Hateful rough
消毒液の匂いが袖の糸にまで染みていた。
ガムテープで塞がれた窓が、風に合わせてばたばたと震える。教室の床に散った砂とガラス片は、そのままだ。箒を持ってくる人間がいない、というより、気づいても動かない空気がある。ここでは、壊れていることが日常の中に均された。
廊下へ出たところで、靴裏が沈む。板の下に空洞があるのだろう、踏むたびに低く鳴った。階段の踊り場で、彼女が肘を手すりに預けていた。桜田ミリア――リア。黒のカーディガン。襟元に薄い擦れ。鞄はいつものトートだが、今日は底が重そうだ。僕を見たとき、眉も口角も動かなかったのに、視線だけが一度だけ上下する。包帯の位置と歩き方を確認している。
「帰るのか」
声は平板だ。返事の続きに何を想定しているのか分からない、まっすぐな音。
「はい。いえ……一度頭を冷した方が、まともな判断ができるかと思って」
「無理だな」
短い。踊り場の窓の外、グラウンドの端に横倒しのバスが見えた。校外学習の帰りに壊れて、そのままらしい。鉄の骨が少しの風で軋み、屋根の汚れに雨の跡が筋になる。リアは視線をそこから外さず、続けた。
「明日、同じことが起きる。見たろ?」
「……見ました」
「見て、それで“頭を冷やす”ってのは、だいたい逃げる合図だ」
「逃げたくはないです。でも、まだ何も知らないから」
「だから、見せる」
リアは手すりから体を離し、階段をおりる。僕は追いかける。階段は中ほどで踏板が沈み、それを避けるための足幅が自然に狭くなった。誰かが何度も躓いた跡があるのだろう、角が丸くえぐれている。
下まで行くと、左手に非常扉。表のノブは折れて、内側からチェーンで留められていた。持ち手の樹脂が剥がれ、金属の地肌が汗と埃で鈍く光る。リアは鎖の結び目に指をかけ、小さく引いた。鍵はされていなかった。きしみ音。扉の向こうは、夕方でもう暗い。
「こっち」
外は校舎の影になっていて、空気が湿っていた。コンクリートの割れ目から草が伸び、苔が水を含んでいる。体育倉庫へ続く細い通路を抜け、給水塔の裏へ回ると、鉄板で塞がれたはずの蓋が一枚、半分だけずらしてあった。誰かが何度も持ち上げ、置いた場所がずれて、角がすり減っている。
「開けて」
命令文。僕は無意識に返事をして、鉄板の端に指を入れた。滑らない。重さは、見た目ほどではない。片側が蝶番で固定されているからだ。持ち上げる。中から冷気が吹き上がり、湿り気の無い、金属の匂いがした。古い水道管の匂い。錆と土埃。
丸い筒の中に、梯子。鉄の丸棒。周囲のコンクリートには指の汚れが縦に残っていた。何人も降りているのだろう。
「足、気をつけろよ」
先に降りたのはリアだ。スカートの裾を抑えるでもなく、ただ迷いなく足を掛ける。靴底が鉄に当たって、かん、と乾いた音が鳴る。狭い筒の中で音はすぐ丸くなり、上へと返った。僕も続く。十段目を過ぎたあたりで、外の音は消える。替わりに、自分の呼吸と、服の擦れる音が大きくなる。
足が底に着いた。コンクリート。リアが壁際のスイッチを押す。蛍光灯が二度、三度、明滅してから点いた。白い光が長方形に重なり、床の傷まで均一に浮かび上がる。
最初に感じたのは、きれいさだ。
整っている、という意味ではない。置かれているものが自分の機能のための位置に収まっている、という“秩序”の清潔さ。机の天板に四角く並べられた包帯。端に揃えられたガーゼ。消毒用エタノールのボトルのラベルが、すべて同じ方向を向いている。隣の机には、黒いポーチが開かれ、内側にナイフとスナップライトと結束バンド。刃は磨かれていて、反射が細い線になる。棚はアルファベットで分類されている。「P」「Q」「R」——薬品、器材、予備。逆側の棚には、同じアルファベットの付いた透明ケース。中身はスマホ、ICレコーダー、未使用の学生証。壁一面には大きな地図。地名と校舎の見取り図。その上に無数の小さな丸シールとピン。赤は危険。青は監視。黄色は交渉中、と手書きされている。
机の脇に、黒いボードが立て掛けられている。白いチョークで書かれているのは予定表だ。
「昼休み——要注意(渡廊下)」
「放課後——A-3班 西門前 張り」
「19:00——会合(視聴覚)※外部接続あり」
「※恨み目的の接近 禁止」「※医療行為の優先順位:出血>呼吸>意識」
行為の内容は“人を助けるための型式”に似ている。だが、並んでいる器具と、冷ややかなチョークの筆致が、その印象を容赦なく裏返す。ここは病院でも教室でもない。戦場の前室だ。
「ここ、は……」
「うちの拠点。名前はない」
リアが椅子を引いて座り、片足を椅子の横に引っ掛けた。姿勢はゆるい。だが、目だけはどこも見ていないようで、どこでもない一点を捉えている。
「どうして、名前を持たない?」
「所有されるから。名前があると、誰かが旗にしたがる。旗が立つと、そこに“勝ち負け”が生まれる。……ここにあるのは“勝ち負け”じゃない。“前よりマシ”だけだ」
言葉の温度が低い。低温の正論。感情が燃焼し尽くした後に残る、煤みたいな理屈。
部屋の奥で、人の気配。白衣の袖をまくった女子生徒が、金属トレイの上に注射器を並べている。一本ずつ気泡を抜き、キャップを戻す。その横で、フードを被った男子がノートパソコンに何かを打ち込んでいる。画面の角度が低い。顔が映らないようにしている。
「彼らは?」
「ローカルの班だ。薬と情報。――あと、後始末」
「後始末」
「殺さないって決めても、怪我は出る。血を拭くやつがいる。証拠を残さないやり方を、一から教える時間はない。だから、教科書を作った」
リアは背もたれに肩甲骨を押し付け、指を二本、机の天板にトン、と当てる。合図だ。白衣の彼女がこちらを見る。目は眠そうで、しかし動きは正確。軽く会釈だけして、すぐ視線を戻す。その無駄のなさが、逆に“無感情”ではないことを示している。彼らは疲れている。慣れている。飽きていない。
「見せたいものがあるって、言ってましたよね」
「ああ」
リアは机の引き出しから封筒を取り出した。白。厚紙の角が指で丸くなっている。封はされていない。表面に黒いインクで短い文字列。見慣れない文字配列だ。暗号化されたIDのようにも、誰かの名の断片にも見える。
「例の、白い封筒?」
「似てる。けど違う。こっちは“うちの”だ」
リアは封筒の口を開き、中の紙を二枚取り出す。上の一枚は、この学校の廊下の地図。どこに監視カメラが死角を作るか、どの非常口が今は開くか、どの教室の鍵が壊れているか。赤鉛筆の線と矢印。もう一枚は、生徒の名前のリスト。出席番号、身長体重、所属、家庭状況……の上に小さく「衝動/閾値」「同調/解除」の欄。数字は高低ではなく、割り切れない数の配置のように見えた。一定の法則に従っているようで、最後のところで外れる。機械が弾き出したものではない。人間の手が考えた目盛りだ。
「予測書ですか」
「予報。――天気予報と同じだ。外すこともある」
「的中率は?」
「言わない方が、君の精神衛生にいい」
冗談の口調ではない。だが、ほんの少し口元が動いた。笑えない種類のユーモア。
僕は紙から目を離して、部屋をなぞる。壁の時計は針の音がしない。電子式だ。秒の表示が進むたび、わずかに液晶が滲む。机上のスマホは、画面の縁だけが光って、通知がぽつぽつと溜まる。ここは地上から切り離されている。時間の流れが、別の場所のものになっている感覚。
「君に、ここを見せた理由は二つある」
リアが二本指を立てる。
「一つ。君に“逃げ道”を最初に見せたかった。――降りた場所は、必ずいつでも上がれる」
「二つ。逃げたくないときに、人間がどうするかを決める場所を、最初に知っておけ」
「……逃げ道と、決める場所」
「どっちも地下に置くと、人は妙に落ち着く」
リアは立ち上がり、棚の一番上から透明なケースを下ろした。中には、白い布が畳んで入っている。取り出して、机に置く。白――と思ったが、よく見ると布地には細い色の糸が縒り込まれている。縁取りの色が三箇所だけ違う。
「“旗”の代わり」
彼女は布を広げた。肩幅より少し大きい。縁の一箇所を指差す。
「青い縁は、医療。これを見せた現場では、殴りを止める。赤い縁は、退避。これが見えたら、関係者は動線を空ける。黄色い縁は、交渉。誰も手を出さないで、口だけ動かす」
「色分け……わかりやすい、ようで……」
「実際は見えない。現場では誰も上を見ない。だから、これはここで確認する用。自分たちが“どの色でいくか”、先に指差してから出る」
リアの指が布を叩く。ぱさ、と乾いた音。
“先に決める”。その当たり前が、この学校では贅沢だ。
「今日は、どの色なんです」
「決めてない」
「決めてない?」
「現場を見てから。紙と空気は違う。――君は、何色がいい」
彼女は突然僕に振る。
僕は布の上に視線を落とし、青と赤と黄の三つの角の色の差を見る。青は落ち着く色だ。無意識に、そこに指が伸びそうになる。けれど、青を選んだ瞬間に殴られる自分の姿が浮かんだ。青はきれいすぎる。理想の色だ。黄色は、口が達者な人間だけが使っていい。僕は自分の声がどれくらい届くか、まだ知らない。赤――退避。退くことを先に決める。誰かを置いていく色にも見える。どれも正しくて、どれも間違いだ。色の問題ではなく、順番の問題かもしれない。
「……今、僕が決めるのは、危険です」
「正解」
リアは布を畳んだ。
「何色で行くかは、直前に決める。君は、決まったあとで“ずらす”係だ」
「ずらす」
「私らの選択が致命的に偏ってたら、肩を引っ張れ」
その言い方は、僕の立ち位置を綺麗に言い当てていた。僕は、彼らの正義に加担するわけではない。止めるために、ずらす。それなら、できるかもしれないと思った。できないかもしれないとも思った。二つの思いは同時に存在し、喉の奥でぶつかった。
「一つ質問いいですか」
「ああ」
「“恨みで殺すのは禁止”――それは、徹底されてますか」
「徹底されてる、ことになってる」
「現実は?」
「恨みは、道具の形に化ける。自覚しないやつが、一番危ない」
リアは自分の指を見下ろした。薬指の第二関節に薄い擦過傷。爪の先に薬品の白い粉が残っている。血の上にかける粉だ。凝固剤。
「だから、旗が要る。色が救うんじゃない。決めた記憶が救う」
決めた記憶。
僕はその言葉の響きを、喉の奥に沈めた。ここにいる人間たちは、体より先に記憶を使う。目で見たものを、すぐに色と対応させる。その繰り返しで、感情は後ろに下がる。感情が後ろに下がると、判断が先に出る。――それは、正しい。正しいが、冷たい。冷たさに触れた体温が、自分のものかどうか、確認しないといけない。
背後で、誰かが小さく咳をした。白衣の少女がこちらをちらりと見て、声を出さずに口だけで「お疲れ」と言った。口の形で分かる程度の、ゆるい挨拶。僕も同じように口を動かして返す。声は出さない。音が、この場所では目立つからだ。
「……君の名、確認しとく。古依マヤ、で合ってるな」
「はい。古いに依る、で古依。マヤ」
「覚えた。――古依、壊れんなよ」
その言葉は、前にどこかで聞いた気がした。既視感。
けれど、リアの声は誰かの模倣ではない。体に刻印するみたいに、短く、刺す角度を間違えない。
「壊れないで、止めろ。できるか?」
「やってみます」
やってみる、という言い方が卑怯なのは分かっていた。やる、と言うには、まだ必要な情報が足りない。情報が足りないことを自覚している時点で、僕はここに残るしかないのだと思った。
「会議は十九時。視聴覚。ここから繋ぐやつもいる。外のやつらだ」
「外?」
「別の学校、別の街。ネットの向こうには、**“似た壊れ方”**がいくらでもある」
リアは腕時計を見た。デジタル。表面に小さな傷。秒の点滅に合わせて、天井の蛍光灯がわずかにノイズを孕む。
「時間、あるか?」
「あります」
「なら、ここに座って、空気を吸ってろ。慣れるなよ」
矛盾した指示だ。けれど、正しい。
僕は机の端の椅子に腰を下ろした。背もたれは硬く、足の裏に伝わる床の冷たさが、身体の位置を確かめさせる。紙をめくる音、金属の擦れる音、キーボードのタッチ音。それら全部が、地上の学校の音に似ているのに、意味が違う。同じ教科書でも、ここでは包帯の下に敷く。黒板は壁に変わり、落書きは矢印になる。チャイムは鳴らない。代わりに、風が細く鳴る。
ポケットの中の携帯が震えた。画面には母からのメッセージ。「どう、学校」。返事を書こうとして、やめる。嘘をつくのは簡単だ。正直に書く方がむずかしい。だから、何も書かない。今は、何も書かないことが、唯一の誠実に近い。
リアが戻ってくる。手に持っているのはプラスチックのコップと、透明な水。僕に渡す。受け取ったとき、彼女の指が一瞬、僕の指に触れた。骨ばっている。爪が短い。皮膚は冷たいが、手のひらの中心だけが温かい。人を担いだときにできる、独特の熱だ。
「飲め。ここは乾く」
言われるままに水を口に含む。冷たくない、水の味。舌の上を通って、喉を落ちていく。その通過する感覚だけが、生きていると教える。息を吐くと、胸の痛みがひとつ減った。
「君、前に誰かに“直された”こと、あるだろ」
唐突だった。コップを置く音が、少し大きくなった。
リアの視線は、僕ではないどこかを向いている。けれど、確実に僕に向けている。
「……さあ。どうでしょう」
「目がそう言ってる。――まあ、いい。会議で死ぬほど喋らされる。覚悟しとけ」
会議で喋ることになるのか。胃の辺りが固くなる。言葉を選び、投げ、思いもよらない角度で返ってくる場所。負けたくない相手に、言葉で殴られたくない。殴られたくないなら、先に立って、殴らせない空気を作らなきゃいけない。僕は、拳ではなく、順序で戦うと決めたばかりだ。
「――行ってくる」
白衣の少女が箱を抱えて出ていった。男子がその背中に「気をつけて」と言う。声は小さい。しかし、敬語ではない。仲間内の距離。扉が開いて、閉じる。その一連の音が、地下の空気を一度だけ揺らして、すぐに元の平面に戻った。
リアがポケットから小さなカードを取り出し、机に置いた。角が擦れている学生証だ。写真は古い。僕はそこに写る少年の目を、数秒見た。見覚えがある。鏡の中で、何度も見た目の形。静かな観察者の目。写真の下には、名前が小さく印刷されている。彼の名。僕の喉が勝手に動いた。リアはカードを裏返し、何も言わなかった。
「十九時――集合。遅れんな」
リアは時計を軽く叩いて、肩を回す。首の骨が鳴った。スイッチの場所を指で示して、上を顎でしゃくる。
「最後にもう一回、外の空気吸っとけ。戻ってこいよ」
「戻ってきます」
「言い切ったな」
「言い切りたい時くらい、言い切らせてください」
リアは短く笑った。音を出さずに笑う。カーディガンの肩に、蛍光灯の光が薄く溜まる。彼女は扉へ向かい、手で軽く押して開けた。外の暗がりから冷気が差し込む。その縁で、彼女は振り返らないまま言う。
「古依、壊れんな」
扉が閉まる。
静けさが戻るのではなく、定義が戻る。空気の中の粒子の並びが、さっきと同じ位置に戻る。僕は立ち上がり、机の上の布の端を指で触れた。縁の色は見えない。蛍光灯が白すぎて、色を殺す。殺された色は、記憶で補うしかない。
梯子の方へ戻る。鉄の棒に触れると、指先がすぐに冷たさで痛む。上からの光が細い輪になって、筒の内側に沿って落ちている。見上げる。丸い口。空は見えない。校舎の裏の夕方は、今日も明日も暗いだろう。
足をかける。上へ。十段。二十段。途中で一度、手を止める。息を吸い、吐く。胸骨の中央が軋んでいる。壊れる音ではない。使い方を思い出している音だ。
蓋を押し上げると、外の匂いが胸いっぱいに入った。湿った土。草。遠くの排気ガス。生徒の笑い声はしない。帰り道の靴音も途切れ途切れだ。
蓋を戻し、位置を合わせる。角が少しだけ合わない。誰かの足の癖でずれている。僕は靴の先で、ほんのわずかに押し、合うところを探した。ぴたり、と音が変わる。そこが、正しい。正しいというのは、音で分かる。こういう正しさなら、信じられる。
視聴覚室へ向かうまでの道を、頭の中でなぞった。どの廊下が狭いか、どの教室の前に生徒がたまるか、どの角で声が反響するか。歩きながら、ガラスに反射する自分の姿が何度も切れて、繋がる。切れ目ごとに、僕は少しずつ違う表情をしていた。怒っていないのに、怒っている顔。笑っていないのに、笑っている口。どれも全部、僕だ。全部、使う。使い方を間違えずに。
十九時まで、まだ間がある。
会議室のドアが開く音を、頭の中で先に聞いた。椅子の脚が床を擦る。紙の音。誰かの咳払い。声の高さ。
僕は、そこで何を最初に言うのか。
言葉を一つ決める。“色”を決める前に、言葉の縁を決める。尖らせるか、丸めるか。柔らかくしてから刃を入れるか。刃を先に見せてから鞘に戻すか。
廊下の窓に、山の稜線が黒く乗っていく。
暗さは、どこまでも増える。
けれど、暗い方が輪郭は見える。
見えるなら、掴める。
掴めるなら、ずらせる。
足は視聴覚室の前で止まった。ドアの小窓から中を覗く。誰もいない。椅子が二十脚。机が十。黒板の下に、白いチョークが一本。消しゴムは角が落ちている。
僕は手のひらを開き、指の関節をひとつずつ鳴らした。音は出ない。鳴らしたのは、思い出す動作だ。あの日、彼に言われたこと。あの日、直された形。
壊れない。
壊れないで、止める。
今日、その最初の一歩を踏む。
僕の呼吸が、天井の埃をわずかに動かした。次の瞬間、廊下の向こうから足音。誰かが来る。会議の時間だ。
________________
視聴覚室は昼間より狭く見えた。
蛍光灯の光が黄ばんでいて、壁際のポスターが湿気で波打っている。
窓は黒いカーテンで閉じられ、外の光が一切入らない。
机の上にはノートパソコンが三台、コードが床を這い、延長タップに纏わりついている。
空気は淀んでいない。むしろ静かで整っていた。
ただ、何かが呼吸しているような「圧」があった。
すでに数人が席についていた。
有田ミラ――短い金髪を無造作に結び、制服の袖を肘までまくっている。
軽部レイ――黒いパーカーのフードを被ったまま、足でリズムを刻む。
安部シン――眼鏡をかけ、手元のタブレットに指を滑らせている。
リアは一番奥、教卓の横に立ち、腕を組んでいた。
部屋の中央のモニターが、無音で電源を入れる。画面の端に通信アイコンが光る。
“外部接続:確立”。
薄いノイズのあと、数名の声がスピーカー越しに届いた。
別の学校。別の街。
「全国単位で存在する」――リアの言葉が頭をよぎる。
彼女が手を上げた瞬間、空気がぴたりと止まった。
「始める」
声のトーンが変わる。
教卓の上には、例の白い布――三色の縁が折り畳まれて置かれている。
青、赤、黄。
今日の会議の色。
リアが指先でそれを広げた。
「――今期、発生予兆十七件。対応済み十二件。未対応五件。死亡ゼロ、重傷二。暴力による自傷一。……まずはここまでだ」
淡々と報告する声。
まるで経理報告のような調子に、背筋が少しだけ冷えた。
誰も顔をしかめない。
ミラがスナップを鳴らす。
「自傷の件、あたしの方で対応したやつだ。相手は帰宅部の一年。恋愛絡み。拒絶された後に突発的な衝動。刃物は持ってなかった。止めたけど、説得にはならなかった」
「どう止めた」リアが訊く。
「蹴り一発。手首折った」
言葉が平然としている。
「今は医務棟に。再発は?」
「ゼロ。泣き疲れて寝てる」
その言い方が、“解決”というより“終了”に近かった。
僕は息を呑んだ。リアは短く頷き、何も言わなかった。
安部シンが眼鏡を押し上げる。
「俺からは西門の件。観察対象の男子が、元交際相手のストーカー化傾向あり。スマホの位置情報を複数回確認。行動パターンからみて、今夜、接触予定。現時点で監視を三名配置済み。……問題は――」
「問題?」
「止め方だ。前回のように殴れば、相手は二度と歩けなくなる。でも通報すれば、うちが表に出る」
「選べ」
「殴る」
「理由」
「早い。確実」
「いいだろう」
リアはあっさりと答えた。
その「いいだろう」の重さが、胸に沈む。
軽い言葉なのに、責任の底が見えない。
まるで命の単位が違う世界に来たようだった。
僕の膝が、机の下で自然と固まる。
何も言わない自分が、何かに加担している気がした。
それでも声を出すタイミングが分からなかった。
リアが僕の方を見た。
何も言わないまま、ただ視線で促した。
“ここにいるなら、何かを言え”。
「……質問、してもいいですか」
声がやけに小さく響く。
リアは顎を動かした。
「“止める”って、どこまでを言うんですか」
「二度と繰り返させない。動けなくなれば完了」
軽部レイが肩をすくめた。
「止めるってそういうことだろ。説教で止まるなら、誰も苦労しねぇ」
レイの靴が床を叩く。
「お前、あの現場にいたんだろ? 人は“間に合わない”とき、言葉なんて聞かねぇよ」
「でも……動けなくするって、それは治すことと違う」
「治す? へえ、医者志望だっけ。……治せるなら治してみろよ」
レイの声が低く落ちる。
笑ってはいない。純粋に、信じていない顔だった。
リアが割って入る。
「やめとけ、レイ。こいつは初日だ」
「初日だから聞くんだろ」
レイは目を細めた。
「なあマヤ、正義ってやつは、誰かが悪いと決めた瞬間にしか存在しねぇ。悪が動かなきゃ、正義は仕事を失う。……だから、俺たちは止める側に回っただけだ。誰が見てもおかしくないやり方で、手を汚してんだ。きれいごと言うなよ」
言葉が、金属のように重かった。
誰も笑わない。沈黙が続く。
モニターの向こうで、別の学校の声がした。
『――こちらC班、報告続けます。生徒間暴力、再発防止措置として……対象の転校処理、完了』
その「完了」の言葉が、冷たい刃みたいに滑る。
処理、という単語。
人がいなくなることを、「完了」と言う。
リアがそれを聞き流し、ノートに短く記入した。
彼女の筆跡は細い。
線が震えていない。
僕は、それを見ていた。
震えない手というのは、迷わない手だ。
迷わない手は、きっと傷だらけだ。
「……やめようと思ったことは?」
気づけば口が動いていた。
「そのやり方を、です」
リアが顔を上げた。
「ある。何度も」
「それでも、続けてるんですね」
「そうしないと、誰かが死ぬ」
即答。
その答えに、反論の隙間がなかった。
リアは少し間を置いて、言葉を足す。
「死んだやつは喋らない。喋れないやつの代わりに、私たちがやる」
「……それは、正義ですか」
「知らん」
「知らん?」
「正義ってのは、死人のための言葉だ。生きてる間は、便利な理由にしかならねぇ」
言葉が重すぎて、しばらく誰も口を開けなかった。
沈黙を破ったのはミラだった。
「ま、正義はどうでもいいよ。あたしらの仕事は“防ぐ”だから。防げば誰も責めない。……それだけ」
彼女はチョークを手に取り、黒板に三つの丸を描く。
「愛」「嫉妬」「怨」。
円の中央を線で繋ぐ。
「この三つが動き出したら、事件になる。どれを断つかは、そのときの班次第」
リアが頷く。
「今回は“愛”を断つ」
「理由は?」
「簡単だ。――“愛”は、形が無いくせに人を殺すから」
空気が、ほんの一瞬止まった。
愛を断つ。
それは、まるで神話の呪いのようだった。
僕は息を吸う。
口を開きかけたとき、リアが言葉を先に出した。
「マヤ」
「はい」
「怖いか?」
「怖いですよ」
「何が?」
「ここにいる人たちが、全員“正しい”と思ってることです」
リアがわずかに目を細めた。
「それを怖いと思えるなら、まだ生きてる証拠だ」
その瞬間、ノートパソコンが小さく音を立てた。
通信が切れたらしい。
部屋の照明が一つ落ち、影が伸びる。
誰も気にしない。
リアがゆっくりと立ち上がる。
「今日の会議は終わりだ。班はそのまま維持。マヤは“ずらし”担当。次、現場で判断してもらう」
「僕が?」
「君の目は“まだ震えてる”。そういう目を、一人は残す」
そう言ってリアは席を離れた。
彼女の背を見ながら、僕は思った。
ここにいる人間は、壊れてなんかいない。
壊れた“倫理”の上に、冷静な秩序を築いている。
怖いのは、狂気じゃない。
狂気を管理できているという事実だった。
ミラが小さく息を吐いた。
「ようこそ、“マヤ医師”。そのうち慣れるよ」
彼女の声に、冗談は一つも混じっていなかった。
蛍光灯が再び点滅する。
部屋の明かりが戻った時、
机の上の三色の布が風で少しめくれ、
赤い縁だけが、静かに光った。
________________
会議が終わると、部屋の空気がすっと軽くなった。
誰も喋らない。
パソコンの電源を切る音だけが順に響き、ケーブルが床を這う音が薄く残る。
リアは最後まで席を立たなかった。
指先で机の縁を叩き、わずかに爪の音を響かせる。
その音が消えるまでの数秒が、今日のすべてを締めくくる儀式のように思えた。
「古依」
名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。
リアは背もたれに体を預けたまま、視線だけをこちらに向けている。
「さっきの言葉。正義が死人のためのものだって言ったろ。あれ、どう思った?」
「……少し、冷たいと思いました」
「冷たいのが現実だよ」
彼女はそう言ってから、少しだけ口角を上げた。
「でも、冷たくなきゃ、誰も止められない」
言葉が静かに落ちて、部屋の空気を締める。
誰もいなくなった視聴覚室の蛍光灯が、一度だけチカッと瞬いた。
リアは椅子から立ち上がり、窓のカーテンを少し開ける。
黒い夜の線が差し込み、彼女の頬を斜めに切った。
「ねえ、マヤ。あんた、前に“直された”ことがあるんだろ」
言われて、胸が少しだけ痛んだ。
――直された。
その言葉は、僕にとって“壊された”と同じ意味を持っていた。
目を閉じると、あの日の光景がよみがえる。
雨の日だった。
教室の蛍光灯が切れて、外の光だけが黒板を照らしていた。
窓際で本を読んでいた僕に、彼は声をかけてきた。
「君、泣いてる子を見ても何も感じないのか」
声は穏やかだった。
けれど、初めてだった。
僕の“無反応”を責めずに、ただ観察するように言葉を投げた人間。
「……感じないことが悪いんですか?」
当時の僕は、そう返した。
感情は不確かなものだと信じていた。
だからこそ、何も感じない自分の方が“正確”だと。
彼は少し笑って、僕の手を取った。
冷たい指。けれど、その中心だけが温かかった。
「悪くはない。でも、そのままじゃ、君は誰も助けられない」
その言葉が、胸のどこかに爪痕のように残った。
次に見たとき、彼は血を流していた。
助けたくても、声が出なかった。
何をすればいいか分からなかった。
そのとき初めて、僕は“心臓が痛い”という感覚を知った。
――それが、僕が医者を目指した理由だ。
彼の死を見た日、僕は自分の感情をようやく取り戻した。
でも、それは幸福じゃなかった。
痛みを知ることが、こんなにも息苦しいとは思わなかった。
あの日、彼が言った。
“感情は治せない。でも、使い方は変えられる”と。
今でも、それがすべての原点だ。
……リアが、静かに言った。
「その人、今も覚えてる?」
「はい。全部覚えてます。表情も、声も。……僕の初恋でした」
リアは何も言わず、目だけを伏せた。
「いいじゃないか」
「いい……ですか?」
「恋愛が終わる理由なんて、ほとんどが“生き方が変わる”だろ。それで医者になったんなら、その恋はまだ生きてる」
リアの言葉には、優しさと冷たさが同居していた。
そして、そのどちらも僕を否定しなかった。
カーテンの隙間から、街の光が差し込む。
窓の外では、遠くのビルが瞬いている。
ここが地上から切り離された場所であることを、改めて思い知らされる。
リアが言う。
「私たちのやってることは、医者の真逆だよ。でもさ、止血のやり方は似てるんだ。血を見たら、まず押さえる。それから、どこが傷なのか確かめる。……私たちが押さえてるのは、“人の衝動”だ」
「衝動を、止める……」
「そう。でも、押さえるだけじゃ治らない。君がいる意味はそこだ。私たちが止めてる間に、君が“治せる”かどうかだ」
リアの声には、信頼と警告が同居していた。
そのどちらも逃げられない重さを持っていた。
僕は息を吸い、言葉を選ぶ。
「……治せる保証なんて、ありません」
「分かってる。でも、“治せるかもしれない”って思える人間は、そう多くない」
彼女の横顔を見た。
頬にかかった髪が、蛍光灯の光を細く反射していた。
その一筋の光だけが、彼女をまだ人間に見せていた。
リアは立ち上がり、机の上の白い布を拾う。
青い縁を上にして、僕の胸に押し当てた。
「これは今日、あんたが選ぶ色だ」
「青……ですか」
「治す方の色。まだ似合わねえけど、持ってけ」
布の手触りは粗く、手の中で体温を吸って重くなった。
リアの指が一瞬、僕の手を掴む。
その圧が、痛みと安心の境目にあった。
「壊れんなよ、古依」
さっきと同じ言葉。
けれど、今度は意味が違った。
命令ではなく、祈りだった。
リアが出て行く。
扉が閉まる音がゆっくりと消える。
視聴覚室の中に一人残り、僕は椅子に座り直した。
胸元の青い布を広げ、そこに手を置く。
少し震えていた。
窓の外の闇に、あの日の声が重なる。
――「悪くはない。でも、そのままじゃ誰も助けられない」
あの声を、今度は僕が誰かに渡さなきゃいけない。
冷たい正義の中で、ひとつだけ熱を持つ役割として。
僕は布を折り畳み、ポケットにしまった。
夜が深くなっていく。
時間は止まらない。
止まらないなら、進むしかない。
次の現場が呼んでいる。
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夜は冷たく、風が乾いていた。
拠点を出た時、空は黒よりも濃く、どこか鉄のような匂いがした。
蛍光灯の光に慣れた目には、外の暗さが異様に深く見える。
リアが先を歩く。
校舎裏の坂道を抜けると、街灯が一つだけ点いていた。
白く滲む光の下、彼女の影は長く伸びて、僕の足元と重なる。
「行くぞ、古依」
振り返ったリアの顔は、いつもの無表情だった。
けれどその目は、夜の奥を確かめるように鋭い。
「現場はこの先の住宅地。通称“南側ブロック”。交際関係がこじれて、ストーカー行為から暴行未遂。警察が入る前に止める」
僕は無言で頷いた。
青い布を胸の内ポケットにしまい、呼吸を整える。
リアは軽く顎を上げた。
「現場判断、任せる。私たちは動くなり抑えるなり、君の合図でいく」
「……僕の、ですか?」
「ああ。言葉を選べ」
彼女の靴音が止まる。
あたりは静かで、遠くの車の音さえ届かない。
風が抜けて、電線が鳴った。
角を曲がると、古びたアパートが見えた。
ベランダの灯りはひとつだけ。
その下で、誰かが争っていた。
女の子が壁際に押しつけられ、男が腕を振り上げている。
リアの指がすっと上がる。
けれど僕はその手を押さえた。
「まだです」
リアが横目で見た。
「理由」
「……相手の視線が、まだこっちを見ていない」
男は震えていた。
怒りではない。恐怖だ。
震えながら、何かを確かめるように腕を振り上げている。
僕は一歩踏み出した。
「待ってください!」
その声で男が振り向いた。
顔に汗が張りついて、目だけがぎらついている。
「何だ、お前……!」
「先生の使いです。……落ち着いて、話をしましょう」
僕はできるだけ穏やかな声を出した。
リアたちが後方で動く気配を抑えている。
男の手がわずかに下がる。
「先生って……どの……」
「“彼女を救えなかった人”の代理です」
言いながら、ポケットの中で青い布を握る。
自分の手の震えを、隠すように。
「お前、何を――」
その瞬間、男の肩が跳ねた。
リアが背後から腕を取り、肘を極める。
あまりに速く、音すらなかった。
「止めた」
短く言って、リアは男を地面に押さえつけた。
女の子はその場に崩れ、震えながら涙を流す。
リアが冷たい声で言う。
「安部、搬送。軽部、通報偽装」
次々と指示が飛ぶ。
まるで医療現場のような、手際の良さだった。
僕は立ち尽くしたまま、動けなかった。
止める――そういう意味を、ようやく理解した。
リアがこちらを振り返る。
「……よく我慢したな」
「我慢じゃない。……迷っただけです」
「迷えるなら、まだ大丈夫だ」
彼女は短く笑った。
その笑みは一瞬で消え、またいつもの顔に戻る。
警報音が遠くで鳴る。
誰かが夜を破った。
だがこの場だけは、静寂が守られていた。
リアが歩き出す。
「次はもっと速くなる。感情で遅れたら、誰かが死ぬ。でも、感情を捨てたら……君が死ぬ」
僕はその言葉を飲み込んだ。
何かを守るために立ち続ける彼女の背中が、街灯に照らされている。
その姿を見ながら、ふと口を開いた。
「リアさん」
「ん?」
「あなたは、どうしてこの仕事を続けるんですか」
リアは少しだけ歩を止め、振り返らずに言った。
「誰かがやらなきゃいけない。……そして、誰かが“見届けなきゃ”いけない。止めるだけじゃ、終わらないんだよ」
彼女の声が風に流れた。
夜の闇が、少しだけ青く見えた。
僕はポケットの中の布を取り出す。
青い縁が街灯に反射して、小さく光る。
手の中で握り直しながら、静かに思った。
――これは始まりだ。
命を救うために人を止める。
そんな矛盾の上でしか、僕らは生きられない。
リアの背中が遠ざかる。
その影を追って、僕は歩き出した。




