序章
和風ファンタジーの新連載です。
よろしくお願い致します<m(__)m>
明け染めの笹薮の中は、さながら幽世のごとく幻想的な雰囲気に覆われている。
うっすらと漂う朝靄の中に響くのは、辺り一面を覆う落ち笹葉を踏みしだく二つの足音のみ。
さくさくと規則正しい音を刻みながら目指す場所へ辿り着くと、山入端から顔を出した朝日が静謐な空間を徐々に現世へと引き戻す。
藪に住まう小鳥たちが涼やかな声で一斉に囀りはじめ、笹と葉の間から幾筋も差し込む朝の光が、常に付き従う大山犬の背を黄金色に輝かせている。
芙蓉が足を止めると、“琥珀”と名付けた大山犬がその場で伏せの姿勢を執る。
目の前にあるのは一族の守り神、苔生した大きな岩をご神体として安置した磐座が鎮座している。
毎朝この場所に赴いて朝日と共に祈りを捧げるのは一族を担う者の大切な務めだ。
祈りを終えてそっと手をあてると、磐座はけぶるような淡い光を放ち、ほんのりとした温もりが手のひらからじわじわと染み込むように体に流れ込んでくる。温もりが髪の毛一本一本にまで隈なく行き渡ると、芙蓉の体は磐座と同じ淡い光を放ち始めた。
生れ落ちて間もなく“芙蓉”の名を授けられ、一族の長となる事が定められた彼女に課せられたこの儀式は、成人を迎えた今日で最後となる。
本来、儀式を終えた後も祈りは続けられるのだが、それももう間もなく終わりを迎える。
統一国の王、那伽からの勅命で下された婚礼は一月後。政敵の嫡男への輿入れが決められているのだ。
那伽は、十数年前に突如現れ、各郷の諸侯による戦乱状態だった土地を武力で纏め上げ、統一国を作り上げた覇者だ。自ら“僭王”と名乗り、血ではなく力で勝ち取った王である事を誇る。字は那伽。本名は誰も知らない。
儀式の仕上げとして、岩を欠いて持ち帰り、小刀を削り出して懐剣を拵える。それは護身用でもあり、受け継いだ力を顕現させるための依り代でもある。
苔を取り払った岩肌から、漆黒の光を放つひと塊を欠き採り、大切に懐に入た。
郷に戻ろうと岩に背を向けた時、琥珀が芙蓉を守るように前に出た。
黄金色の背の毛を逆立て、牙を露わに一点を睨み付けている。
「……姿を現したか」
歩を止めた芙蓉は、琥珀の首元を撫で、驚く程静かに遠く前方に立ち尽くしている獣を見つめた。
『芙蓉の覚醒を待っていたのか。数日前から、あ奴の気配には気付いていただろう?』
「ああ、思ったよりもずいぶんと深手を負っておるな」
鼻柱の皺を深くして、鋭い牙を見せつけるようにむき出しにした琥珀は、態勢を低くして威嚇の唸り声をあげる。
『山の主を追われた老いぼれ猪が、芙蓉の力を利用して返り咲こうとでもいう魂胆か! 烏滸がましいにも程があるわ!』
「落ち着け、琥珀。父様の結界をすり抜けたからには邪心はない」
芙蓉は宥めるように逆立った琥珀の背を撫で、ゆっくりと猪の前へと近づいた。
黒檀のような蹄から波打つ背中の毛にかけて、墨色から徐々に白銀色へ変わる毛色は、まるで名筆による水墨画のように美しい。“黒真珠”の二つ名に恥じぬ佇まいに思わず目を奪われた。
遠目からも分かる、その額に深く生々しく刻まれた傷が致命傷かと思われたが、そうではなかった。
近くで良く見ると、腿や脇腹や背中に無数の矢の痕があり、正に満身創痍の状態だった。
主に挑む若い獣との戦いに敗れたのではない。人に追われたのだ。
そして芙蓉の目が、そのしなやかな体躯に不釣り合いに膨らんだ腹に止まった。
「……そなた、身籠っているのか」
芙蓉が呟くと同時に猪は膝を折り、首を垂れた。
山の雌の主は命を終える時に子を産み落とすと聞く。恐らく、お産のための場所へ移動する途中に、運悪くこの隠れ郷を探す兵士たちに出くわしたのだろう。彼奴らの手から逃れ、最期の力を振り絞ってここへ辿り着いたのだ。
「ここまでよく堪えた。この芙蓉、そなたの往生際をしかと見届けさせてもらう」
そう言うと、雌の主の背に手を触れた。




