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第十七話 セレスティアの決心


『――あの日以来、私は仕事の傍ら、魔王ラーヴァナの痕跡を探すことに没頭した』

 

『カシムから巻き上げた神器と人脈、そして私の金の力。使えるものは全て使い、世界中に密偵を放った』

 

『数年が過ぎ、ようやく尻尾を掴んだ。どうやら奴は、力を失い、人の形をして世界を彷徨っているらしい』

 

『待っていろ、アマラ。必ず迎えに行く』

 

『そしてラーヴァナ。人の妻を盗んだその罪……万死に値すると思え』


 インクの染みはそこで途切れ、紙面を引っ掻いたような執念深い筆跡だけが残されていた。

 バサリ、と。

 乾いた音を立てて、セレスティアの手から古い革装丁の日記帳が滑り落ちた。

 

「……ッ、ぁ……、あ、ああぁっ……!」

 

 喉の奥から、空気が漏れるような掠れた悲鳴が上がる。

 セレスティアは膝から崩れ落ち、自身の両腕を掻き毟るように強く抱きしめた。

 

(熱い、熱い熱い熱い……ッ!)

 

 日記を読んだだけのはずなのに。

 記憶にはないはずの『ウリエルの炎』に焼かれる幻痛が、全身の神経を無慈悲に駆け巡る。皮膚が粟立ち、内臓が煮えくり返るような錯覚。

 同時に、胃の奥からどす黒い嫌悪感が猛烈な勢いでせり上がってきた。

 

「オェッ……、あ、うぇ……ッ!」

 

 彼女は地面の草むらに両手をつき、激しく咳き込みながら胃液を吐き出した。

 涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにし、呼吸の仕方を忘れたように肩を上下させて、何度も何度もえずく。

 

「セレスティア!」

 

 弾かれたように駆け寄ったのは、元治癒師のエリシェヴァだった。

 彼女は床に伏すセレスティアの背中に両手をかざすと、即座に治癒魔法を展開した。海風に揺れる刺繍布の影で、淡く温かな光の波動が錯乱するセレスティアの体を優しく包み込む。

 

「大丈夫、呼吸を整えて。……幻痛よ。貴女はもう焼かれていないわ、ここは安全だから」

 

 エリシェヴァは落ち着いた声で語りかけながら、胃の痙攣と焼け焦げるような神経の錯覚を和らげるため、丁寧に魔力を注ぎ続けた。

 その隣にルークも跪き、親友の冷え切った両手をぎゅっと握りしめる。

 

「セレスティア……っ。大丈夫だ、僕がいる……!」

 

「ル、ルーク……えりしぇ、ば……わたし、私……っ」

 

 ガタガタと震えるセレスティアの視線の先には、足元に転がったヴィクラムの日記がある。

 周囲には、美しい棚田と青い地球の光を反射して輝く、翡翠色の絶景が広がっている。

 けれど今の彼女には、その美しささえも虚ろにしか映らない。

 優しいお父様。いつか世界を一緒に見ようと笑いかけてくれた、温かい手のひら。

 その全てが、自分を「廃棄」するための、あまりにも残酷な舞台装置に過ぎなかったのだ。

 

「ひっ、あぁ……お母様……お母様ぁっ……!」

 

 炎の中に腕を突っ込み、自らの身を焦がして自分を助け出してくれた母、アマラの絶叫が脳裏に蘇る。

 セレスティアはエリシェヴァの腕にすがりつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 その傍らで、付き人であるライラは、血の気を失った顔で両手で口元を覆っていた。

 彼女の視線は、風でめくれた日記のページ――『三番目の妻、金髪の女児。川へ沈めて処分した』という記述に釘付けになっていた。

 

(じゃあ……お菓子の世界で、お茶会をして…『パパ』に殺された、あの金髪の女の子は……)

 

 ライラの脳裏に、以前遭遇した幻影の少女の姿が明確にフラッシュバックする。

 当時はただの悪霊か幻覚だと思っていた。だが、お菓子の世界の金髪の少女の正体は、間違いなくこれだ。

 彼女たちは皆、セレスティアと同じように「出来損ない」として実の父親に処理された、名もなき腹違いの姉たちだったのだ。

 

「なんて……酷い……っ」

 

 過酷な奴隷として生き抜き、人間の醜さを知っているはずのライラでさえ、あまりのおぞましさに膝をガタガタと震わせた。

 命を物としか見ない、純粋で絶対的な悪意。それがセレスティアの信じていた「優しい父親」の正体だった。

 その光景を、ミツキは静かに見下ろしていた。

 彼女はゆっくりと歩み寄り、床に落ちたヴィクラムの日記を拾い上げる。その眼差しは、眼下に広がる美しい草原のように暗く、冷ややかだった。

 

「……日記は、ここで終わっている」

 

 ミツキはセレスティアが落とした日記を拾い上げる。

 彼女はそれ以上、何も言わなかった。

 語るべき言葉などなかった。

 ただ、残酷な事実だけが、美しい風景の中で重くのしかかっていた。


 ミツキが日記を閉じた、その時だった。

 裏表紙の隙間から、四つ折りにされた羊皮紙がヒラリと滑り落ちた。

 

「……? まだ何かある」

 

 ミツキがそれを拾い上げ、広げる。

 そこに記されていたのは、日記のような感情的な走り書きではなく、極めて冷静で、事務的な「取引」の文面だった。

 宛名は、あの汚職神官長カシム。

 

『――約束通り、神器の代金は支払った。次は貴公が約束を果たす番だ』

 

『サントーン・カーシャヘルの最奥に封じられし秘儀、"アムリタの祝福"への手引きを頼む』

 

「アムリタの祝福……!?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、全員の顔色が一変した。

 忘れるはずがない。

 サントンカーシャヘルの宮殿で玉座の間で魔王ラーヴァナが語っていた、この街を地獄に変えた元凶そのものだ。

 

「まさか……ヴィクラム殿の狙いは、それだったのか……」

 

 ルークが呻くように声を絞り出す。

 ラーヴァナは言っていた。アムリタの祝福を与える天上神は『変化』や『生命』を嫌い、それゆえに『穢れ(女と子供)』の徹底的な排除を求めた、と。

 

「……あっ」

 

 ライラが、ひきつった悲鳴のような声を上げた。

 彼女の中で、ラーヴァナの言葉と、ヴィクラムのこれまでの所業が、おぞましい音を立てて合致したのだ。

 

「変化を嫌う神……女と子供の排除……」

 

 ライラが震える唇で繰り返す。

 

「それって……ヴィクラムさんがずっとやってきたことじゃない」

 

 全員の背筋に悪寒が走った。

 十三人の娘たち(子供)を「失敗作」として次々と殺処分し、妻であるアマラ(女)の人格や自由を奪い、「変わらない美しい人形」として鳥籠に閉じ込めた。

 ヴィクラムの異常な潔癖さと支配欲は、まさにアムリタの祝福が求める「停滞した世界」そのものだったのだ。

 

「……そっか」

 

 ミツキが羊皮紙をぐしゃりと握りしめる。

 

「アイツは、自分がアムリタの祝福を受ける資格があると確信しているんだ。……そして実際、奴の歪んだ精神性は、あの『停滞を好む神々』と最悪なほど相性がいい」

 

 ヴィクラムの真の目的は、単にアマラを取り戻すだけではない。

 サントーン・カーシャヘルの遺跡でその秘儀を行い、自らが不老不死の支配者となって、永遠に自分の「所有物」たちを支配し続けること。

 

「……狂ってる」

 

 セレスティアは、乾いた声で呟いた。

 父親は、自分を娘として愛さなかっただけでなく、最後は神の領域すら冒涜し、己の欲望のためにことわりそのものをねじ曲げようとしている。

 美しい翡翠色の棚田の風景が、一瞬にして歪んで見えた。

 彼らが立ち向かおうとしている敵は、単なる異常者ではない。

 永遠という時間を手に入れ、この世界を「死んだ時間」の中に閉じ込めようとする、アムリタの申し子とも呼ぶべき「怪物」だったのだ。

 

「……じゃあ、あの男が僕たちをここまで連れてきたのは……」

 

 ルークが震える声で核心を突く。

 ヴィクラムは「娘の病を治すため」と言って、危険な旅をしてまでこの島を目指した。

 だが、それは治療のためなどではなかった。

 

「うん。セレスティアさんを治すためじゃない」

 

 ミツキが、憎々しげに遺跡の奥――ラーヴァナのいる玉座の方角と、ヴィクラムが飛ばされた砂漠の方角を交互に睨みつけた。

 

「――サントーン・カーシャヘルのシステムにアクセスするための『鍵』として、セレスティアを運搬していただけだったんだ。」

 

 ラーヴァナは言っていた。『この街のシステムを掌握するには、俺自身の魔力か、それと適合する波長を持つ鍵が必要だ』と。

 ヴィクラムだけでは、アムリタのある最奥へは辿り着けない。だからこそ、ラーヴァナの因子を持つセレスティアが必要だったのだ。

 その事実に、ルークが拳を壁に叩きつけた。

 

「僕たちは……ずっとあんな男の掌の上だったって事か!」

 

 悔しさと怒りで、ルークの顔が歪む。

 優しい父親の仮面の下で、ヴィクラムはずっと舌を出していたのだ。

 だが、ミツキは冷静に、しかし鋭い眼光で遺跡の奥を見据えた。

 

「だとしたら、悠長に構えている場合じゃない」

 

「ミツキ?」

 

「ヴィクラムの狙いが『アムリタ』なら、アイツは必ずこの場所を目指す。ラーヴァナに砂漠へ飛ばされた程度で諦めるはずがない」

 

 ミツキは確信を持って断言した。

 ヴィクラムにとって、セレスティアは唯一無二の「鍵」だ。

 それを奪還し、不老不死を完成させるためなら、奴はどんな手を使ってでも這い戻ってくるだろう。

 

「アイツはもう、私たちのすぐ近くまで来ているかもしれない。……あるいは、別の手段ですでにこの領域に侵入している可能性だってある」

 

 疑心暗鬼の空気が流れる中、ずっと押し黙っていたセレスティアが、震える声で口を開いた。

 

「……お父様なら、来れるかもしれません。」

 

「セレスティア?」

 

「お父様が、教えてくれたんです。」

 

 セレスティアは顔を上げ、不安げな、しかし何かを決意した瞳で仲間たちを見渡した。

 

「『ここは現実の世界ではない。あの魔王ラーヴァナの精神世界……言わば、奴の夢の中だ』って」

 

「精神世界……夢の中……!?」

 

 エリシェヴァが驚きの声を上げる。

 それならば、先程から物理的な距離や世界の構造その物がおかしいことにも説明がつく。

 

「お父様は言っていました。『奴はお前や私をこの空間に閉じ込め、精神を摩耗させて、永遠に支配しようとしているんだ。……お母さんの時のように』って」

 

 セレスティアの言葉に、ミツキが息を呑んだ。

 それはあまりにも――

 

「……それは嘘だと思う。」

 

 ミツキが吐き捨てるように言った。

 

「支配しようとしているのはラーヴァナじゃない。ヴィクラム自身だ。奴は『ラーヴァナが加害者だ』と吹き込むことで、貴女の恐怖心を煽り、自分に依存させようとしたんだよ。」

 

 そうだ。日記に書かれていた狂気と、ヴィクラムの言葉は真逆だ。

 奴は「守る」ふりをして、セレスティアを孤立させ、サントンカーシャヘルへ入る為の鍵として管理しやすくするために嘘をついたのだ。

 

「……分かっています。」

 

 セレスティアが、唇を噛み締めて俯いた。

 手元にある日記と、父親の言葉。

 どちらが真実かは、もう心が理解してしまっている。それでも――

 

「でも、確かめなくてはいけません。……お父様の口から、本当の言葉を聞くまでは」

 

 彼女はギュッと拳を握りしめた。

 もし日記が本当なら、自分を「支配」するために嘘をつき、母を奪い、世界を停滞させようとする「怪物」を――自分の手で止めなければならない。

 

「……行こう」

 

 ルークが頷き、剣の柄に手をかけた。

 

「君のお父さんが、本当に君を守る騎士なのか、それともアムリタに魅入られた怪物なのか。……直接会って、その正体を暴こう」

 

 ミツキも静かに頷き、日記をポーチにしまった。

 

「うん。ヴィクラムは近くにいる。……この『夢の世界』のどこかで、必ず私たちを見ているはず。行こう、全ての決着をつけるために」

 

 美しい翡翠色の草原を背に、五人は歩き出した。

 その先に待つのが、感動の再会か、あるいは骨肉の争いか。

 真実は、ヴィクラムという男の仮面を完全に剥ぎ取るまで分からない。 

 


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