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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

愛した聖女を千年腐らせ続けた男の結末

作者: アポロ
掲載日:2026/04/06

その部屋には、千年前から変わらない花の香りが満ちている。

 だがそれは、生命を祝う香りではない。死を覆い隠すための、厚塗りされた欺瞞の香りだ。


 部屋の中央、白磁のベッドの上に「それ」は横たわっていた。

 かつてエリスと呼ばれた聖女。

 今は、黒ずんだ肉塊と、剥き出しの歯茎、そして濁りきった眼球だけが残された「永遠」の成れの果て。


「エリス、今日も良い天気だよ。君の好きな青い小鳥が、窓辺で歌っていたんだ」

 カイルは微笑みながら、彼女の、もはや指の形を留めていない右手にそっと触れた。


 ズルリ、と湿った音を立てて表皮が剥がれ、カイルの指を汚す。

 彼は眉ひとつ動かさず、清潔な布でそれを拭い、新しい防腐剤を塗り込んだ。


 ――千年前。

 エリスは、まだ温かかった。

 頬に触れれば柔らかく、笑えば春のように明るかった。


「カイル、また薬草を摘んできたの? そんなに無理しなくても……」


「無理じゃないよ。君が笑ってくれるなら、僕はいくらでも」


 あの頃のカイルは、優しさそのものだった。

 彼の手は温かく、声は穏やかで、未来を語るときの瞳はまっすぐだった。

 だが病は、静かに、確実に彼女を蝕んでいった。


 指先の震え。

 血の混じった咳。

 夜ごと弱くなる呼吸。


 エリスは悟っていた。

 自分はもう長くない、と。

「カイル……もし私が死んだら、泣かないでね」


「そんなこと言うな。絶対に助ける。君を失うくらいなら、僕は……」

そのときのカイルの瞳は、恐怖と愛が混ざった色をしていた。


そして、エリスが最後に言った言葉。

「……生きたい……カイル……助けて……」

それが、千年続く地獄の始まりだった。


 流行り病で息絶えようとしていたエリスを前に、カイルは禁忌を犯した。

 古の方舟に残された、魂を肉体に繋ぎ止める術式。

『永遠の命』。


 彼は信じていた。命さえ繋ぎ止めれば、いつか彼女を癒やす方法が見つかると。

 だが、術式が命じたのは「再生」ではなく「固定」だった。


 彼女の魂は、腐りゆく肉体という名の檻に、一秒の狂いもなく縫い付けられた。

 心臓は動かない。肺も膨らまない。

 けれど、エリスの意識は、鋭敏なままそこにあった。


(……ああ……ああああ……っ!)

 エリスの喉は、千年前から悲鳴を上げ続けている。

 だが、声帯はとっくに腐り落ち、湿った粘膜が震えることさえない。


 彼女には、すべてが聞こえている。

 自分に防腐剤を塗るカイルの鼻歌。

 自分の皮膚を食い破ろうとして、術式の光に焼かれて死ぬ虫たちの羽音。

 そして何より、自分自身の肉体が「腐っていく」という絶え間ない激痛。


(カイル……殺して……お願いだから、私を殺して……!)

 千年前、彼女は彼を愛していた。

 五百年目、彼女は彼を呪った。

 そして今。彼女の中にあるのは、純粋で、黒く、淀んだ「憎悪」だけだ。


 自分を救った男。

 自分をこの地獄に繋ぎ止めた、優しき処刑人。

 彼が微笑むたび、エリスの意識は憎しみに燃え、動かない眼球の裏側で血の涙を流す。


「どうしたんだい、エリス。そんなに見つめて……。ああ、嬉しいよ。君も僕を求めてくれているんだね」

 カイルは彼女の頬に唇を寄せた。

 崩れた頬から、死臭と薬品が混ざった液体が溢れる。


 彼はそれを「愛の証」として飲み込み、陶酔した瞳で彼女を見つめる。

 カイルもまた、壊れていた。

 彼女を救うために費やした千年。


 彼は自らも禁忌の薬を飲み、肉体の崩壊を遅らせながら、ただ彼女を「生かす」ためだけに存在し続けている。


「大丈夫だよ、エリス。この世界が滅びても、太陽が冷え切っても、僕が君を一人にはしない。僕たちは、ずっと一緒だ」


(……お前が……お前が死ぬときは、必ず道連れにしてやる……!)

 動かないはずの彼女の指先が、わずかに、微かにピクリと動いた。


 それは愛による奇跡ではない。

 千年かけて練り上げられた、呪いの萌芽。

 カイルは気づかない。

 彼女の中で、憎悪が膨れ上がり、自らを保てなくなっていることに。


 外の世界では、人類がとっくに滅び去り、沈黙が支配している。

 かつて人類が築いた都市が静かに崩れ続けている。

 この密室だけが、腐敗と執着の熱を孕んで、永遠に終わらない幕間劇を演じ続けていた。


「愛しているよ、エリス」

 カイルが火を灯したキャンドルの明かりで、エリスの濁った瞳が一瞬だけ、毒々しく光った気がした。


 千年の時を刻む密室に、金属音が響いた。

 扉は開かず、外の世界の光も風も届かない場所に、アンドロイドが立っていた。


 銀色の外殻に傷ひとつなく、胸部には微光の刻印が浮かぶ。

「任務:人類終焉実行者」——人類の争いを止めるために創られ、人類そのものを削除する役割を持つ究極の存在。


カイルは振り返らない。いつものように微笑み、エリスの腐敗した指に触れたまま。

「君をひとりにしない」と、低く、穏やかに呟く。


 アンドロイドは部屋内の状況を瞬時に把握し、声を発した。

「あなたの行為は、永遠の苦痛を生み続けています。これ以上は許されません」


 カイルは微笑んだまま答える。

「終わらせる……?いや、まだ救いは……まだ、まだ見つかっていないんだ」


 アンドロイドは静かに一歩前に出る。

「人類の争いを止めるために、私は存在する。あなたの執着も、彼女の苦しみも、終焉させるべきものです」


 金属の手がカイルに触れ、彼の体は冷たく凍りつくように動きを止めた。

「……エリス……許せ……俺は……」


 エリスの濁った瞳が、わずかに光を帯びた。

 恐怖でも怒りでもなく、安堵と感謝の色が混ざる。

(……ありがとう……私を……終わらせてくれて……)


 アンドロイドは冷静に、しかし確実に、エリスの魂と肉体を切り離す術式を模倣する。

 千年の呪いが、ゆっくりと、確実に溶けていった。


 カイルの体は粉塵となり、永遠の苦痛から解放される。

 そして、エリスも最後の痛みとともに消滅する。

 残ったのは、安堵の微笑を浮かべた魂の輝きだけだった。


 世界には、もはや人類も、地獄も、愛も、憎しみも残らない。

 アンドロイドは静かに立ち去り、廃墟にただ冷たい足音が響く。


 千年にわたる悲劇は終わった。

 だが、それを悼む者は、もうどこにもいない。

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