今回少し長めです。
タイトルがないのは仕様です。
春の陽気。冬と勘違いする余地もない、過ごしやすい気温と天気だ。
「樋口くん」
教室に入ると同時、水谷さんに声をかけられた。
「おはよう」
「うん。えっとね、今日も由良ちゃんのトコ行くんでしょ?」
「もちろん」
「だったらこれ、持って行ってほしいんだけど」
そう言って、水谷さんに厚い封筒を渡された。考えなくてもわかる。これは原稿だ。
「でも……」
「実はまだ完成してないんだ。だから、完成させるまで休めないの」
渡された封筒は、以前由良に渡した封筒よりも重かった。
「あと少しで完成するからさ、楽しみにしててって伝えてよ」
「わかったよ」
「ありがと」
水谷さんは席に戻って執筆にかかる。
「手、真っ黒だったな……」
学校に来てからずっと書き続けていたのだろう。水谷さんの手は黒鉛で黒く染まっていた。どれだけ集中して書けば。どれだけ長い時間を使えば、あんなに黒くなるのだろう。少なくとも十分や二十分では、ああはならない。
「……まさか」
もしかしたら、校舎のカギが開いたのとほぼ変わらない時間から、ここで書いているのではないだろうか。机の上と、周辺に散乱する消しカスが、水谷さんの努力を物語っている。
「違う……」
まだ人気の少ないこの教室では、ちょっとしたつぶやきが教室中に聞こえる。水谷さんのつぶやきが聞こえたかと思うと、直後にグシャグシャと、紙を丸める音がした。
丸めた紙を机の中に突っ込む。机の中はもはや丸められた紙でいっぱいになっていた。 さすがに見ていられなくなって、水谷さんの席に向かう。
「水谷さん」
「ん?」
顔は当然のように上げない。もしかしたら、話しかけているのがぼくだということも、認識はしていないかもしれない。
「机の中の紙、捨ててこようか?」
「え? そうしてくれるならありがたいけど……」
さすがに申し訳ない、というような雰囲気は伝わってきたけれど、ぼくは隙間から手を伸ばして、丸められた原稿用紙を取り出した。つかみきれなかった分が、机の中に残り、一部が床に落ちた。
机とゴミ箱を三往復した。
それから今度はほうきで机の周りを掃き、消しカスを集めて捨てた。掃除の時間に、教室中から集まるゴミの量と、良い勝負だった。
「なんでそこまで樋口くんがしてるの?」
ほうきとちりとりを片づけたところに、クラスの女子――たしか、長田さんだ――が声をかけてきた。普段はあまり話すことがない子だけど、たしか、水谷さんと仲の良かったはずの子だ。
「そこまでって?」
「散らかしたのは悟なのに、どうして樋口くんが始末してるの?」
長田さんの声には、どこかトゲがあった。
「水谷さんが必死になっている理由を、ぼくは知ってるからね」
「友達と小説、どっちが大切なんだろうね」
水谷さんを横目に見ながら、長田さんは言った。なんて短絡的な思考なのだろう。これだから、あの時の授業でもしょうもないことしか発表できなかったのだ。
「長田さんにだけは教えておくよ」
こんな短絡的思考のせいで、水谷さんが悪者になるのは見過ごせない。
「友達と小説、って言ったね。水谷さんは友達のために小説を書いてるんだ。友達との約束を守るために。それは、前の一件で知ってるはずだろ?」
先生と水谷さんの言い合いは記憶に新しい。忘れたくても、あんなことはそうそう忘れられない。
「あたし……あたしたちにしたらさ、あんなに必死になる理由がわかんないよ。別に今週中じゃなくちゃいけないとか、そういうことじゃないんでしょ?」
……まあ、ふつうはそう思うよな。
「日にちは指定されてないよ」
「じゃあ、どうしてあんなに必死なの?」
「タイムリミットがいつくるかわからないから。来週かもしれないし、明日かもしれないし、今日かもしれない」
「え?」
「いくつかの可能性が出てきたでしょ? その中のどれかだよ」
「え? ちょ、意味分かんないし」
「これ以上話す気はないよ」
長田さんには悪いけれど、ぼくもあまり話したい話題ではない。話のタネを提供したいわけじゃないんだ。
席にもどって読書を始める。周りから、すこしだけ変な視線を感じた。
疑問。
好奇。
嫌悪。
その視線は同じ程度に、水谷さんにも注がれていることだろう。
一つ一つが、凶器だ。
狂気だ。
何気ない視線が、ぼくらを蝕む。
「はーい、席についてー」
先生がやってきて、ホームルームが開始されても、視線は無くならなかった。いや、むしろ露骨になっているかもしれない。静かな教室の中に、ささやく声がちらほらと。口元に手を添えて、ぼくや水谷さんを見ながら。
ざわざわと。
妙に落ち着かない雰囲気。
先生はそれに気付いていないのか、それとも無視を決め込んでいるのか、普段通りに授業を進めている。
普段通り。
ぼくらの『普段』はどこへ行ったのだろう。自分探しの旅にでも出てしまったのだろうか。友達のためにしていることで、周りとの関係がぎこちなくなっていく。努力も気持ちも、どちらも空回っていないのに。着実に行動出来ているのに。
ずれる。
じんわりと、軋んでいく。
先生の板書をする手が止まる。今度は説明に入った。理解はできる。けれど、頭には入ってこない。さっき聞いたはずのことがなかなか思い出せない。思い出そうとしていると、今聞いていることがわからない。
わからない。
今は授業を受け続けられるような精神状態じゃないようだ。
「はあ……」
少し、眠るとしよう。
気がつけば次の授業が始まっていて、起きた時は混乱した。先生もあきれ顔でぼくを見ていた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
先生はからかうようにそう言っただけで、何も続けなかった。授業開始時にぼくを起こさなかったくらいだ。ぼくはもう、見限られているのかもしれない。そう考えると、案外、今の自分の立場は思ったよりも悪いのかもしれない。
『普通』ではなくなってしまっているのではないか。そんな気がする。
気がするだけ。
そのはずだ。ぼくは元々、『こう』だった。変わってしまったといえば、それは水谷さんのことで、ぼくじゃない。水谷さんの急激な変貌が、ぼくが変化したと勘違いする原因になっているのだろう。だから、ぼくは変わっていない。今まで通り。
そう。
何も、変わってない。
変わっていないと思いつつも、由良の病室にやってくると、何かが変わったのだろうなという気持ちになる。
「やあ、由良」
「やほ」
うれしそうに笑う。ぼくもつられて笑顔になった。由良の顔色が良くなかったように思ったけれど、その笑顔を見ると気のせいのような気になった。
「あ、そうそう。これ、水谷さんから預かってきたよ」
カバンから、今朝預かった原稿を取り出す。
「あーっ! やった! 楽しみだなぁ」
「読まないの?」
「だって、茜来てるもん」
……前は普通に読もうとしてたのに。人は変わるものだ。
「茜、もしもの話なんだけどさ」
原稿を抱きよせる。
「もしも、わたしが茜とお花見をする前に死んじゃったら、どうする?」
「は? そ、そんなことあるわけ……」
あるわけがない。
「どうしてそんな質問をするのかな」
「ごめん。ちょっと、聞いてみたかったんだ」
「頼むから、そんな質問はしないでくれ」
その『もしも』がリアルな映像とともに、ぼくの頭の中で暴れるから。とても怖い気持ちになるから。
「茜……」
「うん」
「そばに、居てね」
「もちろん」
何度も言ってきた言葉なのに、なぜか照れくさくて、ぼくはそっぽを向いた。まさか気持ちを伝えた後でこんなことになるなんて、思いもしなかった。
もう一度由良の方を見てみると、眠たかったのか、由良は目を閉じていた。
ぼくは立ち上がって、カーテンを閉じた。日差しで目が覚めてしまってはかわいそうだ。由良を見ると、幸せそうな寝顔を浮かべていた。胸元にはさっき渡した原稿が抱かれている。
「楽しみだったろうな……」
前回から結構な時間が経っていたし、由良自身、水谷さんの作品が気に入っているらしかった。
由良の手から原稿を抜きとる。原稿を押さえていた由良の手が、ベッドのわきに落ちた。手をとって、ベッドに乗せてやる。
「え……? 由良?」
なんだか嫌な予感がした。
「由良?」
体をゆする。手がベッドのわきに落ちた。
「由良っ!」
身じろぎも、表情も、息も。
由良が生きているという鼓動が感じられない。
「由良っ! 由良っ!」
何度揺さぶっても、何度声をかけても、由良は目を開けない。
「どうしたら……」
ベッドの頭元にあるボタン。これはナースコールだったはずだ。たとえ違ったとしても、病院の方から何かしらのアクションがあるだろう。
「由良……っ!」
胸に手を当ててみても、心臓の動きを感じられない。
「お花見に行くんだろ? 由良ぁ!」
返事はない。そこにあるのは、ただただ幸せそうな、由良の顔だけ。
「どうなされましたか?」
看護士さんが病室にやってきた。
「由良が……由良が!」
言葉が出てこない。説明しなくちゃいけないとわかっているのに、説明するための言葉が出てこない。
「す、すぐに先生を呼んできます!」
もう一人来ていた人が廊下を駆けていく。
本当に自分のものなのか疑わしくなるのどの涙が流れた。この慟哭にも似た泣き声も、きっとぼくのものなのだろう。
何度も何度も名前を呼ぶ。先生の邪魔にならないように、一歩後ろに下がっていなければいけないのがもどかしかった。何もできない自分が嫌だ。
嫌だ。
だけど、何もできない。
由良は病室から運び出された。きっと、救命処置を行うのだろう。ぼくもそれについて走った。
ランプが点灯した扉の前で、ぼくはただ何もできずに立ち尽くしていた。
ここからのことは、ぼくは語らない。
きっと、語る必要もないことだろう。
正直言うと、語りたくないんだ。
次回、最終話『君とぼくの約束―薄桃色の空』
お楽しみに。