた。
「加護っていうのはな、魔法を武器や鎧に直接彫り込む事を言うんだ、基本的には彫師っていう専門職が彫り込むんだ」
クリスは鞘から剣を引き抜き、陽射しにかざす。
浮き上がるのは不思議な紋様、クリスはこれを古代文字だと説明した。
「古くからの技術なのは確かだな、というか神殿の武器庫にあった聖戦で使われた武器とかいうのには軒並み彫ってあったけど、知らなかったか?」
聞かれてもアリシアにはよくわからないし、興味もなかった。
「私は杖術しかできませんし、武器はこれしかもったことがないのでさっぱりです」
そう言いながら背負っている杖を取りだした。
アリシアの脇の下までほどの長さのそれは先ほどの細剣と同じくらいの長さである。
宿り木と呼ばれる樹木でできた杖だ。
銘などないが、アリシアは十六からこれを愛用している。
頑丈なので便利に使っている。
洗濯の物干しとか、つっかえ棒とか、穴掘りとか、四年は使っているのに折れたり曲がったり腐ったりしたことなどなかった。
軽くて丈夫でいい杖である。
剣と打ち合ったことさえもあったのだけれども、アリシアは気にしたこともなかった。
加護という絡繰があったことには驚いたが、特に思うことはなかった。
興味なさげにくるくると杖を回し初めた。
「つまらなそうだな。第二区画に先に行こうか?」
途端にアリシアの目が爛々と輝いた。
「第二なら、美味しいお菓子やさんがあるらしいです!」
「それはよかったな」
言いながらクリスは立ち上がる。
アリシアの食べ跡に視線を向けた。
次の瞬間クリス左手の人差し指の爪に一瞬だが光る十字が現れる。
クリスの聖痕が発動したのである。
左手の人差し指で何かをなぞるような仕草をした。
すると大量にあった串と器が砂が崩れるように、溶けるかのように消えてしまった。
「その聖痕はすごいですねぇ……」
アリシアは指を咥えて羨ましそうにクリスを見た。
「掃除が楽でいいだろう?」
クリスのおちゃらけた態度にアリシアはむぅと頬を膨らませる。
聖痕に関しては興味津々があるらしい。
「楽だからといって、仮にも奇跡である聖痕を好き勝手使われるのは困るのですが……」
アリシアの言いたいことも解らないでもない。
奇跡は滅多に怒らないから奇跡でる。
当然それは乱発してしまえば、奇跡ではなくなる。
ようするに何が言いたいのかといえば、価値が下るという事だ。
価値が下るということは神殿の威信にも関わることである。
あまり信者らしくないアリシアだが一応は神官らしい一面もあるのだろう。
複雑そうにクリスを、正確のはクリスの聖痕が光った場所を見ていた。
「そう気にするな」
言いながらクリスは誤魔化すようにアリシアの頭を撫でた。
それはもう、わしゃわしゃと。
「女性の髪に触るなんて!」
アリシアは頬を膨らませて眉を釣り上げた。
どうも巻き毛は何かしら手入れをしている髪型らしい。
アリシアは慌ててクリスの手振り払うと、手ぐしで整え始めた。
「女性……?」
女性、確かにアリシアは女であるという意味からしたら女性である。
小柄なクリスよりもさらに小柄で、色気より食い気で、すぐ癇癪を起すし、見た目は少女のようにしか見えないが、つまりは実際よりも子供に見えるのでクリスの考えだとどちらかというと少女である
少なくとも、大人の女性かと問われたら疑問符をつけるしかない存在である。
クリスがそんな思いから、零してしまった言葉。
それをアリシアは拾ってしまった。
「何ですか……? 子供だとでも言いたいんですか?」
アリシアの静かで低い声にクリスは、少し驚いた。
怒っているのは理解できた。
どうやら竜の逆鱗を撫でたようである。
アリシアはぷいっとそっぽを向く。
そんな行動こそが、子供に見える原因であるのだが、アリシアには理解できていないようだった。
「悪い悪い、つい……」
慌てて謝罪するものの、アリシアは既にお冠だ。
頬を赤らめて、涙目でクリスを睨んでいる。
「ついって何ですか!? もう知りません!」
ピシャっと言い捨てるとアリシアは駆け出した。
クリスには、子供の癇癪にしか見えなかった。
***
鉱山街アルザーク第一区画は殆どが鉱山関係の施設である。
街の北部に位置しており、大きな塀を抱えた工場や、小さな住居兼工場のようなものが多数ある。道は殆どがむき出しの土であり、運送箱が通るところだけ線路が敷かれている。店も露天や屋台などが多く、活気はあるのだがお世辞にも綺麗とはいえない区画である。
観光用に調整された第三区画や宿をとっている第二区画よりも汚い場所である。
そんな所をアリシアは一人で歩いていた。
第二区画に行く予定だったのに、第一区画にいる辺りはお察しである。
ここに来て、今までクリスに殆ど任せきりだった付けが来たのだ。
辺りにクリスの姿はない、喧嘩して第三区画に置いてきたのである。
有りていに言ってしまうと迷子である。
さらには、足取りがおぼつかないのかふらふらとしている。
どうやら怒りすぎて疲れたようである。
流石に聖騎士とはいえ体力はあってもアリシアのもつ聖痕には精神的な補助をするものはない。
つまり精神は常人のものである。
アリシアはちょっと休むつもりで宿に戻ろうとしていたのだが。
そもそも場所がわからず。
他で休憩しようにも第一区画にあるお店はどうにも肉体労働者むけのお店が多い。
客もそうだが、店員ですら、アリシア的には話しかけるのも覚束なくなる相手だった。
人に道を聞こうと思い声をかけようとは思うものの、活気がありすぎて怖い。
話しかけたら、怒鳴られそうである。
行き交うのは脂ぎったような商人か、鉱山育ちで筋肉隆々の男共ばかり。
次、次の人、次の人、と繰り返すうちにすでに人気はない場所にまでで来てしまっていた。
気づけば喧騒からは遠く、アリシアは自分が何処にいるかもわからなかった。
「迷いました……」
第三者が見ればとっくに迷っていたのだが、アリシア的には今迷った事になっている。
知らない街、初めての街。
そこで、歩きまわって目的の場所につくなどあり得ない。
アリシアがそこに辿り着いたのは偶然だったが。
疲れたアリシアが自然と人気の少ない場所を選んだのならば、それは必然だった。
そこは裏路地と呼ばれる場所だった。
表の活気とは無縁のようにひっそりとしている裏路地。
建物の影にはこちらを伺うような視線を向ける、怪しい風体の男たち。
道の端に座り込む人々は、その目はここではないどこかを見据えていて瞳には空虚しか写っていない。
まるで死んでいるかのように、身動き一つしない。
慣れない初めての場所で一人、そして周りには普段生活していたらまず会うことなどなかったような裏路地の人々。
アリシアは目を白黒させて、驚いた。
同じ街だとは到底思えなかったのである。
しかし、それなりの街なら何処でも裏路地程度あるものである。
王都でも存在するというのに、それを見て驚くということは、王都にあることも知らない可能性すらある。
アリシアの箱入り具合がわかるというものだ。
同じ街であろうとも裏路地とは一種別空間だ。
慣れたものなら一歩入りこむだけで、その空気の違いを敏感に感じ取ることができるだろう。
だが逆に、慣れていない、何も知らない一般人が紛れてしまえばそこに起きるのは戸惑いだ。
いくらか戦闘の訓練を積んでいると言っても、アリシアもその例にもれずに戸惑った。
朧げな知識で、そこが裏路地であると気づいたときには、遅かった。
気づいた時には既に深く迷い込んでいたのである。
アリシアが気づいたときには、既に囲まれていたのである。
否、自分からその網へと入り込んだ。
入ってしまったのだ。
娼館街へ。
一見して何をやっているかわからない、壁や小さな裏口のようなものばかり並ぶ其処にひときわ目立つ建物群。
けれども、裏路地にある他の建物よりも華美な建物。
裏路地にあるのを忘れるほどに明るく、人の多い。
人が泊まるための施設でもあるためか、酒場や食堂すら併設されている所もある。
明るさと、その食べ物の匂いに、アリシアがそこにたどり着いてしまったのだ。
閑古鳥の泣いてる、飲食屋台を見つけたアリシアは神の救いとばかりに飛び込んだ。
そこは、道に迷い、疲れたアリシアに一時の休息と癒やしを与えるはずだった。
だというのに、アリシアが入った途端に。
「てめえに売るもんなんてねえよ! 帰れ!」
けんもほろろに追い払われた。
「可笑しいですね……」
匂いに釣られて、入った先、屋台料理くらいなら手持ちのお金で買えるはずだった。
だというのにこの仕打。
少しだけ涙目になった。
なぜこんな目にと思わなくもない。
ため息を付き空を見上げた。
涙のせいで空が滲んで見えた。
その時ちょうどよく、華美な建物の窓が開いた。
華美な建物の窓から覗く顔。
それは、化粧をした女性だった。
女性は窓に腰掛けると、煙管を取り出し火をつけた。
その姿はすごく扇情的で、胸元が大きく開いた服を着ていた。
アリシアは、初めて見たその服装に驚いた。
女性が視線を下に向ける。
二人は見詰めあってしまった。
恐らくはアリシアの僧服に眼が行ったのだろう、女性はその眼差しで、冷たい、そして何処か澱んだ、裏路地の道端の人々と同じ眼をアリシアに向けていた。
その冷たい視線にアリシアは得も言われぬ恐怖を感じ、びくりとすくみ動けなくなってしまう。
蛇に睨まれた蛙のようだった。
しばらく見つめ合っていると女性の後ろから太い毛むくじゃらの手が伸びてきた、おそらくは男性のものだろう。
その手は女性の胸を鷲掴みにすると、揉み始めた。
女性はなん言か後ろの男性と会話をすると笑い、窓を閉めた。
おそらくこの華美な建物は娼館なのだろうと、ここに来てアリシアも気がついた。
裏路地のさらに奥まったほうに入口がみえ、怪しい風体の男が数人たむろしている。
一人の男が冷たい瞳でアリシアを見た。
言い知れぬ恐怖を感じた。
「クリス、早く宿に帰りたいです」
思わず呟いたが、その言葉は虚空に消える。
言葉を返してくれるはずのクリスは今は居ない。
置いてきてしまったと気づいて、急に寂しく、心細くなる。
今、自分が一人だと思うと急に恐怖が増大する。
クリスは、アリシアが箱入り娘だと言う。
アリシアは元々貴族である、下から数えたほうが早い男爵家だとしてもだ。
貴族であったころは貧乏貴族とはいえ、見栄のための侍従が居た、それも複数。
アリシアの家は決して大きくはない、そんな所に複数もの侍従がいればどうなるか、仕事を持て余すのだ。
アリシアに兄弟姉妹はいない。
そのため侍従がなんでもやってしまい、アリシアは自分で何かをした事はほとんど無かったのだ。
それなりに厳しい家庭ではあったが、それなりに甘やかされて育ってきたのだ。
神殿に入ったあとも一人で何かをやったことなどほとんどなかった。
神殿に入れば全て決められたことをこなすだけ、自分から何かをするということはほとんどない。
故に、知らない街で迷子になるということは、アリシアの精神に多大な負担を強いた。
初めての迷子。
クリスならそう例えるだろう、もちろん笑いながら。
娼館の入り口に屯していた男の一人がアリシアと眼があう。
その後、アリシアのいる方向を指出し、それに釣られてか、他の男たちもアリシアを見た。
男たちの視線に晒されるアリシア。
男たちはにやけ面でアリシアを見ている。
アリシアの背筋に悪寒が走った。
――ここは、よく無い場所だ。
そんな思考がアリシアを駆け巡る。
同時に、アリシアの脳裏に先ほどの女性の姿が思い出された。
そして結びつくのは最悪の事態。
――ここにいたら、娼館に売られれちゃう。
思わず手をぎゅっと握りしめる。
辺りを見回し、すぐに表通りに出ようとしたが、振り返っても通ったはずの道がない。
――ここは何処?
コツンと物音が聞こえた、何かが落ちたような音。
普段なら別段意識することもない、そんな音。
しかし、今のアリシアには致命的だった。
音が聞こえた途端に、びくりと震えた。
恐怖が膨れ上がり、居ても立っていられなくなり、方角もわからないまま走り出す。
ゴミ箱にぶつかり、ゴミをぶちまけ、服が汚れる。
壁にぶつかり、煉瓦を砕き、服が擦り切れる。
木にぶつかり、木が抉れる。
それでも、足は止まらない。
否、止まれない。
なぜか止めてはいけない気がして、走り続ける。
――怖い、怖いっ、怖いっ!
湧き上がる恐怖を御せず、呼吸が荒くなる。
そしてやがて息を切らしていまう。
――なんで息が切れるの?
アリシアは聖騎士だ、心肺機能など常人と比べるべくもないほどに高いのだが。
それでも息が切れるというのは精神的なものである。
もはや自分一人ではどうにもならい恐怖がアリシアを震わせる。
アリシアの心を占めるのは純粋な恐怖のみ。
――怖い。
息が苦しく、呼吸が浅く早くなる。
過呼吸にすら陥った。
意識すらも朦朧としてくる。
遂には立つことさえままならなず、道にへたり込んでしまう。
虚ろな瞳で空を見上げるアリシア。
――使徒様どうか、お助けください、もう礼拝で居眠りしたりしませんから。掃除も手抜きせず、きちんとやりますから。
朦朧とした意識で手を組み、祈る。
それでも恐怖が脳裏から離れない。
あの淀んだ瞳が恐ろしい。
何も映さない瞳が恐ろしい!
その時だった。
脇の道から、コツコツと硬い音が響く。
虚ろな意識でそちらを向けば、人影が見えた。
その影は夕暮れの光のせいでか、とても大きい。
コツコツと、音がひびき、音に合わせ、段々と近づいてくる影。
その影は大きく、アリシアには自分を食べようとする悪者にさえ思えてしまう。
コツンと音が止まる。
「お嬢さん、道に迷ったのかい?」
突如後ろから掛けられた高い声に、アリシアはビクリと肩を揺らした。
――何、誰?
アリシアがゆっくりと振り向くと、そこに居たのは鼻息の荒い、赤い髪で大柄の男だった。
背は高く、筋肉隆々、目は細く切れ長で、いかにも女うけしそうな男だった。
瞬間蘇る、アリシアの心的外傷。
男の顔がジャランと重なった。
「いやああああああああ」
瞬間、反射的に繰り出されたのはアリシアの昇拳。
そう過去にジャランに決めた一撃である。
「ふべら!?」
過去に貴族の護衛を一撃で伸したその拳が、聖騎士となり強化されて、その男……ランドルフに突き刺さった。
そして、殴られたランドルフは、錐揉み回転をしてごみ箱に突っ込んだ。
「はぁはぁ……もう嫌っ、なんでこんな目に」
こんな目にはランドルフの台詞だろう、彼は巡回中にアリシアに裏路地で出会ったので声を掛けただけである。
見た目少女であるアリシアが裏路地に来るはずなどないだろう、恐らくは迷子であると正しい推測のもとで声を掛けたのだ。
鼻息が荒かったのは走ったアリシアを追いかけたからで、決してやましい気持ちではない。
だというのに、この仕打、ランドルフのほうが泣きたいくらいだろう。
しかし、綺麗に顎に決まったので既に意識は無いのだが。
アリシアの目からは光が失われ、涙がだくだくと流れている。
所謂陵辱目だ。
「どうしたんだアリシア、服が大分汚れてるが?」
アリシアが恐怖のあまり自決しようとしたとき、そんな声がかけられた。
朦朧とした意識で振りかえったそこには、不思議そうな顔をしたクリスが居た。
思わず目を見開く。
朦朧としていた意識が明瞭にもどる。
不安が吹き飛んだ。
――迎えに来てくれた。
安堵からか、アリシアの目からこぼれ落ちる涙は既に濁流だった。
「ぐりぅずぅ……」
こぼれた涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながらアリシアはクリスに抱きついた。
「うわっ」
仰け反り、驚くクリスの胸に、アリシアは顔を押し付ける。
「どうしたんだ?」
クリスにも、この状態のアリシアに汚いと言わないだけの良心があった。
迷子で心細かったなど、アリシアは口に出せなかった。
喧嘩したのもある、恥ずかしいのもある。
アリシア結局無言のまま、クリスの胸でえぐえぐ泣いた。
クリスは何も聞かずに手拭を取り出してアリシアの顔を拭いた。
「ほら、宿に帰るぞ」
拭き終わるとクリスがアリシアの手をとり歩き出す。
アリシアは泣きながら頷いた。
「うん」
夕焼けの中、宿に向かい歩く二人。
途中の屋台で買い食いしながら、ゆっくり歩いて行った。
泣きながらでもアリシアの食欲は健在だった。
いくらか落ち着いたアリシアがクリスに疑問をぶつける。
「よく、あの場所まで来れましたね、帰り道もわかってたようですし」
「ん、ああ、なんとなくな」
歯切れの悪いクリスだが、しかし、もはやアリシアに追求するほど精神力は残っていなかった。
「なんとなくですか」
「ああ、なんとなくだ」
えいっと両腕でクリスの右腕に抱きつき寄り添うアリシア。
「どうした?」
怖くて寂しかった。
安心したかった。
不安だった。
それが本音だったが。
もちろんアリシアが素直に言えるはずもなく。
「なんとなくです」
誤魔化した。
「そうか」
「迎えに来てくれて助かりました」
「あたりまえだろ?」
その言葉に僅かに頬を染めるアリシア。
けれども夕日でその違いはわからない。
そしてクリスはさも自分から迎えに行ったように相槌をうっているが。
実は鍛冶屋帰りで、宿への道にアリシアが居ただけだったりする。
帰り際に声をかけたにすぎない。
実はクリス、元からアリシアを見失ってなどいなかった。
その気になればすぐにでも迎えにこれた。
十八あると言われた、クリスの聖痕。
その中の一つに、暗視、遠視、透視、未来視、鑑定視など目にあらゆる機能を付加する、千里眼と呼ばれる聖痕がある。
遠視と透視を併用すれば、人探しなどお手の物。
それどころか、追跡視というちょっと変わった能力もある。
一度見た事がある相手なら遠視で確認できる範囲にいれば何処にいるかがわかるという代物だ。三次元探知機と発信機がくっついたような能力である。
それを使い、アリシアが道に迷っていたのは動きですぐにわかった。
すぐに迎えにいかなかったのは、時間が経てば子供扱いした怒りも収まるだろうと思ったからで、ついでに怒りが収まるまでの間に鍛冶屋で剣を見繕っていたからだ。
その証拠にクリスの背中には両手剣がかけられている。
無論、掘り出し物である。さらに加護付きだ。
アリシアのいる場所が、ちょうど鍛冶屋から宿屋への道にさしかかりそうになったので、ちょうどいいと機会を伺って出向いただけなのである。
道に居なければ先に宿に戻って、食事でごまかしながら謝ろうと思っていた次第である。
ともあれ、さすがになぜ泣いていたかまでははわからないが、落ち着いて機嫌がよくなったアリシアをみてクリスは安堵した。
泣いてた理由を聞くほどクリスは野暮ではない。
ただ単純に人気の屋台で食べ物が目前で売り切れたんだろうと、予想していた。
クリスはアリシアの機嫌を取りながらも宿へと帰還した。
宿につき、剣をアリシアに見つかり、いつ買ったのか追求されたとき、アリシアの機嫌が悪くなったのはまた別の話である。
そして、その夜。
集落の場所の検討が付いたと、ついにレジールからの報告が来たのである。
そして、ランドルフが情報収集中に行方不明になったと教えてくれた。
レジールは真剣な顔で、「何か触れいけねぇ者に触れちまったかねぇ」とつぶやいた。
あながち間違いでもなかった。
2018/04/24