愛した聖女を千年腐らせ続けた男の結末
その部屋には、千年前から変わらない花の香りが満ちている。
だがそれは、生命を祝う香りではない。死を覆い隠すための、厚塗りされた欺瞞の香りだ。
部屋の中央、白磁のベッドの上に「それ」は横たわっていた。
かつてエリスと呼ばれた聖女。
今は、黒ずんだ肉塊と、剥き出しの歯茎、そして濁りきった眼球だけが残された「永遠」の成れの果て。
「エリス、今日も良い天気だよ。君の好きな青い小鳥が、窓辺で歌っていたんだ」
カイルは微笑みながら、彼女の、もはや指の形を留めていない右手にそっと触れた。
ズルリ、と湿った音を立てて表皮が剥がれ、カイルの指を汚す。
彼は眉ひとつ動かさず、清潔な布でそれを拭い、新しい防腐剤を塗り込んだ。
――千年前。
エリスは、まだ温かかった。
頬に触れれば柔らかく、笑えば春のように明るかった。
「カイル、また薬草を摘んできたの? そんなに無理しなくても……」
「無理じゃないよ。君が笑ってくれるなら、僕はいくらでも」
あの頃のカイルは、優しさそのものだった。
彼の手は温かく、声は穏やかで、未来を語るときの瞳はまっすぐだった。
だが病は、静かに、確実に彼女を蝕んでいった。
指先の震え。
血の混じった咳。
夜ごと弱くなる呼吸。
エリスは悟っていた。
自分はもう長くない、と。
「カイル……もし私が死んだら、泣かないでね」
「そんなこと言うな。絶対に助ける。君を失うくらいなら、僕は……」
そのときのカイルの瞳は、恐怖と愛が混ざった色をしていた。
そして、エリスが最後に言った言葉。
「……生きたい……カイル……助けて……」
それが、千年続く地獄の始まりだった。
流行り病で息絶えようとしていたエリスを前に、カイルは禁忌を犯した。
古の方舟に残された、魂を肉体に繋ぎ止める術式。
『永遠の命』。
彼は信じていた。命さえ繋ぎ止めれば、いつか彼女を癒やす方法が見つかると。
だが、術式が命じたのは「再生」ではなく「固定」だった。
彼女の魂は、腐りゆく肉体という名の檻に、一秒の狂いもなく縫い付けられた。
心臓は動かない。肺も膨らまない。
けれど、エリスの意識は、鋭敏なままそこにあった。
(……ああ……ああああ……っ!)
エリスの喉は、千年前から悲鳴を上げ続けている。
だが、声帯はとっくに腐り落ち、湿った粘膜が震えることさえない。
彼女には、すべてが聞こえている。
自分に防腐剤を塗るカイルの鼻歌。
自分の皮膚を食い破ろうとして、術式の光に焼かれて死ぬ虫たちの羽音。
そして何より、自分自身の肉体が「腐っていく」という絶え間ない激痛。
(カイル……殺して……お願いだから、私を殺して……!)
千年前、彼女は彼を愛していた。
五百年目、彼女は彼を呪った。
そして今。彼女の中にあるのは、純粋で、黒く、淀んだ「憎悪」だけだ。
自分を救った男。
自分をこの地獄に繋ぎ止めた、優しき処刑人。
彼が微笑むたび、エリスの意識は憎しみに燃え、動かない眼球の裏側で血の涙を流す。
「どうしたんだい、エリス。そんなに見つめて……。ああ、嬉しいよ。君も僕を求めてくれているんだね」
カイルは彼女の頬に唇を寄せた。
崩れた頬から、死臭と薬品が混ざった液体が溢れる。
彼はそれを「愛の証」として飲み込み、陶酔した瞳で彼女を見つめる。
カイルもまた、壊れていた。
彼女を救うために費やした千年。
彼は自らも禁忌の薬を飲み、肉体の崩壊を遅らせながら、ただ彼女を「生かす」ためだけに存在し続けている。
「大丈夫だよ、エリス。この世界が滅びても、太陽が冷え切っても、僕が君を一人にはしない。僕たちは、ずっと一緒だ」
(……お前が……お前が死ぬときは、必ず道連れにしてやる……!)
動かないはずの彼女の指先が、わずかに、微かにピクリと動いた。
それは愛による奇跡ではない。
千年かけて練り上げられた、呪いの萌芽。
カイルは気づかない。
彼女の中で、憎悪が膨れ上がり、自らを保てなくなっていることに。
外の世界では、人類がとっくに滅び去り、沈黙が支配している。
かつて人類が築いた都市が静かに崩れ続けている。
この密室だけが、腐敗と執着の熱を孕んで、永遠に終わらない幕間劇を演じ続けていた。
「愛しているよ、エリス」
カイルが火を灯したキャンドルの明かりで、エリスの濁った瞳が一瞬だけ、毒々しく光った気がした。
千年の時を刻む密室に、金属音が響いた。
扉は開かず、外の世界の光も風も届かない場所に、アンドロイドが立っていた。
銀色の外殻に傷ひとつなく、胸部には微光の刻印が浮かぶ。
「任務:人類終焉実行者」——人類の争いを止めるために創られ、人類そのものを削除する役割を持つ究極の存在。
カイルは振り返らない。いつものように微笑み、エリスの腐敗した指に触れたまま。
「君をひとりにしない」と、低く、穏やかに呟く。
アンドロイドは部屋内の状況を瞬時に把握し、声を発した。
「あなたの行為は、永遠の苦痛を生み続けています。これ以上は許されません」
カイルは微笑んだまま答える。
「終わらせる……?いや、まだ救いは……まだ、まだ見つかっていないんだ」
アンドロイドは静かに一歩前に出る。
「人類の争いを止めるために、私は存在する。あなたの執着も、彼女の苦しみも、終焉させるべきものです」
金属の手がカイルに触れ、彼の体は冷たく凍りつくように動きを止めた。
「……エリス……許せ……俺は……」
エリスの濁った瞳が、わずかに光を帯びた。
恐怖でも怒りでもなく、安堵と感謝の色が混ざる。
(……ありがとう……私を……終わらせてくれて……)
アンドロイドは冷静に、しかし確実に、エリスの魂と肉体を切り離す術式を模倣する。
千年の呪いが、ゆっくりと、確実に溶けていった。
カイルの体は粉塵となり、永遠の苦痛から解放される。
そして、エリスも最後の痛みとともに消滅する。
残ったのは、安堵の微笑を浮かべた魂の輝きだけだった。
世界には、もはや人類も、地獄も、愛も、憎しみも残らない。
アンドロイドは静かに立ち去り、廃墟にただ冷たい足音が響く。
千年にわたる悲劇は終わった。
だが、それを悼む者は、もうどこにもいない。




