気付かなかったこと
お待たせしました。
今必至こいて、続きを執筆中です。どうやら、人鳥さんは追い込まれないとできない人間のようです。
「おかえり……って元気ないね」
「今日はいろいろあったんだよ」
本当にいろいろありすぎて。
「なんだよー。一日中散歩して帰ってきたと思ったら」
「母さん」
「うん? 改まってどうしたの?」
「少しだけ、話聞いてくれるかな?」
母さんに相談を持ちかけるなんて、いつ以来だろう。
「……」
母さんは何も言わず、いつもご飯を食べている椅子に座った。ぼくには何も聞かず、何も言わず、ただ言葉を待つ。
「……友達が倒れた。病気だったのに、それを隠してたみたいなんだ」
「…………」
何も言わない。
「その友達は入院していたのに、病院から抜け出してきてたみたいなんだ。ぼくはそれに全然気付かなかった」
気付くことを拒否していたのかもしれない。
「その子は余命宣告を受けていた。この春までらしい……でも、桜を――――桜を見たいって、そう言ってたんだ」
見られるかどうか、それは本当にきわどい。いや、今回倒れてしまったことを考えると、もしかしたら厳しいのかもしれない。
「母さん……。ぼくにできること、ないかな?」
初めてかもしれない。
ぼくが積極的に誰かのために何かをしようとするのは。
母さんは目を閉じている。
「長い散歩だったのは、それが原因?」
「うん」
「前に母さんが聞いたかわいい子って、本当はその子?」
「……うん」
「入院してるんだったよね?」
「うん」
「だったら今まで通りに話してあげたらいいじゃない。今度からは院内でね」
それは先生にも言われた。だけど、ぼくはもっと何かをしてあげたい。
「もっとそれ以上のことをしてあげたいって思ってるんでしょ?」
どうしてわかるのだろう。
「……うん」
「母さんはあまり今まで以上のことはしないほうがいいと思うな」
「でも、ぼくは由良の力になりたい」
「あんたはね、茜。その由良って子の話し相手になってあげるのが一番だよ。きっとね。で、余命のことも知らないとういうことにしておくといいよ。その子が自分から話すまで」
知らないように。
何も。
「抜け出してくるぐらいだから、院内にいるのが辛いんでしょ。でも入院してるんだから、いなくちゃいけない」
母さんはそこで言葉を切った。
次に言うことが、一番大切だと言うように。
心して聞け、と。
そう訴えるように。
「だから茜が一緒にいてあげて、院内にいやすくしてあげなさい。それはきっと治療の助けにもなるし、なにより――――その子の心の支えになるから」
学校に来るのが久しぶりに感じる。
いつも通りの月曜登校。
「やっほう、樋口くん」
明るい水谷さんのあいさつが妙にうれしかった。いつもは何とも思わないけれど、自分が沈んでいる時には良い感じだ。
「ああ、おはよう。水谷さん」
「むむ?」
水谷さんは不思議そうに唸った。
「元気がないぞー?」
いつも通りにあいさつをしたはずだったのに、水谷さんにはわかってしまったらしい。
どうしてわかるのかな?
「そうかな? いつも通りだと思うけど」
「甘いなー」
得意げな笑みを浮かべる。
「毎朝話してる人の感情の機微がわからないわけがないでしょー」
どうやらぼくの周りの女性は、ぼくの感情の動きを読む技術に長けているらしい。それとも、ぼくという人間がわかりやすいのだろうか。
「そんなものなの?」
「だよっ」
楽しげに笑うのは、ぼくに気を遣っているのか。いや、彼女は元々こういう子だ。明るく元気な子。
「もしよかったら相談にのるよ?」
今度は一転して、声に優しさがこもる。
しかしどうだろう。水谷さんに相談しても、きっと水谷さんに後味の悪い思いをさせるだけのように思う。
人の死の相談なんて、クラスメイトにするようなことじゃない。
「……ごめん。ちょっとそれはできない」
水谷さんは悲しいような寂しいような、そんなあいまいな表情になった。今にも泣き出してしまいそうな危うさを感じる。
「あたしって頼りない?」
ああ、そう受け取ってしまったのか。
「そうじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「君の為だよ。話を聞いたら、水谷さんはきっと後味の悪い思いをする」
しかし、そんなぼくの言葉を聞いて、水谷さんは呆れたように溜息をついた。
君は何もわかっていない。
そう言いたげだった。
「わかってないなあ、樋口くん」
本当にそう言って。
「誰かの相談にのるってことは、そういうことなんだよ。程度は違っても、そういう思いはついてまわるんだ」
程度は違っても。
じゃあ、ぼくの話はどういう程度なのだろう。由良の生き死にの話はどれほどの程度なのだろう。きっと、水谷さんの予想を超えていることだろう。そもそも、そんな話が出てくるなんて思っていないはずだ。
けれど現状を見てみると、相談しないならしないで水谷さんの表情は暗い。あんな提案の仕方だったけれど、ぼくの相談にのりたかったのかもしれない。
ぼくが由良の力になりたいように。
彼女は彼女でぼくの力になりたいのかもしれない。
「水谷さん」
「うん」
「とても重たい話で、もうどうにもならない状況になってるんだ。そこまでわかってもなお、話を聞いてくれるんなら、昼休みに図書室に来てくれないかな? お昼を食べてからでいいから」
「……うん」
すこしだけ間があったけれど、力強くうなずいた。
彼女は来る。
そう確信した。
どうして水谷さんに相談をする気になったのか、正直なところよくわからない。本当なら、断っていたっていいはずなんだ。水谷さんに相談しても、解決につながるということはないだろう。水谷さんが嫌な思いをするだけだろう。そんなことはわかっているのに。
だけど、ぼくはすでに水谷さんにこうして事のあらましを話してしまっている。
「……そういうことだったんだ」
緊張を隠さずに現れた水谷さんは、ぼくの話を聞き終えてそう漏らした。
「じゃあ、今日もお見舞いに行くのかな」
「もちろん。彼女が来るなと言うまで毎日でも」
本心で――――全身全霊の拒絶を示すまで。
たとえ嵐が来ようとも、ぼくは彼女に会いにいくだろう。
「撤回しなきゃね」
ぽつり、と水谷さんが言った。
「え?」
「樋口くんが冷たいとか、無感動とか、そんなこと言ったじゃん。あれ、撤回しなきゃね」
そういえばそんなことを言われたこともあったか。言われ慣れていて、ほとんど忘れてしまっていた。
「でもどうして? ぼくはこの短期間のうちにそこまで変わってない」
「うん。だから撤回なんだよ。あれはあたしの見る目がなかったんだよ。樋口くん……とっても優しくて、あったかい人だったんだね」
そんなこと、今まで言われたことがない。
今この瞬間こそ、水谷さんの人を見る目がないのではないのだろうか。
ぼくはそんな人間じゃない。そんなことを言われたことなんて、これまで一度もない。これはきっと、水谷さんの勘違いだ。
「そうかな?」
「そうだよ。ぼくが優しいっていうんなら、この世界はもっと優しさに満ちてる」
「そうかな……。ま、樋口くんがどう思っていても、あたしは優しいと思うよ」
「…………」
なんて言えばいいのかわからない。反論の言葉も、肯定の言葉も。何も出てこなかった。それほど、ぼくにはその手の言葉に対する耐性がなかったのだ。
「でも……やっぱり、お見舞いに行ってお話するくらいしかできることってないのかな?」
一瞬何の話かわからなかったけれど、考えてみれば、ぼくたちは元々この話をしていたのだった。ぼくのことなんてどうでもいい。
「ぼくとしてはいろいろしたいんだ」
母さんは特に変わったことはしないのが優しさであり、誠意だと言う。ぼくだって、それが全く理解できないというわけじゃない。
今まで由良が隠してきたことなんだから。彼女が話してくれるまで、待ったほうがいいことだってわかる。
「桜の花が見たいって――――その願いだけは叶えてほしいんだ」
たった一つの願い。
たった一つの想い。
それだけは叶えてから……。
「けど、ちゃんと見れる可能性だって……」
ある、と言いかけて、水谷さんは口をつぐんだ。それがどういう意図からなのかはわからなかった。
「ぼくもその可能性を信じたいよ」
信じ、願う。
それがたとえ叶いそうにないことであっても。
彼女が一日でも長く生きられるなら。
「それがたとえできないとしても……」
できないなんて、そんなこと思いたくもないけれど。
可能性だけは常に考慮しておかなくてはいけない。そうしておかないと、『その時』にぼくはどうにかなってしまうだろうから。
「由良には……笑顔でいてほしいんだ」
「うん……」
「笑顔で生きてほしいんだ」
それは彼女にとって厳しいことなのかもしれないけれど。
「そうだね」
図書委員が換気の為に窓を開けた。外の冷たい風が部屋の中に流れ込んでくる。
「ねえ、樋口くん」
「うん?」
「あたしも今日のお見舞いについて行ってもいいかな?」
「え?」
それはどういう風の吹きまわしだろう。
「友達がいないって話だったしさ。あたしみたいなのでも友達になれたらなって」
早口にそう言って、水谷さんはとたんに黙り込んだ。
水谷さんが友達に、か。
悪くないかもしれない。いや、それはきっといいことだろう。
「だめ、かな?」
とはいえ、それが突然の提案で、ぼくは対応に困った。そんな選択肢は、ぼくの中にはなかったのだ。
しかし、水谷さんを由良に紹介するのは、それはきっといいことだ。クラスの中で一番ぼくの友達に近い存在の水谷さんなら、由良もなじみやすいかもしれない。
「いい案だと思うよ」
素直にそう思った。
「本当?」
「うん。だけど、突然じゃあ由良も驚くから、由良に確認しておかないと」
万が一、由良がそれを拒んでしまっても困る。
「そうだね。じゃあ、またの機会に」
「うん」
「でね、今さら何だけど、その子の名前は?」
そういえば、ちゃんと紹介をしていなかったか。途中まで『彼女』と呼んでいたし。
「岬由良だよ」
「おっけー。てか、下の名前でしかも呼び捨てなんだ」
さっき由良の名前を出した時のことを言っているのだろう。
「そうだね。ちなみに由良もぼくをそう呼ぶよ」
不自然なほどに自然に話していた。
敬称も敬語もなかった。
「へー」
気がつけばそこに重い空気はなくて。
水谷さんもぼくが心配するほどでもなかったらしい。
水谷悟。
どうやら、ぼくが思っていた以上に大物かもしれない。
「?」
きょとんとしてぼくを見るその顔からは、残念ながらそんな雰囲気は感じ取れないけれど。
「なんでもないよ」
始業を告げるチャイムが鳴って、ぼくたちはあわてて図書室を飛び出した。
「はやくはやくっ!」
水谷さんがぼくをせかす。
「あ、ああ」
どうしてだろうか。なぜだかわからないけれど、ぼくはこの時、初めて水谷さんを友達だと、そう思った。
きっと、気付くのが遅かっただけなのだろうけれど。