雪の日の悪夢
ぐらり。
由良の体が傾く。
突然のことで、ぼくはとっさに反応ができなかった。けれど、幸い倒れてきたのはぼくのほうだったから、なんとか支えることができた。
……膝枕をしてほしいわけじゃあるまい。それをするにしては速度も倒れ方もおかしい。
おかしい。
「由良?」
もちろん、そんなことを考えるまでもなく由良の異変には考えが及ぶ。
返事はない。
代わりに苦しげな呻きと、何かを耐える震えがぼくの体に伝わってくるだけだった。ことの重大性をぼくに伝えてくる。
「う……うぅ、ぁあ」
「由良! おいっ!」
周りに誰かいないかと見回してみても、今日に限って子どもすらいない。
「しっかりしろよ!」
くそっ!
ポケットから携帯を取り出して救急車を呼ぶ。何度か番号を押し間違えた。電話の向こうから聞こえる落ち着いた声にいらだちを覚える。
「救急車呼んだからっ! すぐに来てくれるからな!」
どうなってる……由良の持病なのか? でもそんなことは一度も……――っ!
思い至る。
由良が言わなかったのじゃなくて。
ぼくが意識的に無視していたんだ。
重大な秘密は知りたくないと。
由良の引っ越しの理由は――病気の治療だ。
だから桜の話もぼくとの再会の話も、あんなに悲観的だったんだ。今さらわかっても遅い。それに、今はそんなことよりも由良をどうにかしないと。
雪がちらつくような寒さなのに、由良はじんわりと汗をかいていた。汗を拭こうにも、適当なタオルやハンカチなんて持っていない。雪に濡れた手袋を脱ぎ棄て、素手で直接汗を拭う。汗を伸ばしてるだけかもしれないけれど。
由良の体は熱かった。ひどい熱だ。でも、気温は低い。着ていた薄手のコートを脱いで、由良の体にかける。暖かくしておかないと。
由良の容体に変化はない。嫌な汗と、苦しげな呻き声をもらすばかり。
救急車は来ない。
遅い。
何をしているんだ。
ぼくの文句が聞こえたのか、サイレンの音が少しだけ聞こえ、少しずつ近いづいてきた。
救急車に由良が運び込まれ、ぼくも同乗した。乗るのは初めてだったけど、そんなことはどうでもいい。ただ、由良が心配で仕方がなかった。
どうしたことか、運ばれた先の病院の看護師さんたちは、由良の顔を見て驚いた顔をしていた。
緊急外来なんて珍しくもないだろうのに。むしろ驚いているのはぼくのほうだ。
運ばれている由良の横についていく。やがて、扉の前でここまでだと言われた。
「…………」
心配だ。
何が起きているのかわからない。
こんなことなら少しくらい、由良に聞いておくべきだったか……いや、ぼくはそんな可能性には気付いていなかった。
秘密のことが病のことなんて……思いもしなかった。
でも――
たとえばそうだと気付いていたとして、ぼくは由良に聞けたのか? 無理だ。そんな不躾な質問ができるはずがない。
クルクルと。
グルグルと。
思考が廻る。
同じところを、
巡り廻る。
カラカラと。
ガラガラと。
崩れるオト。
決定的に、
何かが壊れる。
結局――ぼくには何もできない。
待つこと、それだけしか。
先生と思しき人が出てきた。とても意思の強い目をした人だ。
けれど、そんな先生の目に不安を抱く。
嫌な予感が頭をよぎる。
「容体は安定しました。時間が経てば目も覚ますでしょう」
淡々と言う。
「よかった……」
心の底から出た言葉だった。
「一つ、聞いてもいいですか?」
先生の目の力が一層強くなる。どうやら最初からこの質問がしたかったらしい。
「なんですか?」
質問を受けるには勇気が必要だった。どんな質問をするのかはわからないけれど、とても大切なことのように思えた。
「あなたは……あの子とはどういう関係ですか?」
「は?」
それは意外な質問だった。
「あ……、いや、申し訳ない。そうじゃなくて……どうやって知り合ったのですか?」
どうやって、とはまた変な質問だ。
「公園のベンチに座ってたら、あの子に話しかけられたのが最初です」
「それは……もしかして雪の降った日曜日のことではありませんか?」
振り返ってみて、あまり由良と出会ってから時間がたっていないことに驚いた。
「そうですが……」
でも、どうしてそんなことを知っているのだろう。
「やはり、か」
やはり?
はっきりとは聞こえなかったけれど、そう言ったように聞こえた。
「どうしてそんな質問を?」
別にぼくと由良がどんな関係であろうと、どこで知り合っていようと、先生には関係のないことだろう。
「……彼女は、うちの入院患者です」
「……」
それは一度考えてやめた考え。ただ、どこかの病院に入院しているのは予想していた。治療で引っ越すなら、入院していてもおかしくはないし、むしろ一般的に思う。
「驚かないんですね」
「驚かせたかったのですか? まあ、そうかもしれないとは思ってましたから」
「そうですか」
何とも言えない、疲れのにじみ出た表情で先生はうなずく。
「あの子は数日としないうちに目を覚ますでしょうから、目が覚めたら話し相手になってあげてください。もちろん病室で」
「由良は今まで抜け出して来ていたんですか?」
「ええ……あの子はあなたには何も話していないんですね」
「ぼくからも何も聞いてませんから。近々引っ越すことだけは聞いてます」
「は?」
短く疑問の声を漏らす。
「え? は? じゃないでしょう。知らないんですか?」
いや、知らないはずがない。治療のための引越しなら、先生が知らないはずがない。
「知らないも何も初耳ですよ。ちなみにそれ、いつ聞きました?」
「初めて会った日ですけど」
その時に交わした会話を先生に話した。
それがなにか、と聞く前に、先生が得心したとばかりに、ただしとても苦々しげにうなずいた。
「本当はこういうことは話してはいけないのですが……」
そう切り出した先生の表情は固い。
「あの子は引っ越しなんてしません。彼女がその話をする前日、彼女は余命宣告を受けています。おそらくは、町を出るとはつまり……」
最後まで言わなくてもわかる。
しかし。
余命。
それはつまり死ぬということ。
今までの会話が脳裏をよぎる。
「ぼくは……」
ぼくは……。
「なんて残酷な話をしてたんだ……!」
くそっ! 今の由良に『次』なんてあるかどうかもわからないのに……。
何かを抱えていることに、ぼくは気付いていたはずだ。
「先生」
「はい」
「余命はあと……」
由良の言葉は『引っ越し』をもうすぐと言っていた。その言葉を額面通りに受け止めるなら、あまり時間は残されていない。だけどせめて……せめて、桜の花を。
「長く見積もって二カ月……ですから、三月までです」
長く見積もって……。
桜の花が咲くまで、もたないかもしれない。
桜の花を見たいと言っていた。
せめて、それくらは叶ってほしい。
でも……ぼくに何ができる?