水谷悟
執筆速度が…お……追いつか……な……い……
「じゃあ、ぼくらはそろそろ帰るよ」
日が沈んで久しくなり、そろそろ帰らないといけない時間になっていた。
「うん。また来てね」
後半は水谷さんに向けた言葉だ。
「うん。その時に小説、持ってくるよ」
それに対し、水谷さんは笑顔でうなずいた。
「うん」
うれしそうにうなずき、
「ばいばい」
少し、寂しそうに手を振った。
「またね」
病室から出ると、さっきまで笑顔だった水谷さんは途端に何も言わなくなった。何も話さなくなった。ぼくとしてもなんだか話しにくくて、何も話しかけずに歩いた。
病院の敷地を出た頃、かすかに水谷さんの声が聞こえた。
「水谷さん?」
「うぐっ……ひっく……」
様子をうかがうと、水谷さんはぼろぼろと涙を流していた。隣を歩いていて気付かなかったのは、今まで泣くのを我慢していたのか。それともぼくが鈍感すぎるのか。
とめどなく溢れる涙を拭いながら、水谷さんは歩いている。
「……どうして泣いてるの?」
「だって……あんなにいい子なんだよ? あんなに……ひっく…………あんなに純粋な子なんだよ?」
どうして病気なんかで死ななくちゃいけないの? 嗚咽に声を奪われながら、水谷さんは言った。
「ぼくも聞きたいよ……そんなこと」
由良もきっとそうだろう。日常の会話の端々に、由良の不安を垣間見ることができる。その度にぼくは、由良の力になりたいと思う。
だけど、水谷さんはどうだろう。今でもまだ、ぼくたちと関わり続けたいと思っているのだろうか。最後に笑えるかどうかもわからないのに。
笑えない、と考える方が自然なのに。
「水谷さん」
だからぼくは確かめなくていけない。
「水谷さんは由良に会うつもりはある?」
「どういう……意味?」
「最後まで……最期まで付き合える?」
最期まで。
遠くない未来の、別れの時まで。
「当たり前だよ」
泣きながら、だけど力強く、水谷さんは即答した。
「由良ちゃんと約束……したし、あたし……あたし……」
その後は嗚咽に飲み込まれ、言葉にはならなかった。だけど、何が言いたいのか、なんとなくわかった。
なんとなく。
「ごめん……ひどい質問だった」
どうしてこんな質問をしたのか、さっきの自分を問い詰めてやりたい。人の為に泣ける人が、こんな半端なところで逃げ出すわけがない。水谷さんはそういう人だ。
「うあぁ……」
水谷さんの感情の乱れは、治まる兆しが見えない。けど、泣きじゃくる子をそのまま返すのも、なんだか後味が悪い。
「どうしようかな……」
どこか座れるところ……ああ、近くに公園があるか。
さりげなく進路を変え、水谷さんを誘導する。途中、何人かの人とすれ違い、その度に何とも言えない視線を浴びせられた。
公園のベンチに座ってもらい、ぼくもその隣に座った。
「ここで、由良と初めて会ったんだ」
始まりの場所。
全てがここから始まった。
「ちょうどこのベンチにぼくが座っててさ、向かいの……あのベンチに由良が座ってた」
どうしてぼくはこんなことを話しているのだろう。よく考えもしないうちに、ぼくは由良との出会いを話していた。
このことは、図書室では話していないことだ。あの時は、本当に簡単なことしか話さなかった。
水谷さんの嗚咽が少しだけ小さくなる。
「ずっとこのベンチに座ってたんだ。誰かを待っているようにさ」
実際は誰も待っていなくて、漠然とした「何か」を待っていた。その『何か』が何なのかも、人なのか物なのかもわからないままに、彼女はベンチに座っていた。
「由良はぼくの隣に座って、町を出なくちゃいけないって言ったんだ。突然だったから、びっくりしたのを覚えてる」
その時は、ただ引っ越すだけだと思っていた。由良が倒れて病院に運ばれて、そこで自分がとても残酷なことを言っていたことを悟った。
「寒かったから自販機にコーヒーを買いに行って、帰ってきたら由良は震えてた」
寒さからじゃなくて、何かを恐れるように。
恐ろしい何かと対峙したかのように。
恐れ、
おののいていた。
何が彼女をそうしたのか、ぼくにはわからない。けれど、きっと何かあるのだろう。だけど、ぼくはそれを知りたくない。同じことを繰り返すかもしれないけれど。このことだけは、自分からは絶対に触れたくない。
「それから少し話をして、ぼくらは別れた。お互いの名前を知ったのは、別れる時になってからだったよ」
あまりに自然な出会いで、まるで、旧知の仲のような感覚だった。初対面じゃないような、そんな感覚だった。できれば、これが何かの伏線でないことを願う。
勘違いだろう。
水谷さんはもう泣きやんでいて、涙のあとが残る顔でぼくを見ていた。
「ぼくらはそうやって――ここで出会った」
だからどうしたということもない。ここに水谷さんと来たのも、言ってしまえば偶然だ。だけど、水谷さんには知ってもらっておいた方がいいのかもしれない。話し出した時は、どうしてこんなことを言っているのかわからなかったけれど。
ぼくは水谷さんに、このことを話したかったのかもしれない。
「……樋口くん」
「次の日はたまたま帰り道で会って、喫茶店に入った」
今思えば、由良はぼくを待っていたのかもしれない。病院の窓から、ぼくが通るのを見つけたとか、そういうことがあったのかもしれない。
「ぼくは由良の夢……願いを聞いた」
ぼくの願いを語った。
「次に会った日……その日も雪が降ってた」
寒い日だった。
「その日――その日に由良は倒れた」
救急車を呼んで、運ばれた病院で由良の体のことを聞いた。すごいショックだった。やっとできた友達が、余命宣告を受けていたなんて……。
「そして昨日と今日、水谷さんがこの流れに加わった」
これがぼくと由良の関係の全て。
「……」
「樋口くんは強いね」
「ぼくが?」
「うん……あたしみたいにさ、泣かないじゃん。辛くても悔しくても、樋口くんは泣かない」
「そうだね、でも――」
それは果たして強さなのだろうか。
「――ぼくは水谷さんみたいに、感情を表に出せない。それだけだと思うよ」
出さないのではなくて、出せない。それならば、自分の感情を表現できる水谷さんの方が、強い。
「あたしはその逆だよ。自分の感情を隠せないんだ」
だから、さっきみたいに泣いちゃう。水谷さんは小さく笑った。学校では、こんな水谷さんを見ることはまずない。
天真爛漫。
それがぼくのクラスにおける、水谷さんに対するイメージ。
「だからなのかな? 樋口くんを見てると、なんだかうらやましく思っちゃうんだ」
うらやましい、か。
「わかってるだろうけど――」
「勘違い、だよね?」
「うん」
そもそも、ぼくをうらやましがること自体が間違っている。
「さってっとー。そろそろ帰ろっか」
暗い雰囲気を吹き飛ばすような、明るく元気な声。『いつも』の水谷さんの声だ。
「そうだね。すっかり暗くなった」
だから、ぼくもできるだけ明るい声を出す。並んで公園を出る。明滅する電灯の明かりは、ひどく頼りない。車が通ったら、端までよけなくてはいけないくらいの道を、二人並んで歩く。
「樋口くん」
「なに?」
水谷さんは少しうつむいた。
「さっきはごめんね、いきなり泣き出しちゃって。困らせちゃったよね……」
なんだ、そんなことか。
「そうでもないよ。ま、驚きはしたけどさ」
「うー、恥ずかしいなぁ」
「どうせぼくのことだから、すぐに忘れるよ」
本当のところは、物覚えは良いのだけど。そんなことを言って、水谷さんがどんな反応をするのかわからない。気にはなるのだけど。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
言わなくてもいいことはある。
そういえば、水谷さんの家ってどこら辺なんだろう。実は、少し前からどんどんと自宅から離れていたりする。まあ、この際だから、水谷さんを家まで送ることにしよう。元々そのつもりだったし。
暗い道は好きだ。
見通しの悪さが、まるで自分のことのように思えて。自己嫌悪に似ているけれど、でも、自分の身の程を知るには良い。
時折横を通り過ぎる車が、ぼくたちの影をアスファルトに伸ばしていた。
「あっ、あたしの家すぐそこだから」
「そっか。じゃ、また明日ね」
思ったより遠くじゃなくて良かった。駅まで歩くことも覚悟していたくらいだ。
「あ、あのさ」
来た道を引き返そうとすると、水谷さんに呼びとめられた。
「うん?」
「ありがとう……送ってくれて」
「いや、なんともないよ」
軽く手を振って、今度こそ帰路のついた。