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薄桃色の空  作者: 人鳥
わたしのお話
9/21

何かが変わるなら

 薬品の香りとニノリウムの床。

 白い壁と長い廊下。

 それにも慣れてしまった五感。

 住み慣れた空間。

 住宅とは決定的な差異があるここは――病院。

 そしてわたしの家でもある。お父さんは入院費を払いこそすれ、面会には来ない。兄弟もいない。友達なんてのも一人もいない。

 一人。

 独り。

 孤独。

 本当は外出をしてはいけないのだけど、一度くらいはいいよね? 書置きをしておけば心配もあまりかけずに済むだろうから。

 明日、町に出よう。


 昔テレビで見たことがある。ここは公園という場所。ただ、雪が降っているからなのか、子どもの姿が見えない。でもいないほうがいいのかもしれない。

 思い知らされないから。

 自分にはあり得なかった生活がそこにあることを。

 これは嫉妬にも似ている。

 けれど、そういう感情を抜きにすれば、今のこの感情はとても楽しいもの。降り積もっていく雪と、見慣れない風景。新鮮な気持ち。あとは看護士さんに見つからなければいい。

 見つかる前に隠れないと。

 数メートル離れたところにあるベンチ。そこには誰も座っていない。当たり前だよね。この公園には今のところわたししかいないから。

 もし誰か座ったら……。

 その人に声をかけてみようかな。そうしたら、もしかしたら何かが変わるかもしれない。『短い』わたしでも、何かがどうにかなるかもしれない。

 もう少し、もう少しだけ、『誰か』を待ってみることにしよう。

 きっと――――それはとてもいいこと。

 でも、それはわたしのわがままで。その『誰か』のことを何にも考えていない行動でしかない。

 それでも、わたしにはそれしかできない。

 そして。

 その『誰か』は、わたしの前に現れた。

 身長はわたしよりも高そう。顔つきは優しそうだけど、とても退屈そうな目をしてる。両手で缶を持っていて、どうやらコーヒーみたい。

 『誰か』は本当に退屈そうにしていて、誰かを待つためにこの公園にやってきたというわけではなさそう。時間を気にしているようにも見えない。時折吹く冷たい風に、少しだけ嫌そうな顔。

 趣味が悪いと思いながらも、その『誰か』を見ることをやめられない。でも、少しは看護士さんが来ないことを確認もしながら。

 どれだけこうやってしていたのかな。体も冷えてきていて、そろそろ戻らないといけないかもしれない。ふと、公園に設置された時計を見ると、ここに来て二時間以上の時間が過ぎていた。先生たちも心配しているよね、これじゃ。

「あ」

 なんでだろう。前のベンチに座る『誰か』と目があった。

 ――――お話、してみようかな。

 元々はそのつもりだった。けれど、タイミングがつかめなくて話しかけられなかった。なら、その点、今はチャンスだよね。

 少しだけ楽しくなってきて、『誰か』の隣に座った。『誰か』は動じることもなく、ただ座っている。

 あれ? でも何を話すかは全然考えてなかったかも。

「わたし……」

 気付けば勝手に口が開いていて、

「は?」

「わたし……もうすぐ、この町を出なくちゃいけないんだ」

 言わなくてもいいことを言ってしまっていた。でも、無意識のうちに『真実』を少しだけ曲げていて、そこにまた自分の勝手さがうかがえて嫌になる。でも、本当に『本当』のことを言っても、『誰か』は戸惑うだけだよね。

「ふうん? 引っ越しでもするの?」

 引っ越し、か。一般的に今の文面ならそうなるか。

 ……だったら、わたしはこの嘘を吐きとおそう。

 どうしてかわからないけど、この人との縁は今日では終わらないような気がした。

「うん、そんなとこ」

 だから嘘を吐く。いずれバレるとしても。バレるまで。そして、あわよくば、バレる前に――。

 想像以上に滑らかに進んでいく会話。初対面の相手でも案外話せるんだ。

「寒くない?」

「寒いけど、平気」

 平気なわけがない。寒いから帰ろうとしていたんだから。だから、今すぐ帰ったほうがいい。けれど、そうわかっているのに、思っているのに、わたしはこの『誰か』ともっと話したいと思った。

 ――何かが変わる。

 そう思った。

「少し待ってて。すぐ戻るから」

「え?」

 それは――

「いや、そんなに驚かなくても……」

 その言葉は――突然わたしの前からいなくなったお母さんの、最後の言葉。その言葉を最後に、お母さんはわたしの前からいなくなった。

 忘れたい思い出。

 最悪で災厄の記憶。

 アレに比べれば、わたしが『短い』ことも、病気であることも些細なことのように思ってしまう。

 許されるなら。

 もし許されるなら、このまま――――

「お待た……せ」

 ――――え?

「どうしたの?」 

 そこには『誰か』が立っていて。

「あ……あ……」

 安心からか。

 驚きからか。

 思うように言葉が出てこない。伝えたい気持ちが言葉にならない。

「はい、コーヒーとカフェオレ、どっちがいい?」

 『誰か』が差し出してきた缶(どっちが何かは確認していない)を手に取る。

「温かい……」

 それはとても温かくて。

 さっきまで乱れていた気持ちが、徐々に安定していく感覚。

「ありがとう」

「なんてことないよ、これくらい」

 『誰か』は優しく笑った。

 そういえば、人の笑顔を見るのって久しぶり。

 義務からではない、意思からの優しさに触れるのも久しぶり。

 『誰か』は、さっきわたしが取り乱したことについて、何も言わなかった。言外に聞くこともしなかった。

 というよりも、わたしが一方的に話していて、『誰か』はわたしが言うことを時折相槌を打ちながら聞いてくれた。

「……ごめん。わたしもう帰らなくちゃ。ありがとね、話してくれて」

 これ以上は本当にマズい。それにこの人にも迷惑になっちゃう。

 今でも、きっと。

 わたしのわがままに付き合わせちゃってるんだから。

 ベンチから立ち上がり、数歩歩いたところでわたしを呼びとめる声があった。

「ぼくは樋口茜っていうんだ。君の名前を教えてくれないか」

「わたしは岬由良。よろしくね? 茜」

「ああ、よろしく」

 声が震えてしまったのは気付かれてないかな。

 溢れてくる感情に気付かれたくなくて、すぐにその場を後にした。

 少しだけ、体が重かった。


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