本当の気持ち
お久しぶりです。
実家にいると、どうしても更新速度が落ちてしまいます。
家に帰ると、不思議そうな顔をした母さんに迎えられた。この場にぼくがいること、そのこと自体が不思議といった様子だ。一応、ここは自宅なのだけど。
「あれ? 今日は由良ちゃんのところには行かなかったの?」
「……うん」
「何かあった?」
「何もなかったら、ここにぼくはいないよ」
ぼくの物言いに、母さんは少なからずムッとしたようだった。
「ぼくにも、時間がほしい時はあるよ」
逃げるための時間。
母さんは何かを言おうとして、結局何も言わなかった。優しさなのか、呆れなのか。ぼくにはわからなかったけれど、それでも、ぼくにとっては救いだった。何かを聞かれても、きっと、ぼくは答えられない。
「はあ……」
自室に入って、ベッドに倒れこむ。今日の授業のことなんて、ほとんど覚えていない。終始、昨日のことばかり考えていた。
由良に何かを言われたわけじゃない。
嫌われたわけでも。
拒絶されたわけでも。
何をされたわけでもない。
ただ、自分のしたことが許せなかった。
「…………馬鹿野郎」
そして、そのことをいつまでも考え続けて、結局由良に会いに行かなかった自分の女々しさも。
いつもなら、今頃は学校であったことを話している頃か。由良はどうしているだろう。『また明日』と約束をしたのに、会いに来なかったぼくに怒っているのだろうか。それとも、悲しんでいるのか。もしかしたら、何とも思っていないのかもしれない。
ぼくは心が弱い。
ちょっとしたことで心が折れる。
明日は会いに行こう。どんなに怖くても。
翌日、ぼくはまず、水谷さんの席に向かった。ぼくから水谷さんの席にまで行くのは初めてのことだ。
「おはよう」
「おはよう……って、樋口くんじゃん」
「なんで驚いてるの?」
水谷さんは原稿用紙から顔を上げ、信じられないものを見るような目でぼくを見た。ちなみに、今まで小説はパソコンで書いていたらしいけれど、今は早く形にするために手書きに切り替えたらしい。
「なんでって……樋口くんから来るなんて珍しいじゃん」
「まあ、そうだね」
水谷さんの周りに人はいない。学校で書き始めた最初は、面白がって周りに人が集まってきていた。だけど、ある日、水谷さんは集まってきた人たちに「邪魔」と、怒気を孕んだ声で言ったのだった。それ以来、小説を書いている最中の水谷さんに近づく人はいない。
いや、少なくとも校内にいる間は近づく人はいない。いつもいつも、空いた時間に書いているからだ。
「いや、特に用事があったわけじゃないんだけどね。最近あまり話してないからさ」
「そうだね。でも……あたしはこれ、書かなくちゃいけないから」
そう言って、水谷さんは原稿に視線を落とした。机のわきに積まれた原稿と、書きかけの原稿。
「わかってる。がんばって」
「もちろん」
ぼくに視線を戻さないまま、水谷さんはうなずいた。
席に戻ると、クラスメイトが声をかけてきた。
「なあ、樋口。水谷はなんであんなに必死になってるんだ?」
小さな声。それはきっと、水谷さんに聞こえないようにという配慮なのだろうが、書くことに集中している彼女には、いらない配慮だろう。ぼくが声をかける前よりも、明らかに集中力が高まっている。
「言えない。でも、水谷さんは『あれ』を完成させることが、今一番大切なことなんだ」
約束を守るためだから。
「言えないって……なんでだよ」
「彼女の問題だからだよ。でもまあ、そうだね。約束を守るため、だよ。これ以上は言わない」
「……わかったよ。それだけで十分」
「きっと、書きあげたら前みたいな水谷さんに戻るよ」
「そうだといいけどな。正直、今の水谷にゃあ、声もかけらんねえよ」
「そうだね」
事実、後ろ姿でも威圧感がある。授業を始めようとする先生ですら、一瞬、声をかけるのをためらうほどだ。
「なあ」
「うん?」
「今度さ、あいつに、がんばれって伝えてくれないか」
俺じゃあ声、かけらんねえ。
「わかったよ」
チャイムが鳴った。見計らったように先生が入ってきて、荷物を教卓に置く。水谷さんは書くのをやめない。
先生は水谷さんの方を見て、「またか」と言いたげな顔をした。
「水谷さん。授業ですよ」
「すいません。この一行だけ書かせてください」
「しまいなさい」
「あと少しだけです」
水谷さんの顔は原稿を見たまま。顔を上げようとすらしない。先生が水谷さんの席に近づく。教室がわずかにざわめいた。
「触らないでっ!」
先生が机のわきに積まれた原稿用紙に触れようとした瞬間、水谷さんが声をあげた。先生の体がびくり、と震え、手が止まった。ざわめきも静まった。
「す、すいません」
水谷さんはか細い声で謝って、原稿を机にしまった。そこで気づく。水谷さんの机の中は、原稿用紙でいっぱいだった。ぐしゃぐしゃに丸められたものと、丁寧に折られたものが、机の中を二分している。
「水谷さん」
「……はい」
「あとで先生のところまで来なさい」
「そんなっ! 時間がないんです! はやくこれを……この小説を書きあげなくちゃいけないんです!」
もはやそれは、叫びに近かった。
「どんな理由かは知りませんが、授業をないがしろにされては困ります。そういうことは休み時間にしなさい。だいたい、そんなもの書いてどうしようというんですか?」
水谷さんの表情が変わる。見る間に頬は紅潮し、厳しい目に変わった。
「『そんなもの』ですか……。先生に……先生に『これ』の大切さなんてわかりません! 大切な約束があるんです!」
「なっ……」
「あのー」
このままでは埒が明かない。これ以上続けても、水谷さんの立場がどんどん悪くなるようにしか思えなかった。
「なんですか、樋口くん」
「その話はとりあえずあとにして、授業にしませんか? 水谷さんも、もう原稿はしまっていますし」
「そういう問題じゃないでしょう」
先生はご立腹のようだ。
「そりゃまあ、水谷さんが全く悪くないとは言いませんよ? でも、多少抵抗したとはいえ、水谷さんは原稿をしまいました。書くことをやめました。今先生がしていることは、水谷さんの書いているものを馬鹿にしているだけです」
「だから、そういう話をしているのではありません」
「ぼくはそういう話をしています。いいじゃないですか。とりあず授業をしてください」
先生は本当に何か言いたそうに口を動かしていたけれど、他の生徒の目もあるからか、教卓に戻った。
先生は何事もなかったかのように授業を開始し、いつも通りのけだるい時間となった。授業を始めるように言ったぼくはというと、対して授業を聞くこともせず、外を眺めていた。
「水谷さん、お弁当を食べ終えたら先生のところに来なさい。あと、樋口くんも」
去り際、先生はそう言って、教室を出た。
水谷さんは授業終了と当時に原稿を取り出していた。お弁当を食べる気配は全くない。そういえば、最近、水谷さんがお弁当を食べている姿を見ていない気がする。いつ食べているのだろうか。
「あれ? 樋口、お前食べねえの?」
「食べたら職員室に行かなくちゃいけないからね」
「すっげえ屁理屈だよな」
そいつは笑いながら言った。
「いいんだよ。それに、水谷さんも行く気はないみたいだしね」
「そうみたいだな」
クラスメイトは苦笑し、ぼくは、ただ水谷さんの後姿を眺めていた。
病室の前で立ち止まって、もう十五分が過ぎていた。昨日会いに来なかったという負い目が、ぼくにノックする勇気を奪っていた。いや、ぼくの情けなさがそうしていた。
「いや……いくらなんでも悩みすぎだろ」
目的も何も決まっているのに。時間の無駄にも程がある。
「ふぅ……」
深呼吸をして、ノックを二回。
「はい」
由良の声。たった一日聞かなかっただけなのに、ひどく久しぶりのような気がする。
「ぼくだけど……入っていいかな?」
「え? 茜?」
帰ってきたのは、意外そうな声だった。
「うん」
「早く入ってきてよっ!」
「え? あ、うん」
中に入ると、満面の笑みを浮かべた由良がいた。
「昨日来てくれなかったからさ、もう来てくれないのかと思ったんだよ? 帰り際、なんだか様子も変だったしさ」
「昨日はごめん」
「いいよいいよ、何か用事があったんでしょ? 毎日会いに来てくれるんだもん。少したまっててもおかしくないよね」
見事に誤解しているようだけど、怒ってはいないようだ。
「そのことなんだけど……昨日はさ、部屋で色々考えてたんだ」
「何を考えてたの?」
ぼくが学校のことを話している時のような、興味津々な笑み。子どものような笑顔だ。
「ぼくと由良のこと」
「茜とわたし?」
「うん。昨日一日会わなくてさ、わかったんだよ。いや……決心がついたっていうのかな」
気付いていたけれど、ずっと言えなかったこと。決められなかったこと。
「何の……話?」
「ぼくが由良のことを、好きになったって話」
冗談なんかじゃない。こんなタチの悪い冗談なんか言わない。それに、自覚はあった。言葉にできないまま、時間がたっていた。言葉にすることが、由良を傷つけると、そう思っていた。
「茜って、本当に残酷なことを平気で言うよね。しかも唐突に」
「前はそうだったけど、今はそうじゃないよ。それに唐突ってわけでもない」
「こんなこと、言う必要ないじゃない。それに、前から思ってても、わたしにとっては唐突なの」
「言わないと後悔するって――思ったんだ」
それがわがままだと言われれば、返す言葉はないのだけど。
「わたしのことは考えてくれてないの?」
そう言われても仕方ないことだと思う。自分の気持ちを相手に伝えること。それは時に、何よりも凶悪な凶器となりえる。
「そんなことないよ。考えていたら、こんな時間になっちゃってたんだ」
この気持ちはきっと、秘めたままのほうが良かったのかもしれない。けれど、ぼくはそうすることができなかった。秘めた気持ちを抱え続けることができなかった。
「なんだか物語みたいだね」
ぽつり、と。
由良がこぼした。
「え?」
「こういうの、なんだか物語みたい。ふつういないよ? わたしみたいなのに告白する人なんて」
『わたしみたいなの』と、そう言った由良の表情は、きっと忘れられない。
「もうすぐ死んじゃうような人に、告白する人なんていないよ」
「そうかもしれないね」
かもしれない。
「でも、由良、前に言ったよね? ぼくは自分にとって都合の悪いことは認めないんだ。ぼくは由良が好きだ。由良がもうすぐ死ぬなんて認めない。認められない。事実が、運命が、この先の未来が――由良の死を決定しているのだとしても、ぼくだけはそれを認めない」
現実を見ていないだけ? 違う。そんなんじゃない。こう言わなければ、自分がつぶされてしまいそうなだけだ。
「……茜」
「由良。もし君が生きていてくれるなら、ぼくはずっとそばにいる。君がそれを許してくれるなら、いつまででもそばにいるよ」
改めて言葉にすると、すごく恥ずかしかった。面と向かって言ってるなんて、自分でも赤面ものだ。
少し前のぼくなら――絶対に言わなかっただろう。
「許してくれるなら?」
すこしの沈黙のあと、小さな、消えそうなことで由良が口を開いた。
「今更そんなこと言うの? 出会ったときから、わたしは茜にそれを期待してたのに」
――――わたし……もうすぐ、この町を出なくちゃいけないんだ。
「寂しかっただけなのかもしれない。『何か』を変えたいっていうのはもちろんあるんだけど、それは後付けの理由で、ただ誰かと一緒にいたかっただけなのかもしれない」
一筋。
由良の頬を、透明なものが伝う。
「最期まで一緒にいてね、茜」
「もちろん。約束するよ」
自然と、お互いが近くなる。
同室の子が退院していて良かった。もしまだ入院していたなら、こんなこと、堂々とは出来なかっただろうから。
「なんだか照れるね……」
朱に染まった顔をぼくからそらし、少し上ずった声で言った。
「そ、そうだね」
それはぼくも同じことで。これからも二人で『はじめて』を一つずつ経験していけたらと、そう思った。それはきっと良いことで、とても幸せなことだと思う。
恋のようで。
芳醇な。
二人の時間。
そんなものになるのだろう。
ぼくの前にいる女の子は、もう一人じゃない。ぼくがいるし、水谷さんもいる。一人じゃない。だから、きっと大丈夫。一人の時のように寂しくないし、一人の時のように抱え込まなくてもいい。溜めこんだ思いが濁っていくこともないし、吐き出された思いが受け止められないということもない。
由良の中で『何か』というのは変わったのだろうか。まだ変わっていないのかもしれない。それが何であったとしても、必ず変わる日は来るだろう。そうでなければならない。ぼくはきっと、そのために由良と出会った。由良はそのために、ぼくと出会った。いつの日になるかはわからないけれど。
「『生きた証』さ、わたしにも残せそうだよ」
由良の笑顔は生気に満ちていて、夕方の赤い光に染められて、とてもきれいに見えた。笑顔がこんなにいいものだとは、ぼくは全く知らなかった。
「うん」
「茜も、残せると思うよ」
「そうだね」
素直にうなずくことができた。前みたいに、拗ねたことは言わない。言えない。今まで信じられなかったことを信じること、それには勇気がいるけれど、由良がいるならそれでも大丈夫だ。
怖くない。
「ぼくも、そう思うよ」
だから。
少しだけ。
一瞬だけでも。
長く共に――――