第十八話 翁の来訪
翡翠色の草原を吹き抜ける風は、どこまでも穏やかだった。
ミツキたち五人は、草原の遥か彼方にそびえ立つ、サントーン・カーシャヘルの中心と思しき巨大な遺構を目指して歩き続けていた。
「……ミツキ。ヴィクラムが『アムリタ』を狙っているとして、奴はどう動くと思う?」
草を掻き分けながら、ルークが前を歩くミツキに尋ねる。
ミツキは足を止めず、鋭い視線を地平線の遺跡へ向けたまま答えた。
「アイツの目的がアムリタのシステムを乗っ取ることなら、必然的にあの中心部へ向かうはずだよ。それに、扉を開けるための『鍵』を持ってる私たちがそこへ近づけば、向こうから必ず接触してくる」
「待ち伏せか、あるいは罠を張っているか……」
「うん。どちらにせよ、私たちの方から懐に飛び込んで、アイツの企みを正面からぶっ潰すしかないね」
ミツキの言葉に、全員が無言で頷く。
だが、決意とは裏腹に、彼らの行軍はすぐに奇妙な違和感に包まれ始めた。
「……ねえ、ミツキさん。なんかおかしくない?」
周囲を警戒していたライラが、不安げな声を上げた。
彼女は、少し離れた場所に建つ赤砂岩の石塔を指差した。
「あの塔に巻かれている刺繍の布……さっきも見たよ。模様のほつれ方まで、全く同じだった」
「気のせいじゃないかな? 似たような塔がいっぱいあるし……」
「ううん、絶対同じ! だって、足元のこの赤い花……さっき私が踏んづけちゃった花と、全く同じ場所で潰れてるもん!」
ライラの指摘に、全員が足を止めた。
ミツキが目を凝らして地平線を見る。
――遠くに見える巨大な遺構の大きさが、ここ数十分、一向に変わっていない。歩き続けているはずなのに、距離が全く縮まっていないのだ。
ミツキが忌々しげに舌打ちをする。
「お父様が言っていた通りです」
セレスティアが、自身の腕を抱きしめながら青ざめた顔で言った。
「ここは物理的な現実空間じゃない……精神世界です。ただ足で歩いても、世界の主が『進ませない』と決めれば、永遠に同じ場所を歩かされているのでしょう。」
「ラーヴァナの仕業か? いや、あいつは僕たちを隔離しただけで、こんな迷路に閉じ込める理由は……」
「ヴィクラムだよ」
ミツキが断言した。
「アイツがこの世界のシステムに干渉して、空間の座標を書き換えてるんだよ。アイツの本当の狙いは、精神世界でラーヴァナを殺害して、この街のシステムを完全に掌握することだ」
「じゃあ、僕たちを足止めするためじゃなくて……」
「うん。ラーヴァナを殺せる唯一の武器、『梵天の牙(短剣)』を持ってるセレスティアの元へ、確実に辿り着くための『檻』だよ。私たちがどこへも逃げられないようにして……アイツはもう、すぐそこまで来てる筈だ」
その言葉に、ルークが顔を強張らせ、セレスティアを背に庇うように剣を抜いた。
ヴィクラムは娘を「鍵」としてだけでなく、魔王を殺すための「武器庫(あるいは刺客)」として利用すべく、今まさに一直線にこちらへ向かってきているのだ。
物理的な攻撃なら、ルークの剣やエリシェヴァの魔法で対抗できる。
だが、「空間の概念」そのものをいじられてしまえば、ただの人間である彼らには逃げ道を作ることすらできない。
「くそっ……! こんなところで待ち伏せされるのを待つしかないのか!」
ルークが苛立ち任せに近くの石塔の壁を殴りつける。
エリシェヴァも困惑したように周囲を見渡した。
「空間魔法の解除……私にも少しは知識があるけれど、この規模の精神結界となると、神様クラスの演算能力がないと解呪なんて不可能よ……」
「神様クラスって……そんなの、どうしようもないじゃない……!」
ライラが絶望的な声を漏らす。
翡翠色の草原は、ただ美しいだけの巨大な牢獄へと姿を変えていた。
前に進むことも、後ろに戻ることも許されない。透明な檻の中で、ただヴィクラムという猟犬が襲いかかってくるのを待つしかないのか。
完全に手詰まりとなった一行が、重苦しい沈黙に包まれた――その時だった。
――バヂィッ!!!
突如、頭上の虚空で、耳をつんざくような激しい破裂音が鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
ルークが咄嗟にセレスティアを庇って身構える。
見上げた空には、星も月もなく、青い地球だけが浮かんでいた筈だった。
だが今、その空の何もない空間に、巨大なガラスにヒビが入ったような「亀裂」が走っていたのだ。
ピキ、パキキキキッ……!!
亀裂からは、この世界の色彩とは全く異質の、漆黒の雷のようなエネルギーが狂ったように迸っている。
それは、空間そのものを外側から強引に「こじ開けよう」とする、恐るべき力の奔流だった。
「空間が……割れてる……?」
セレスティアが呆然と呟く。
ミツキは、その漆黒の雷の輝きに、そしてそこから漏れ出す「気配」に、息を呑んだ。
忘れる筈がない。
それは、彼女をこの世界に呼び出し、過酷な運命を託した存在。神代の時代から変わらぬ、あの圧倒的で静謐な――
「……嘘でしょ。なんで……」
ミツキの呟きをかき消すように、空間の亀裂が臨界点に達し、パァン! と盛大な音を立てて砕け散った。
「……おき、な……?」
ミツキは目を丸くして、その姿を呆然と見上げた。
ここはラーヴァナの精神世界。現実の物理法則すら及ばない、完全に隔離された魔王の檻だ。そこに、どうして彼がいるのか。幻覚でも見ているのではないか。
戸惑いの中、ミツキの視線が翁の顔に向けられる。
褐色の額には玉のような汗が幾筋も浮かび、彼が纏う漆黒の神気も、どこかショートしたようにバチバチと不安定な火花を散らしている。
それを見て、ミツキは理屈ではなく直感で悟った。彼が自分のために、どれほどの無茶をしてここへ来てくれたのかを。
「うわああっ! お、翁ーっ!!」
圧倒的な神威に当てられてルークたちが咄嗟に身構える中、ミツキは弾かれたように駆け出した。
そして、あろうことかその恐るべき神格の胸元に、勢いよくダイブして抱きついたのだ。
「お、おいミツキ!?」
ルークが血相を変える。
「……ッ、ミツキ!?」
突然の抱擁に翁は僅かに目を見開いたが、咄嗟に自身の周囲に渦巻いていた漆黒の神気を散らし、彼女をしっかりと受け止めた。
「馬鹿者……いきなり飛びついてくるな。今の私の神気は荒れている。お主に障ったらどうする」
口では小言を言いながらも、その声には隠しきれないほどの深い安堵が滲んでいた。
「だって、ずっと会えなかったから……! ラーヴァナとか言う魔王に誘拐されたかと思ったら、こんなワケ分かんない世界に閉じ込められて、あんたの気配も全然しなくて……ほんと、心細かったんだから!」
ミツキが顔を上げてへにゃりと笑うと、翁は小さく息を吐き、大きな手で彼女の頭をポンポンと不器用に撫でた。
「……すまなかったな。分厚い壁に阻まれて、随分と待たせてしまった。だが、もう案ずるな」
そのあまりにものようなやり取りに、ルーク、ライラ、セレスティアの三人は、ポカンと口を開けて完全に引いていた。
ただそこに在るだけで空間を軋ませるほどの恐ろしいプレッシャーを放つ存在。そんなバケモノ相手に、ミツキは微塵も警戒心なく懐に入り込んでいるのだ。
元治癒師であり、魔力の質に敏感なエリシェヴァだけが、顔面を蒼白にしながら震える声で尋ねた。
「あ、貴方が……ミツキの言っていた、『翁』……?」
彼女たちは道中、ずっとミツキの口から「私を転生させた謎の古い存在がいる」と聞かされ彼の導きの元に動いてはいた。だが、実際に目の当たりにしたその存在感は、想像を絶する次元のものだった。
翁はミツキの頭から手を離し、冷ややかな金色の瞳でエリシェヴァたちを一瞥した。
先ほどのミツキに向ける眼差しとは打って変わって、そこには一切の感情がない、絶対的な「天上神」としての冷酷な光が宿っていた。
「……いかにも。私が、この子に理を託した者だ」
その一言だけで、周囲の空間が悲鳴を上げ始めた。
足元の赤い花が、圧倒的な「本物の神」の質量に耐えきれずに次々と枯れ落ち、風に揺れていた草原が、重力に押し潰されたようにペシャンコに平伏す。
「うっ……!?」
「くっ……息が、詰まる……!」
翁が少し視線を向けただけで、ルークたちは膝をつきそうになるのを必死に堪えなければならなかった。
ラーヴァナの精神世界そのものが、翁の「重圧」に軋み、悲鳴を上げているのだ。
「ここはラーヴァナの精神世界。現実の法則が及ばぬ『夢』の領域だ。……故に、私の質量で世界を壊すことなく、こうして干渉体を捩じ込むことができた」
翁はそう言いながら、忌々しげに目を細め、周囲のループするパゴダ(石塔)と空間を睨みつけた。
「……ふむ。やはり、あの俗物が小細工をしていたか」
「翁?」
「ラーヴァナの結界だけではない。どこぞのネズミがシステムの座標を書き換え、無限の回廊を構築していたようだな。……私の巫女達
を檻に閉じ込めるとは、万死に値する」
翁が、虚空に向かってスッと片手をかざした。
その瞬間。
――バリンッ!!!!
再び、世界が割れる音がした。
今度は空ではない。ミツキたちを閉じ込めていた「空間のループ」そのものが、翁の放った漆黒の神威によって、物理的に粉砕されたのだ。
視界を遮っていた偽りのパゴダが蜃気楼のように掻き消え、歪んでいた距離感が一気に正常化する。
「迷路が……消えた……?」
エリシェヴァが震える声で呟く。
神様クラスの演算能力がなければ不可能だと言っていた解呪を、翁は「力ずくのハッキング」で一瞬にして更地にしてしまった。
「さあ、道は開いたぞ。ミツキ」
翁は静かに腕を下ろし、ミツキを振り返った。
その視線の先――先ほどまで霞んで見えなかった草原の向こう側に、サントーン・カーシャヘルの巨大な祭壇へと続く、真っ直ぐな道が現れていた。
「この空間の歪み(バグ)の発生源は、前方だ。……お主らが探している『鍵泥棒』は、今まさにそこからこちらへ向かおうとしていたところらしい」
「ヴィクラム……!」
ミツキが剣の柄を強く握りしめる。
「ありがとう、翁。道を作ってくれて……よし、絶対アイツの企み、ぶっ潰してくる!」
ミツキが気合を入れて駆け出そうとした、その時だった。
翁が、当たり前のような顔をして彼女の隣にスッと並び立った。
「私も行くぞ、ミツキ」
「……え?」
ミツキが素っ頓狂な声を上げて立ち止まる。
「『行くぞ』って……翁も来るの?」
「当然だろう」
翁は、微塵も疑問を挟む余地のない、至極真っ当なことのように頷いた。
「せっかく分厚い壁をこじ開けて繋いだ縁だ。二度とお主から目を離すつもりはない。……それに、私の庭を荒らした愚か者どもの末路、この目で見届けてやらねばならんからな」
「えっ、あ、でも……」
ミツキがチラリと後ろを振り返る。
そこには、翁が放つ圧倒的な神威とプレッシャーに当てられ、顔面蒼白でガタガタと震えているルークやエリシェヴァたちの姿があった。
味方だと分かってはいても、本能が「隣を歩いていい存在ではない」と警鐘を鳴らしてしまっているのだ。
「……ふむ。少し出力が大きすぎたか」
翁がパチンと指を鳴らすと、周囲の空間を軋ませていた漆黒の神気が、スゥッと彼の内側へと収束していった。
鉛のように重かった空気が嘘のように軽くなり、ペシャンコに潰れていた草原の草花が、ふわりと元の姿へと戻る。
「はぁっ……、あ、ああ……っ」
重圧から解放されたルークたちが、肺いっぱいに空気を吸い込んでその場にへたり込んだ。
「これなら、お主の友人たちも息ができよう。……安心しろ、手出しはせん。これはお主の試練だ。私はただ、見届けるだけだ」
翁はあくまで「観客」に徹するつもりらしく、腕を組んで涼しい顔をしている。
とはいえ、規格外の存在がパーティーに加わったという事実は変わらない。
「も、もしかして……僕たちはこれから、この……とんでもないお方と一緒に、ヴィクラムの元へ向かうのか……?」
ルークが引きつった顔で呟くと、ライラが涙目でコクコクと頷いた。
「……まあ、心強いことこの上ないんだけどね」
ミツキは苦笑しながら肩をすくめ、前を向いた。
「よし、行こう! 翁も見てるんだ、あんな偽物の神様かぶれに、これ以上好き勝手やらせるもんか!」
かくして、規格外の後ろ盾を連れた一行は、ついに真実が待つ祭壇の奥――ヴィクラムの元へと足を踏み出したのだった。




