気付いた気持ち
「……茜」
病室に入ったぼくを迎えたのは、由良の戸惑いの声だった。ぼくがここにいることが信じられないといった表情だ。
「やあ」
由良の血色は良く、傍目からは回復したようにも見える。 迷わず――迷っていないというふりをしながら、ベッドのわきに置かれた椅子に座る。
頭元には、誰かが持って来てくれたらしい果物が置かれていた。
由良は半身を起した。
「体調はどう?」
「え……あ、大丈夫だよ」
「それは良かった」
なるべくいつも通りを装う。母さんは簡単そうに言ったけれど、これはなかなか難しい。
「ねぇ、茜」
「うん?」
ぼくを呼んだ由良はうつむいてしまっていて、その表情をうかがうことはできない。けれど、声の感じから、どうやら何か悩んでいるらしいことはわかる。まあ、そんなことは考えるまでもないことなのだけど。
「ごめんなさい」
たっぷりと間を開けた後、噛みしめるように言った。
「何が?」
謝ることなんて、何もない。由良は謝らないといけないことなんて、何もしていない。由良は悪いことなんて、何もしてない。
「わたし……茜に嘘ついてた」
嘘。
それはきっと引っ越しのこと。
「ふぅん?」
でも、ぼくはいまだにそれを信じたくなくて。
だから――
由良が本当のことを言ってくれるのを待った。結局、ぼくは弱虫なのだ。
「病気なのに元気なようにふるまってたし……」
「それは悪いことじゃないよ」
そうしないとやっていけないことだってある。
「引っ越しのことだって……本当は嘘だし……先生に聞いてるんでしょ?」
「……」
「ねえ、茜」
彼女はもう一度、ぼくの名前を呼んだ。
「わたしにも――」
由良。
岬由良。
彼女はきっと、ぼくよりも強い。
「――生きた証、残せるかな?」
それはいつかした話。
夢とか願いとか。
「できるよ」
だから、ぼくは同じ答えを由良に返す。
「由良がそれを強く望むなら」
それは希望。
限られた時間を生きるぼくたちの、ささやかな願い。
「わたし……もうすぐ、この町を出なくちゃいけないんだ」
これもいつかした話。
けれど、あの時とは重みも、意味合いも、何もかもが違う。でも、ぼくが返す言葉は決まっている。
「でも、ぼくとお花見くらいしてくれるだろう?」
ふるふると、由良は首を振る。
「どうして? 最後の……最期の思い出にいいじゃないか。いや、違うな。毎年でも毎日でも、君が満足するまで行こう」
それでも。
ふるふると。
首を振る。
「無理だよ……茜だってわかってるんでしょ?」
わかっている。限界が近いということもだけど、ここでそれを認めてはいけないように思う。
生きることを諦めてほしくない。
初めての友達だから。
ぼくが初めて。
初めて好きになった人だから。
「ぼくは自分にとって都合の悪いことは認めないんだ。花見を君としたいぼくは――そんなことは認められない」
ぼくのために生きてくれ。
生きて――ください。
「桜の花が見たいって……茜には言わないほうが良かったかも」
「え?」
両の目に涙をためて。
「そんなことを言われたらっ!」
突然由良が声を上げる。
ぼろぼろと。
たまりにたまった涙が零れ落ちる。
「そんなこと言われたら……わたし……生きられるって……茜とお花見ができるって……」
嗚咽に言葉をのまれながら。
「叶わない夢! 信じちゃうじゃないっ!」
叫ぶ。
渾身の力を込めて。
「信じてもいいだろ? 信じさせてくれよ……」
シーツを握る手。
漏れる嗚咽。
シーツには涙でいくつものしみができている。
「茜……あかねぇ……」
上半身だけで、勢いよく抱きついてくる。距離が少し届きそうになくて、あわてて支えにかかる。
「あかねぇ……っ!」
ぼくを抱く力がすごく強くて少し痛かったけれど、彼女はもっと痛い。
もっと苦しい。
もっと。
「由良」
震える背中をさする。
ぼくが泣いた時、母さんによくしてもらった。
こうすれば、なぜか落ち着く。
「もう……抱え込まなくてもいいんだよ?」
この子はきっと、いろんなことを一人で、独りで抱えてきたのだろう。
自分のことだから。
一人で悩んで、一人で迷っていたのだろう。
だから少しくらい誰かの胸で泣いても、それはきっと、良いことだ。
水谷さんのことを話すと、由良はうれしそうにはしゃいでいた。今までに見たことがないほどのはしゃぎようだった。
「ほんとっ?」
「ああ。明日にでもつれてくるよ」
ともあれ、由良が喜んでくれてよかった。帰ってきた同室の男の子も驚くほどのはしゃぎようだった。
「明日のいつっ?」
「今日と同じくらいの時間だから……遅くても五時までには来るよ」
「待ってるからねっ!」
そうか……。
由良もこんな声を出せたんだ……。
「うん。じゃあ、今日はこの辺で」
「また明日ね」
「ああ。また明日」
最後に、今までにないほど寂しげに言ったのが印象的だった。もう一度手を振ってから病室を出る。
さっきまで無理矢理盛り上げていた気分が、一気に沈んでいくのがわかる。
――どうして、ぼくのほうが気を遣われているんだ!
あの不自然なまでのはしゃぎよう。どことなくぎこちなかったし、それ以上に『嘘』が見えた。それは水谷さんに会いたいと思っていない、ということじゃなくて、本来、彼女はあそこまではしゃぐような性格ではないだろうということだ。
空元気。
ぼくにはそんな風に見えた。
「気のせい……なわけないか」
気を遣わせてしまったことが恥ずかしい。
悔しくもある。
「はあ……」
病院から出ると、冷たい風に吹かれた。それがぼくを叱咤しているように感じた。
もしくは滑稽だと笑っているのかもしれない。
町を歩いていると、色々な人を見る。誰にでも、毎日様々なことが起きていて、幸福も不幸も経験している。だから、ここで下手なことは言えない。
言えないけれど……。
余命、か。
まさか自分の近くにそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。しかも、あと半年もないなんて。いやでも、その余命よりも何年も長く生きた例だってある。彼女だって、それは不可能じゃないはずだ。
生きたいと。
生きた証を残したいと。
彼女は願っているから。
「…………信じる」
叶いそうにないことだから願いだなんて、そんなことはただの逃避だ。叶わなかった時の為の逃げ道でしかない。
いつからだろう。
ぼくがこんな風になってしまったのは。
他人のことには関心を持たず、自身にすら無関心で。いや、違う。自分自身から逃げるようになったのは。
きっかけになった出来事なんてのは、きっとない。だからこれは、ぼくの性質だ。
「由良……」
泣きたいのは――本当はぼくなのかもしれない。
空を見上げる。
雪が降りそうだ。