何かが変わるなら
薬品の香りとニノリウムの床。
白い壁と長い廊下。
それにも慣れてしまった五感。
住み慣れた空間。
住宅とは決定的な差異があるここは――病院。
そしてわたしの家でもある。お父さんは入院費を払いこそすれ、面会には来ない。兄弟もいない。友達なんてのも一人もいない。
一人。
独り。
孤独。
本当は外出をしてはいけないのだけど、一度くらいはいいよね? 書置きをしておけば心配もあまりかけずに済むだろうから。
明日、町に出よう。
昔テレビで見たことがある。ここは公園という場所。ただ、雪が降っているからなのか、子どもの姿が見えない。でもいないほうがいいのかもしれない。
思い知らされないから。
自分にはあり得なかった生活がそこにあることを。
これは嫉妬にも似ている。
けれど、そういう感情を抜きにすれば、今のこの感情はとても楽しいもの。降り積もっていく雪と、見慣れない風景。新鮮な気持ち。あとは看護士さんに見つからなければいい。
見つかる前に隠れないと。
数メートル離れたところにあるベンチ。そこには誰も座っていない。当たり前だよね。この公園には今のところわたししかいないから。
もし誰か座ったら……。
その人に声をかけてみようかな。そうしたら、もしかしたら何かが変わるかもしれない。『短い』わたしでも、何かがどうにかなるかもしれない。
もう少し、もう少しだけ、『誰か』を待ってみることにしよう。
きっと――――それはとてもいいこと。
でも、それはわたしのわがままで。その『誰か』のことを何にも考えていない行動でしかない。
それでも、わたしにはそれしかできない。
そして。
その『誰か』は、わたしの前に現れた。
身長はわたしよりも高そう。顔つきは優しそうだけど、とても退屈そうな目をしてる。両手で缶を持っていて、どうやらコーヒーみたい。
『誰か』は本当に退屈そうにしていて、誰かを待つためにこの公園にやってきたというわけではなさそう。時間を気にしているようにも見えない。時折吹く冷たい風に、少しだけ嫌そうな顔。
趣味が悪いと思いながらも、その『誰か』を見ることをやめられない。でも、少しは看護士さんが来ないことを確認もしながら。
どれだけこうやってしていたのかな。体も冷えてきていて、そろそろ戻らないといけないかもしれない。ふと、公園に設置された時計を見ると、ここに来て二時間以上の時間が過ぎていた。先生たちも心配しているよね、これじゃ。
「あ」
なんでだろう。前のベンチに座る『誰か』と目があった。
――――お話、してみようかな。
元々はそのつもりだった。けれど、タイミングがつかめなくて話しかけられなかった。なら、その点、今はチャンスだよね。
少しだけ楽しくなってきて、『誰か』の隣に座った。『誰か』は動じることもなく、ただ座っている。
あれ? でも何を話すかは全然考えてなかったかも。
「わたし……」
気付けば勝手に口が開いていて、
「は?」
「わたし……もうすぐ、この町を出なくちゃいけないんだ」
言わなくてもいいことを言ってしまっていた。でも、無意識のうちに『真実』を少しだけ曲げていて、そこにまた自分の勝手さがうかがえて嫌になる。でも、本当に『本当』のことを言っても、『誰か』は戸惑うだけだよね。
「ふうん? 引っ越しでもするの?」
引っ越し、か。一般的に今の文面ならそうなるか。
……だったら、わたしはこの嘘を吐きとおそう。
どうしてかわからないけど、この人との縁は今日では終わらないような気がした。
「うん、そんなとこ」
だから嘘を吐く。いずれバレるとしても。バレるまで。そして、あわよくば、バレる前に――。
想像以上に滑らかに進んでいく会話。初対面の相手でも案外話せるんだ。
「寒くない?」
「寒いけど、平気」
平気なわけがない。寒いから帰ろうとしていたんだから。だから、今すぐ帰ったほうがいい。けれど、そうわかっているのに、思っているのに、わたしはこの『誰か』ともっと話したいと思った。
――何かが変わる。
そう思った。
「少し待ってて。すぐ戻るから」
「え?」
それは――
「いや、そんなに驚かなくても……」
その言葉は――突然わたしの前からいなくなったお母さんの、最後の言葉。その言葉を最後に、お母さんはわたしの前からいなくなった。
忘れたい思い出。
最悪で災厄の記憶。
アレに比べれば、わたしが『短い』ことも、病気であることも些細なことのように思ってしまう。
許されるなら。
もし許されるなら、このまま――――
「お待た……せ」
――――え?
「どうしたの?」
そこには『誰か』が立っていて。
「あ……あ……」
安心からか。
驚きからか。
思うように言葉が出てこない。伝えたい気持ちが言葉にならない。
「はい、コーヒーとカフェオレ、どっちがいい?」
『誰か』が差し出してきた缶(どっちが何かは確認していない)を手に取る。
「温かい……」
それはとても温かくて。
さっきまで乱れていた気持ちが、徐々に安定していく感覚。
「ありがとう」
「なんてことないよ、これくらい」
『誰か』は優しく笑った。
そういえば、人の笑顔を見るのって久しぶり。
義務からではない、意思からの優しさに触れるのも久しぶり。
『誰か』は、さっきわたしが取り乱したことについて、何も言わなかった。言外に聞くこともしなかった。
というよりも、わたしが一方的に話していて、『誰か』はわたしが言うことを時折相槌を打ちながら聞いてくれた。
「……ごめん。わたしもう帰らなくちゃ。ありがとね、話してくれて」
これ以上は本当にマズい。それにこの人にも迷惑になっちゃう。
今でも、きっと。
わたしのわがままに付き合わせちゃってるんだから。
ベンチから立ち上がり、数歩歩いたところでわたしを呼びとめる声があった。
「ぼくは樋口茜っていうんだ。君の名前を教えてくれないか」
「わたしは岬由良。よろしくね? 茜」
「ああ、よろしく」
声が震えてしまったのは気付かれてないかな。
溢れてくる感情に気付かれたくなくて、すぐにその場を後にした。
少しだけ、体が重かった。