得られなかったこと
ベッドから天井を見上げながら思う。もし今日茜と話したことが現実になるとしたら、わたしはどんな生活を送るのだろう。当たり前の生活を、わたしは知らないのに。
よくわからないな……。
見飽きた天井。
見飽きた風景。
これらからの『解放』が『当たり前』の生活なのだろうか。いや、きっと違う。少なくとも、風景や天井に飽きている人は少なくない。
じゃあ、『当たり前の生活』って何だろう。
そうだね、きっと、こんな病気なんて患ってない健康な生活なんだろうな。
考えるのが嫌になってくる。何度も何度も同じことを考えて、そのたびに放棄してきた。
あと何回繰り返すのかな。
「ゆらちゃん、今日はどこに行ってたの?」
話しかけてきたのは、同室で生活している男の子。名前は佐坂遊馬くん。先週、事故にあったとかで入院してきた子だ。
「ちょっと散歩」
「いーなー。ぼくもさんぽしたいよ」
遊馬くんの足にはギプスが巻かれていて、ほかにも色々と事故の名残が見て取れる。とても散歩に行けるようには見えない。そもそも、彼は今のところ自分ひとりでベッドから降りられない。
「そうだね、早くけがを治さないとね」
「うん」
とはいえ、元気になれるというは、なんて良いことだろう。『先』があるということはうらやましい。
終わりを告げられたわたしには……。
『先』が見えてしまっているわたしには……。
「? ゆらちゃん?」
心配そうな顔でこちらの様子をうかがう遊馬くん。
「あ……ううん、なんでもないよ」
「なんだかかなしそうな顔してたよ」
「そうかな?」
こんな小さな子にまで心配をかけてはいけない。自分を心配するのは、自分だけでいい。
自分だけで。
「ねーえー、ゆらちゃん。あそぼ」
やっぱり男の子にこの環境は酷だよね。遊びたい盛りだもん。
ベッドから降りて遊馬くんのベッドの横の椅子に座る。
「何して遊ぶ?」
遊馬くんは楽しげな顔で悩みながら、うんうん唸っている。
結局、わたしが百均で買ってきていたオセロをすることにった。オセロは遊馬くんのお母さんがお見舞いにやってくるまで続いた。
「いつもありがとね、岬さん」
おばさんと呼ぶにはまだまだ若く見える遊馬くんのお母さんが、人懐っこい笑みを浮かべた。
「そんな……わたしも退屈ですから」
「それでもよ。ありがとね」
にっこりとほほ笑んで、遊馬くんに一冊の本を手渡した。それはどうやら漫画らしく、遊馬くんはうれしそうにそれを受け取って、夢中になって読み始めた。お母さんはそれを優しいまなざしで見ていた。
……こういうの、いいな。
わたしはこのぬくもりを知らない。知っていたとしても、忘れている。
親子、か。
うんと小さい頃は、まだ入院生活をしていなかったように思うけれど、やっぱり覚えていない。
「岬さん」
「あっ、はい」
私を呼ぶ声で現実に戻ってきた。
手に荷物を持っているあたり、もう帰ってしまうのかもしれない。
「遊馬が迷惑をかけちゃうかもしれないけれど、よろしくね」
「はい」
ありがとう、と、遊馬くんのお母さんは病室から出て行った。元々静かだった病室はさらに静かになって、遊馬くんがページをめくる音だけが聞こえる。
窓から外を眺め、いつもと変わらない風景に嘆息する。
違いなんて、ほとんどない。
と。
近くの道を、見覚えのある姿が歩いていた。
「あか……ね?」
歩いているのはたしかに茜で、表情まではわからないけれど、退屈そうな雰囲気を醸していた。
そこまで考えてあわてて体を隠す。まさか気付くとは思わないけれど、万が一ということもある。
隠しておきたい。
無用は心配はかけたくない。
あれ? だったらそもそも外に出ないほうが良かったのかな?茜とも親しくなっちゃいけなかったよね。
結局。
結局はわたしのわがままで。
入院中の身なんだから、大人しく病室で過ごしていれば良かったんだよね。
でも、あと一回、一度だけ。
茜と会おう。
あの世へ旅立つ土産として。
彼の存在を刻もう。