二十八話 信頼 ―地図挿絵―
その日の最後の書類は前線の兵糧部隊から送られてきたものであった。
書類を読むクリスにチナクペコが問いかける。
「すいません、どうしてもと言われちゃいまして」
クリスは寝ぼけ眼で書類を確認する。
現在は夜である。
クリスは職務の後食事をとり、軽い鍛錬をすませ、後は寝るだけと、部屋に入ろうとしたところで声をかけられた。
そして現在ここはクリスの部屋の前である。
入り口とはいえ、就寝前に押しかけたチナクペコは申し訳なさそうにうつむいた。
「追加の兵糧の裁可か……特に不審なところはないが、請求額が少し高いくらいか」
他の部隊と違い、兵糧部隊の書類は数が多い。
なぜなら、人は生きているのだ。
毎日食事をとるし、食料も時価であるため、クリスとしても裁可の回数がとても多いのだ。
そのため他の部隊の書類よりも圧倒的に慣れている。
当然、不正もすぐにわかるのだ。
クリスの言葉にチナクペコは、うつむいた。
「この裁可は今日中か? 今確定すれば明日の朝から準備はできるだろうが……」
クリスは眠い頭で愚痴をこぼす。
いつもよりも頭がまわらない、連日の職務の疲れがそろそろ出始めているのか、できるだけはやく休みたかった。
クリスは書類を確認する。
疲れているせいか、あまり文字があたまに入ってこず、何度か確認するはめになった。
それでも何とか裁可する。
「サインをしよう」
「あ、インクはこれを使ってください……ごめんなさい、ペンは忘れちゃいました」
クリスはわざわざインクくらいとも思わなくもないが、インクとはそれなりに高額なものだったと思いして、受け取り部屋に入った。
「少し待っていてくれ」
そう声をかけ、部屋の灯りをつけ、ペンを探しているところで、扉からカチりという音が鳴った。
普段なら気になるだろうが、眠い頭の今は気にならなかった。
クリスは書類を備え付けの机の上でサインした。
「これで問題ない、書類を持ってチナクペコも戻るといい」
声をかけ、書類から顔をあげると、チナクペコはいつのまにか扉を占めて、クリスの前に立っていた。
「どうした?」
クリスの問いかけにチナクペコは答えない。
不審に思ったクリスがチナクペコを注視する。
チナクペコのその頬は赤く染まり、目を潤ませていた。
「クリス様……」
熱を帯びた声が、部屋に響く。
その声にクリスも思わずドキりとした。
「どう……した?」
チナクペコの態度にクリスは動揺する。
そんなクリスの態度をみて、チナクペコはくすりと笑う。
「クリス様って背の低いほうですよね。でも僕ってもっと背が低いじゃないですか」
「ああ」
唐突な問いかけに素直に答える。
チナクペコの熱を帯びた声とは裏腹に、語る内容は騎士としては残酷な物だ。
「弱そうに見えるでしょう?」
「……そんな事は」
いくら自身が言っていようと弱そうなどというのは騎士にたいする侮辱である。
クリスはそれ否定しようとして、励まそうとするが、チナクペコがそれを遮った。
「事実弱いんですよ。剣だって握ったことないんです」
チナクペコの告白、騎士団員であるのに剣を握った事がないという事実。
その事実にクリスは眉を顰める。
「だけど、そんな僕が最強と呼ばれる翼竜騎士団に入団してる、これって何かあると思いませんか?」
「……」
クリスは顔を顰めるだけで、言葉は返さなかった。
何かと言われて思い出すのは自身の境遇。
思わず身構え立ち上がり、いつでも抜けるように腰の剣に手をかけた。
「そんなに怖い顔しないでください、僕だって初めてなんですよ?」
そう言ってチナクペコは騎士服を脱ぎ始めた。
「何をして……」
――パサ。
クリスの言葉は、その音がした時に途切れた。
上着が床に落ち、チナクペコの上半身が露わになる。
白い柔肌、筋肉もろくについてない。
だというのに、その胸は小さく主張している。
「下着は外して着たんです、すぐにできるように……」
――パサ。
二回めの音がした時、チナクペコは既に全てを脱ぎ去っていた。
――あるはずのないものがついていて、あるはずのものがついてなかった。
そこに居たのは裸の少女。
「クリス様がお綺麗な方でよかったです、初めてが団長みたいなハゲ親父は流石に嫌ですからね」
裸の少女……チナクペコがそう言いながらがクリスに近づいてくる。
「こういう時のために、誰もしらないような田舎の村から特別に勧誘されたんですよ僕」
格好さえ整っていれば男にも見えて、女にも見える。
そんな可愛らしい子供のような容姿をもつペナクチコ。
おそらくは探すのに苦労したであろう。
つまりは、美人局である。
「大丈夫です、練習だけはしてきましたから……」
何の練習だろうかとクリスは聞きたくなったが、聞けなかった。
どこか思考に靄がかかる。
チナクペコは両手を広げて、クリスに抱きつこうと近づいてくる。
思わずクリスは一歩さがろうとする。
椅子が邪魔で、横に動く。
「もしかして、クリス様も初めてですか? 大丈夫ですよ。僕がんばりますから」
はにかみながら言うチナクペコ。
何をがんばるのだろうかとクリスは聞きたくなったが、聞けなかった。
恍惚とした、熱を帯びた声でチナクペコが迫ってくる。
クリスはじりじりとさがる、何処か思考がうまくいかず下がるくらいの判断しかできないのだ。
クリスは汗を拭う。
クリスは気づかぬ間に汗をかいていた。
――汗?
汗を手で拭うクリスを見てチナクペコがはにかんだ。
「そろそろ、効いて来たようですね。あのインク、空気にとけるびや……あんまり考え事ができなくなる薬が混ざってるんですよ、代わりに身体が興奮するんです。僕も可愛さには自信があるんですけどね、世の中には大きくないとダメとか色々な趣味の人がいますから」
クリスの意識に霞がかかる。
チナクペコの言葉の半分も入ってこない。
けれども、逃げなければいけないという感情だけがそこにあった。
故に後ずさる。
けれども、足がベットにつまずいて、クリスはベットに座るように腰をついた。
同時にベットで何かが動く。
「ご自分からベットに行くなんて、ヤル気まんまんなんですね」
チナクペコがはにかみながらベットに近づいた時だった。
ベットにあった毛布が吹き飛び、チナクペコに直撃する。
「ふぎゃ」
「お待ちしておりました、クリス様。不詳このレスカ・ピール、クリス様の匂いが心地よく少しうとうとと……。今宵は貴方のために純血を捧げたく参りましてございます」
そこに居たのは、正座をしている凛々しい佇まいの女性。
服など無粋とばかりに一糸まとわぬその姿。
金の髪は背中に流され、白い肌によく映える。
貼りのある双丘を惜しげもなく晒させ、クリスの目を惹きつける。
「このレスカ、翼竜騎士団にての苦心の日々。毎日汗臭い男どもも混じり、姓を隠し、地獄のような訓練を乗り越えて、私は何故ここにいるのだろうと何度も、我が宗主たるエフレディアに問いかけました。しかし、返答はあらず。私になぜこんな試練をと思いましたが、きっとこれまでの日々はクリス様と出会うためへの試練だったのです、今宵は私の手管に酔いしれてくださいませ、全て私にお任せを、大丈夫です先程紅茶にいれたくす……かけたまじないが効く頃です、それに訓練は欠かしていません」
何が大丈夫なのだろうか。
紅茶に何を仕込んだのか気になった。
そして、何故今訓練を欠かさず行っている話がでるのか、クリスはとても気になった。
しかし、言葉がでない、というかクリスの頭には入ってこない。
ただクリスが言える事はエフレディアはきっと試練を科していないという事だけだった。
「また、レスカさんですか……ええ、女性だって気づいてましたよ」
チナクペコの冷たい声が部屋に響く。
その声にレスカの視線がベットの前で仁王立ちをするチナクペコに向けられる。
レスカは少し驚いたような顔だったが、納得したように頷き、レスカはチナクペコを睨みつけた。
「また、というのはこちらの台詞ですねチナクペコ。ところでチナクペコそのはしたない格好はなんですか? 今宵は私とクリス様が愛を育む日、邪魔ですからどうかお立ち去りください」
「あんただって、同じ格好でしょうが! 何よ、はしたないって!」
「私は常に心に、貴族としての誇りを抱いているのです、故にどのような姿をしていようが貴方と違いはしたないという事はありません」
告膳とした態度で告げるレスカ、けれども、その言葉はチナクペコにとって癪に障ったらしい。
「なによ、老け顔の癖して! むしろ服着てなきゃまともに見れないっての!」
「私を老け顔だと! お子様には私の高貴な美しさがわからないようですね!!」
ピーチク、パーチク、ギャーギャーといつものように口論が始まった。
互いに罵倒の応酬を繰り広げる。
これだけ騒げば、一人二人文句を言いに来るものが居ても可笑しくはないのだが、生憎とここは技術部の宿舎である。
森の近くにあり、他の宿舎とは少しばかり離れており、部屋も余っている。
故に多少騒いでも問題ない。
ちなみに、部屋が余っていても基本は二人部屋なので、普段はオランもこの部屋に居る。
大きな声で、二人が騒いでくればいくらかクリスの意識も晴れてくる。
けれども、なぜか声が出なかった。
どうするかと頭を悩ませた時だった、クリスの背筋を寒気が走る。
悪寒の元を辿れば、それはクリスの下……ベットの下だった。
気づけば、ベットの下から黒い何かがゆっくりと這い出てきている。
騒ぐ二人は気づいてないのか、未だに口論を続けている。
クリスは腰の剣を引き抜こうとした。
けれども、クリスのその手を素早く抑える手があった。
「……危ない。ダメ」
クリスの手を抑えたのは、綺麗な声とクリスよりも大きい小麦色の手。
手の持ち主に視線を向ければ、そこには長いまつげでクリスに微笑む妖艶な女性。
長いまつ毛とその赤くぷっくりとした唇が特徴的だ。
そして、むき出しの、たわわに実った二つの果実がその存在を主張する。
エリンス・ムイがそこに居た。
なぜか裸だ、その格好でベットの下に居たというのだろうか。
「今が……好機」
言ってる事は物騒だが、普段のしゃがれた声とは違う透き通るような声。
クリスは思わず聞き惚れて、その瞬間にベットに押し倒された。
「……任せて。……騎乗得意……」
クリスは、お前重騎士部隊だろ、と突っ込みたかったが、言葉がでなかった。
エリンスはクリスの腰のベルトに挿していた剣を床に投げ捨てる。
そして、クリスの下半身を足ではさみ、両手を片手で抑えつけた。
重騎士部隊は伊達ではないのか、普段から重い鎧を纏っているためか、その力は強く今のクリスでは反抗すらできなかった。
「食事……いれた薬。……効いてる?」
反抗がないことに、少しだけ驚いたのか、エリンスはきょとんとした表情で呟いた。
――お前もか!
クリスは叫びたかったが叫べなかった。
「ま……いっか」
――よくねえええええええ!
クリスの心の叫びは虚しく、エリンスは手慣れたとクリスの騎士服を脱がしていく。
ボタンを外し、上着をはだけさせた。
エリンスは頬をそめ、クリスの胸に顔を埋める。
「胸板……思うより……厚い」
エリンスはいくらかクリスの胸を堪能すると不思議そうな顔をした。
そして、少しづつクリスの胸の晒しを解いていく。
「………………あれ?」
いつもより言葉に、長い間があった。
やっとエリンスに気づいた二人が駆け寄ってくる。
「あー! やっぱりエリンスも! しかも、また抜け駆けしてる! ほえっ?」
「エリンス、貴方までもが!? しかし、今日は引きませんよ! えっ?」
三人揃って惚ける顔をみて、クリスは思う。
――お前ら、本当は仲いいだろう?
その時、カチりと鍵の開く音がする。
「クリス様もう寝てますの? 翼竜の子供達がお腹が空いたらしくて……ご飯をあげにいきませんと」
当然のように鍵をあけて入ってくるテート。
翼竜騎士団にテートの入れない場所など無いのである。
「「「あっ」」」
「あら?」
テートの視線の先には上半身をむき出しで押し倒されたクリス。
そして、それを囲む裸の女性が三人映っている。
「私も混ぜてください?!」
「「「えっ」」」
クリスの部屋は混乱に包まれた。
***
「発射」
夜も更けた頃、グランの静かな号令によりペレイエ要塞から発射されるのは巨大な石礫。
てこの原理により石礫を飛ばす、投石機と呼ばれる兵器によって飛ばされたそれは弧をえがき、イスターチアの軍船へと激突する。
「着弾確認」
投石機を操る投石主の声にパンジは風の魔法で斥候に確認の指示を出す。
少しして風の魔法が帰ってくる。
「斥候報告、相手方には被害なし、無傷ですぜぇ。どうやらまたあの結界が作動したようでさぁ」
時刻は深夜を回った所である。
おそらく半数以上は眠りについている軍船に奇襲をかけたというのだ。
この時間帯、暗くて岸から発射される投石など確認のしようがない。
だというのに防ぐとは如何なる仕掛けであるのか。
「自動展開か、イスターチアには随分優秀な技術者がいるんだな」
グランはため息をついて、イスターチアの軍船を見詰めた。
岸から見える程に軍船は大きく数も多い。
「……常に結界を張り続けるような代物なら魔力切れを狙えるが、一回ごとに魔法陣を展開させるとは恐れいる」
パンジは冷静に結界の効果を解析する。
「奇襲も防ぐし、竜の吐息も弾かれる結界。翼竜を落とすほどの矢……、きつくね? これ詰んでね?」
「正面からいくと、無理ですなぁ、ただ幸いな事にやっこさん、あそこからピクリともしねぇ」
パンジの言うとおり、翼竜部隊が開幕の戦闘以降、ぴくりとも船は動かない。
時折船上に船員が出ていたり、牽制のように弩砲から矢が放たれる程度である。
「あれは何かを待ってやすなぁ……」
「問題は何を待っているかだな」
グランの言葉にパンジはばつがわるそうに頬をかく。
「正直敵の狙いが読めねぇ。あれだけ強力な軍船を作っておいて攻めてきやしねえ、不気味なほどに動きがねーときたもんだ」
「奴ら何を狙っている? 時間が立つほど不利になるのは自分たちだという事ぐらい理解できるだろう?」
グランの言葉に何か引っかかることがあるのか、パンジが顎をなぞりながら呟いた。
「逆に考えやしょう、時間が立つほど有利になる何かが向こうさんにあるとしたら……?」
パンジの言葉にグランは思考する。
ややあって、答えを出した。
「援軍か?」
その答えにパンジも頷いた。
「普通に考えれば……だが逐次投入する意味がわらねぇ。イスターチア側からエフレディアへの上陸経路は一つだけ、なら最初から大軍を送るのが最も効果的だ。最大戦力で上陸し橋頭堡を作る。逐次投入するなら……何か効果的な策がなければ成り立たないだろうよ……」
「挟撃か?」
グランの言葉にパンジは首を横に振る。
「エフレディアの東海岸線は殆どが断崖絶壁、上陸なんてもってのほかだぁ。上陸するならこのペレイエ要塞付近しかない。南もなぁ、グラジバートルは今王位継承の内紛中だ。イスターチアと秘密裏に繋がっている可能性はあるが、少なくとも今は軍を動かせないだろうよ」
「北から援軍……ってことはないだろノーザスは同盟国のままだ。そろそろ冬になる。北国の冬は厳しい、今は冬に備えてノーザスはてんやわんやだろう、とても戦争なんてしてる場合じゃない」
「となると西か、旦那ぁ、そういやこの前の銀竜とやら、あれって何処から来たって坊主がいってやしたっけ?」
パンジが思い出したのは先日の事。
見たこともない白銀の竜がミューデルトやステラヘレナと戦っていた事だ。
「どこってお前、イスターチアに封印されている狂竜とかいうやつの眷属だって話だろ? 神殿から教えられたのなら間違いはないはずだろ……あっ」
「気づきやした?」
「あれ、イスターチアが送り込んできたのか……?」
「仮にそうだとしたら、ドラゲキア山脈に他の個体が居る可能性がありやす」
パンジの言葉にグランは顔を青くする。
「まさか、それを狙って……」
銀竜をイスターチアが使役していると考える場合。
グランが考えられる事態は三つ。
銀竜が再び、野生の翼竜の群れを収め、翼竜騎士団本部を襲撃そのまま、王都ミナクシェルに攻め入るのだ。
そして、もう一つ。
野生の翼竜の群れを収め集まったエフレディアの防衛軍を軍船と共に挟撃するのだ、そして混乱に乗じて上陸、竜の吐息すら防ぐあの結界を持つ船ならば、翼竜飛び交う戦場でもそれが可能であろう優位に働くであろう。
どちらにせよ、戦場が混乱するのは間違いない。
そして三つ目、その両方が同時に行なわれることだ。
「どうしやす、一時撤退しやすか?」
グランはパンジの言葉に頷こうとしたが、既の所で押し留まった。
「……ドラゲキア山脈にはジャックが調査に出向いている、何かあればあいつが指揮をとる、ジャックを信じろ。伝令はだしておくがそれ以上の事はしない、俺たちはどっちにしろ上陸を防ぐことを考えるべきだ」
「いいんですかい? テート嬢くらいは避難させても誰も文句はいいませんぜ?」
「テートもきっと俺たちを信じてくれて待っていてくれる、危なさそうだから帰ってきたなんて言えるかよ。俺たちあいつらをどうにかする事を考えるべきだ」
「承りやした」
パンジは頷き、伝令を出した。
そして、二人は再び戦略を練ること終始することにした。




