プロローグ 有無 ~もたざるものの憂鬱~
森を切り開いて作られたそこには、大きな訓練場があった。
訓練場とは言うものの、特別な何かあるわけではない。
平で土がむき出しになっているという、運動場のようなものである。
クリス達が西の小国ウェスタリアに向かって数日。
その日も朝から、聖騎士達は運動場にて訓練に励んでいた。
走りこみをしているようで、運動場には土煙が舞っている。
おおよそ六十人程度であろう、小柄な女性を先頭に、他が続くような形である。
小柄な女性……先頭を行くのはアリシアである。
訓練の指揮をとっているようだ。
アリシアはふと胸元を覗き込み、首に掛けてある懐中時計を手に取った。
蓋をあけて時間を確認する。
短針が八を指している事を確認すると、声を出した。
「そろそろ、朝ごはんですよ~走り込みは終了で~す」
徐々に速度を下げ……、やがて立ち止まる。
軽く額の汗を騎士服の袖を拭い、背後を確認する。
「大丈夫ですか~?」
思わず声を掛けたく成るほどに、それはひどかった。
へたり込むものはまだいい方で、中には痙攣しているものもいるようだ。
立っているものなどは半分にも満たない。
「まだまだですねぇ~」
アリシアは不満気に唇を尖らせて、出来の悪い教え子たちにため息を付いた。
すると、数少なく立ち上がっている聖騎士。
その背中まで伸びた髪を一本に縛っている女性、レイトが疑問を口にした。
「むしろ……、走っているだけで、……本当聖痕の訓練に成るのですか?」
息も絶え絶えに語りかける。
「なりますよ。理由は何度か説明したと思いますが、聖痕は小魔力を使って起動させるのです。聖騎士になってまだ日の浅いあなた達は小魔力の運用を殆どできていません、だから短時間はよくても、こう長時間の運動になると体がもたなくなるんです」
朝六時に起きて、八時まで走り通しである。
聖騎士とはいえ成り立ての、それも女性では厳しいものがあるだろうが。
けれども、実際アリシアは軽く汗こそかいてはいるものの、疲れたというような表現は当てはまらないであろう程には、元気である。
「きちんと体に小魔力を巡らせる事ができれば、聖痕にも小魔力が巡り、その身に受ける恩恵が増すんです。そうすれば……」
「身体能力が強化されて、聖騎士本来の力を発揮できる。のでしょう?」
もう何度も聞いた、という表情でレイトが言葉をかぶせた。
「ですね、覚えてるじゃないですか?」
「何度も聞きましたからね……、私のような馬鹿でも覚えますよ」
レイトは自分を嘲るように笑う。
あんに才能がない、と言われているような気がして、落ち込んでいるのだ。
「そうですね、ですからこうやって、極限まで体を疲れるさせる事で、再生の聖痕に、疲労を感知させて、強制的に小魔力の運用を掴んで貰おうというわけです」
聖騎士の授かる力、聖痕。
その聖痕の中でもどのような聖騎士でさえ、授かるという守りと再生の聖痕。
再生の聖痕は発動効果として有事に傷の再生を促す事ができる聖痕だ。
そして常時効果として、体力の回復を早めさせる効力がある。
もちろん常時効果は殆ど小魔力は使わないのだが、極限まで疲労したとなれば話は別だ。
普段よりも小魔力を使い、体力を回復させるために動き出す。
「全員うまくいけば、早朝訓練は減らしてもいいのですけどね」
アリシアは考える。
現状一時間程度ならどの娘も問題なくついてくる。
けれども、一時間を超えるとぽつぽつと脱落者が出始める。
とはいえ、走ってる速度も速度なのだが。
常に全力疾走である。
「クリスは初めから余裕だったんですけどねぇ……」
小さな声でポツリと呟いた。
事実クリスは元々男なので小魔力の扱いなどお手の物だった。
それもアリシアよりも遥かに。
神殿で共に訓練をしたときの体力測定でボロ負けして泣きそうになった苦い記憶がアリシアに蘇る。
少しは手加減してくれても、良かったんじゃないかと今は思う。
「ほう……流石は団長殿といった所ですか……」
どうやらレイトに呟きが聞こえてしまったようである。
「あ、いやクリスはちょっと、特別で……」
余計な事を言ったか、と僅かにアリシアは狼狽する。
「でしょうな、団長になるようなお方だ、特別でなければ困りまする」
何かを納得したようにレイトは頷いた。
そんなレイトを見て、元気そうだしいいか、と思う。
すると、その機会にアリシアの腹からぐぅと、空腹を知らせる音がした。
「そんな事よりご飯にしましょうか」
アリシアは強引に話を切った。
「ほらほら、ご飯ですよ~、動けない人は動ける人に肩を貸してもらってー、全員軽く汗を流してから食堂へ行きましょうねー、宿舎汚したら掃除担当の人が大変ですからねー」
通常駐屯所の掃除は、たいていどの騎士団でも新人などがやるものだ。
この騎士団でもそれは例外ではないのだが、そもそも全員が新人のようなものである。
一時的に留守を預かっているアリシアとて神殿の聖騎士としては数年の経歴があるものの、騎士団の騎士としては素人同然である。
つまり掃除は持ち回りである。
全員が運動場が出るのを確認して、アリシアも汗を流すために浴場へと向かった。
***
「ふう……」
お湯に浸かり静かに呟き、一息つく。
体の疲れが流れ出るような、そんな心地よさを感じ、思わず眼を閉じる。
周りは僅かに騒がしいものの、殆どものは疲れているのだろう、静かに温泉に浸かっている。
ここは騎士団宿舎に常設された温泉である。
本当に良い土地を貰えたものです、とアリシアは思う。
殆ど掛け流しで、年中無休で入れる温泉、これほど素晴らしいものそうはないだろう。
夏である今こそ、川や井戸水での水浴びを好むものこそ多いだろうが、これから秋や冬にかけて気温が下がれば徐々に温かいお湯へと人気を移していくだろう。
しかも、この入浴施設、作りが貴族用のそれに近い。
見た目こそ、外に作られ木材の柵で囲まれているだけにしか見えないが、おいてある備品が貴族のそれである。
恐らくクリスが手配したのだろうが、姿見用の鏡や手ぬぐいや垢すり布、剃刀や毛抜に、果てには香油や石鹸まで。
これで身だしなみを整えろということなのか。
銘が全て同じなのは、何処かで一括注文でもしたのだろうか、それとも拘りでもあるのだろうか、恐らくは前者ではあるが。
クリス的には、人前に出す時に女の騎士団で見栄えが悪いとか無いな、と思って用意したものであるのだが。
用意し過ぎではないか、とアリシアは思う。
アリシアの実家でも、風呂はあるにはあったが、侍従に身だしなみを整えてもらうのと同じかそれ以上の道具が揃っている。
領収書を見ながら予算だ何だと呟く割には変な所に金をかけている。
金のかかる幻獣も増やしたし、この騎士団は何処へ向かっているのだろうと、感じずには居られない。
「やっぱり金銭感覚がおかしいですよねぇ……」
本人に言っても、気にするな、と言われて終わるだけである。
書類がだるい、などといいながら財政は全て一人で請け負っている辺り、金銭に関しては優秀なのだろうか、それとも王国から渡されている金額が大きいのか、アリシアにはとんと検討もつかないが。
「誰の事?」
何処ともなく声がかかった。
「誰ってクリスですよ、他に金銭感覚おかしい人いますか?」
「へぇ? そうなんだ、例えば?」
そうですねーとアリシアは軽く思案する。
「武器とか鎧とかほいほい買っちゃうしお気に入りの細剣なんて値段聞いたら銀貨一枚ですよ、普通なら四人家族が一年近く暮らせる金額です。それに一角獣なんかも、少しは悩みましたけど、あっさり買ってしまいましたね。一匹半金貨ですよ、もっともこっちは経費だとか言ってはいましたが」
「クリスは、お母さんがリリィ家領地の豪商の出なんだっけ? セシリアわかる?」
「確かそうですね、生活雑貨から傭兵まで幅広く取り扱っていますよ。お爺さんがラプンツェル商会でしたか、そこの会長さん。という話ですね」
「そうなんですかぁ、道理でお金に糸目をつけないと……」
そこで気付き、振り向くと、いつまのに入ってきたのだろうか、アリシアの横にはセシリアと赤髪を頭の上に結い上げたフランシスがお湯に浸かっていた。
「あれ、王妃様いついらっしゃったんですか?」
「ついさっきね、本当は午後に来る予定だったんだけどセシリアがどうせなら午前の訓練に混ざりたいとか言うから……」
「むぅ……良いじゃないですか、副団長なんですよ、私!。たまには訓練の様子くらいみないと……どうですか? 皆仲良くやっていますか?」
「あ、はい。まだ訓練不足はありますけど、概ね順調といえば順調ですね」
「それは良かったわ……」
フランシスも気になっていたのだろう、安心したように微笑んだ。
無理もない十歳程度の子も居るのだ、心配しないほうが可笑しいというものだ。
「しかし、この施設は贅沢ねぇ……広さだけなら王宮のお風呂より広いじゃない?」
見回すように、辺りを確認するフランシス。
周りは木で出来た柵に囲まれ、空は開け放たれている。
山林を切り開いて作られたこの場所は、宿舎から僅かに離れた場所に配置され、脱衣所が備え付けられている。
空間を広くとるためだろう、渓谷の崖まで後数メートルという所まで浴場は作らている。
常時使用できるというのは伊達ではなく、木の柵には魔力灯すら備えられている。
「夜まで入れるとか……観光地の大きな宿屋なみじゃないの」
しみじみと呟くフランシス。
「夜なら人少なくて、泳げそうでいいですね」
僅かに眼を光らせるセシリア。
今は他の聖騎士が多いためか、で流石に泳がず浸かっている。
「泳ぐな」
間髪いれず、低い声でフランシスが告げた。
セシリアはしゅんと項垂れた。
「それで訓練に混ざりに来たんですか?」
「それは、セシリアだけね。とりあえず公募の件とか騎士服とか騎士団の名前とかについて意見を聞こうと思ったのだけれど……」
「あー……、クリスなら先日ウェスタリアに旅立ちましたけど……」
「だそうね、それは知っているわ。手紙が来たもの。けれど今の所はクリスの補佐をしてるあなたでもいいかなって、アリシアだっけ?」
「はい」
アリシアは頷く。
「アリシアに聞きに来たのよ、そしたらお風呂に入ってるっていうから、折角だし視察も兼ねてこうして出向いたの」
「それはご足労掛けました……では上がりますので、来賓室があるので、そちらでお話しましょうか」
外へと促すが、フランシスは首を横に振る。
「焦らなくてもいいわ、今日は時間あるし朝ごはんまだなのでしょう? 私達はもう少しゆっくり温泉に浸かってるから、食べてきていいわよ、騎士は体が資本らしいから」
セシリアを見つめるフランシス。
恐らく体が資本と言ったのはセシリアなのだろう。
脳筋な割には時折、的を得た事を言うので不思議である。
フランシスの動きに釣られてアリシアもセシリアを見た。
そして、思わず眼を見張る。
それは、一種の芸術のようだった。
引き締まり、脂肪の殆どないその体。
悪く言えば貧相、よく言えばほっそりとした体。
けれども、筋肉も多すぎず、少なすぎず、まるで彫刻のような造形である。
「どうかしました?」
二人の視線に不思議そうに首をかしげるセシリア。
「いえ……綺麗なお体だと思いまして」
この体で、この細腕で変異蛇竜と互角戦ったのかと思うと、細すぎるようにも思えてしまう。
事実、セシリアより二十センチほど身長の低いアリシアよりも、体は細く思えるほどだ。
決してアリシアが太いわけではないのだが。
「毎日訓練してればこうなりますよ」
セシリアは当然だとばかりに、自慢げに微笑んだ。
その言葉に何を思ったのか自分の二の腕をつかむアリシア。
プニっとした感触が手に伝わる。
「……」
一応毎日の訓練はしているのだが、この差はなんだろうと思い悩む。
「気にしなくていいわよ……あれの訓練は結構おかしいから」
フランシスがアリシアの行動の意図に気づき、アリシアを慰めた。
けれども、アリシアは余計に惨めな気分になって、自分の体を隠すように口元までお湯に潜った。
すると今度はフランシスの胸が目に入る。
お湯に浮いている。
アリシアはその後、浮きもしない、自分の胸を見つめ……小さく息を吐いた。
吐き出した息は泡となり、ぶくぶくと水面に波紋を作りだした。




