叶わないこと
樋口茜。
わたしの何かを変えてくれた人。
昨日彼と話して、わたしの中の何かが変わったように思う。
優しそうな目。
適度な距離感。
わたしには馴染みの薄かったもの。
わたしには残された時間が少ない。なら、その限られた時間の中で、わたしはもっと、何かをどうにかしないといけない。
それがわたしの存在価値。
何もできなくて、何もできないまま終わりそうなわたしの――最後のあがき。
さしあたって、まずここを抜けださなくちゃいけない。でも昨日みたいに長く外にいると、先生たちに心配をかけちゃうし、体にもよくない。それに、監視なんかがついちゃったら抜け出すどころか会えなくなっちゃう。
きっと、会おうとすること自体が間違いなんだろうけど。病気で入院している身で、しかも『短い』のに、その病院を抜け出してまで人に会おうとしていること自体が間違いなんだ。
茜。
樋口茜。
彼は、その温和な雰囲気の裏に何を抱えているのかな。
わたしには何も想像できない。経験も体験も、関係も、何もかもが足りない。人との関係が致命的に足りない。足りない私は、彼と関わることで自分に足りないものを補おうとしているのかもしれない。
嫌な奴だ。
でも。
その気持ちは抑えられない。
学校帰りらしい茜と喫茶店に入る。またわたしのせいで変な空気になった。
そんな後でも、茜はわたしに友達になろうと言ってくれた。あまりにうれしくて泣いちゃた。
「ねえ、茜」
「うん?」
「ありがと」
なんでだろう。どうしても言いたくなった。
「どうしたの? いきなり」
「言いたくなったんだよ」
ふうん? と、茜は首をかしげた。
茜がどういう気持ちで言ってくれたのかはわからないけど、わたしはその言葉だけで幸せだ。
友達。
それは懐かしい響き。
消え入りそうなほど。
幻想的な言葉。
「そういえば茜って何歳なの?」
考えてみれば、年齢とか住んでいるところとか、そういうことは全然話してなかった。でも、住んでるところはあまり聞かれたくないかな。答えに困るから。
「うん? 十七だけど」
「あ、わたしより三つも年上だ」
だからどうということもないけど。ただ、年上の男性っていうのは、不思議な安心感がある。今まで感じていたものもそれかもしれない。
「へえ、じゃあ由良は中学生なんだ。今はどんなのが流行ってるの?」
流行なんて知ってるはずない。
「えっと……」
どう答えたものか。でも、答えられないものは答えられないし……。
「わたしはその……あまり知らなくて」
がっかりされないかな。流行のひとつも知らないなんて。
「はは。テレビとかあまり見ない?」
不安とは裏腹に、茜は笑っていた。
「えっ……うん。全然」
病室にもテレビはあるけど、見る気にはなれない。見なくても、相部屋の男の子が見ている声が聞こえてくるし。
「なるほどね。ま、知らなくちゃいけないってわけでもないしね」
ぼくも知らないし、と茜は苦笑する。
「じゃあさ、由良個人としてはどう?」
わたし個人。
そこにもない。
わたしは――今まで何もせずに生きてきた。
今、こんな悪あがきをしているのもそのせい。
今さらだけど。
遅すぎるけど。
「窓から外を見るのが好き」
本当はそれほど好きじゃない。それしかできることがないだけ。
「ぼくも小さい頃はそうだったなぁ」
と、茜はそんなことを言った。それはとても意外なことだった。
「今は?」
「今は特に何もないよ。君に聞いて、何かを見つけたいのかもしれない」
『何か』をどうにかしたいのは、わたしだけじゃなかったみたい。
でもね、茜。わたしに聞いても何もわからないよ?
最後に少しだけ将来の話をして別れた。わたしには到底ありえない、夢物語。