ある日のこと
「ねえ、由良」
「うん?」
「水谷さんの小説、どうだった?」
「悟の言っていた学校と、物語の学校って、全然違うんだって、思ったよ」
水谷さんの小説は、学園コメディ。現実の学校のように書いてしまったら、そもそも成り立たない。そこには『楽しさ』が必要になる。
「だからね、あたしが通ってても、あまり今と気分は変わらなかったのかな」
「どういう意味?」
「毎日が退屈で退屈でしかたがないって意味」
見慣れた天井。
切り抜きの風景。
繰り返される日常。
「そうかも……しれないね」
「あたしね、こうやって毎日窓から外を見てるでしょ?」
「うん」
「わかるんだよ。もう冬も終わる。カレンダーなんてないけど、テレビだって本当に、ほとんど見ないけど、わかるんだ。もう、春が近いって」
春。
桜の花を、見る約束をした。
「じゃあ、お花見の計画を立てなくちゃね。少し気が早いような気もするけどさ」
準備は早いほどいい。微修正ができるから。
「約束、したからね」
由良は答えない。
答えようとせず、窓の外を見る。
「もう、しばらく雪も降ってないよ。ねえ、もう冬は終わったの? まだだよね、まだ冬だよね?」
暦の上ではもう、とっくに春は来ている。梅だって、咲き始めているくらいだ。今まで気温が低くて、あまり実感はなかったし、冬だと誤解するほどだった。でも、本当はとっくに春だ。これは教えていいものだろうか。ぼくにはわからない。
今まで、暦のことを考えることをしなかった。体感だけで、まだ冬だと、そう思うようにしていた。
「ねえ、本当のこと、教えてよ」
「春だよ」
「え?」
「もうとっくに春は来てる。暦の上でね。それに……梅の花も咲いているんだよ」
この病室からは、ピンク色の花を見ることはできなかった。でも、緑色の葉が、春を告げている。それに鳥の声。
由良は、現実から逃げていた。ぼくはそれを責めようだなんて、そんなことは考えもしないけれど。
「嘘だ」
「本当だよ」
「あたし、何にもできてないよ? 何にも変えられてないんだよ?」
『何か』を変えたい。そう言っていた。あれからすでに一カ月。もう、医者の余命宣告では、半月も残り時間はない。
「どうして? ねえ、だってだって……お父さんも、今年に入って一回しか会ってないんだよ?」
その一回はきっと、元旦だろう。聞いたわけではないけど、その日くらいしか可能性として考えられない。入院費を払ってはくれるけれど、面会には来てくれない父親。どうして会いに来ないのか、ぼくには理解ができない。
「悟からもらった小説だって……まだ読みきれてないし……」
まだ、完結もしていない。そのことに、水谷さんは責任を感じていて、とうとう学校ででも書き始めていた。
「由良……まだ望みを無くすのには早いよ。だって、君はまだ元気じゃないか。まだまだ、元気があるじゃないか。だから、余命宣告なんて……」
気にするな。そう言いかけてやめる。気にしないなんて、そんなことできないに決まっている。無責任な言葉を投げかけて、そのあとは何もしない。そんなことはできない。
「茜」
ぼく名を呼ぶ。
寂しそうで、弱弱しい声。
「まだ、わたし、茜と一緒にいたいよ」
そんなこと――そんなこと、ぼくも同じだ。
「茜、お花見……したいね」
「ああ」
『さいご』が近づいてくるにつれて、だんだんと怖くなってくる。本当にお花見ができるのか、と、思ってしまう。
「由良……どこか遊びに行こうか」
「え?」
「行かない?」
言ったあとで後悔する。誘ってどうするというのだ。それに、連れ出すなんて、やってはいけないことだ。
そばにいること。
それがぼくがすることだと、そう決めたはずだ。
「駄目だよ」
由良が首を振る。
「駄目だよ。わたしは……ちゃんとここで治療しないといけない」
「治療って言ったって…………」
どうしてぼくはこんなに必死になっているんだ。駄目だって、自分でもわかっているのに。
「ねえ、茜。どうしてわたしが家に帰らないかわかる?」
「いや……わからない」
「帰ってもどうしようもないからだよ。見まいに来ない父親と二人暮らしなんて、できないでしょ」
できない、のだろうか。
できたとしても、それは成立しない共同生活なのか。
「そうだね」
「だからね、わたしは『ここ』に住んでるようなものなの」
住んでいる、か。
「じゃあ、少し外出しても、怒られないよね」
「茜、どうしたの? 前まではわたしを意地でも出そうとしなかったのに」
「…………」
「茜」
「うん」
「わたしは、茜とお花見するまで――桜を一緒に見るまでは、遊びに行かないよ」
「由良……」
余命を克服するまで。
「茜はわたしに気を遣ってるんでしょ? もうすぐ言い渡された期限だからって」
「そんなこと……」
図星を突かれて言葉が出ない。
「あるんでしょ? だから、そうやってわたしを連れ出そうとする」
そんなことはない、と、そう言おうにも口は動かなかった。
自分がその通りだと認めてしまっているから。ぼくはうつむくことしかできなかった。それがどれだけ由良を傷つける行為だとわかっていても。
「あ、別に怒ってるわけじゃないんだよ。でもね、もしそうなら、そんな気遣いなんていらないよ」
「……ごめん」
もっと違うことが言いたかった。でも、口から洩れていたのはこんな言葉で。自分の語彙の少なさが嫌になる。由良はぼくに謝ってほしいわけじゃないってことも、わかっているのに。
「あ……もうこんな時間。茜、そろそろ帰らないと」
ぼくがつけていた腕時計を見て、由良がそんなことを言った。見てみると、たしかにいつも帰宅している時間だった。
「そうだね……帰らなくちゃ」
「うん。また明日ね」
「また明日」
今まで通ってきて、初めて由良が帰りの時間を口にした日だった。今まではぼくが帰ると言えば、由良は少しだけ寂しそうな表情をしていた。
「また、明日」
もう一度言って、ぼくは病室を出た。
翌日。
ぼくは初めて、由良の病室を訪ねなかった。