第十四話 三日月の向こう側
乾いた石畳を、裸足の足裏がペタペタと叩く音が、静すぎる回廊に反響する。
セレスティアは、何かに憑かれたように、ただその美しいヴィーナの音色だけを追いかけていた。
後ろを振り返るのが怖かった。
そこには、愛する母の肖像画を引き裂き、聞いたこともないような罵声を浴びせる父の姿があるからだ。
(お父様……どうして……?)
彼女の知るヴィクラムは、いつも穏やかで、知的で、深い愛情で彼女を包み込んでくれる父親だった。
だが、先ほどの姿は違った。まるで、自分の所有物が穢されたことに激昂する、見知らぬ男のようだった。
そして何より、自分の手にはまだ、小さな使い魔を殺した感触がこびりついている。
「……あっちへ行ってみよう。」
思考が泥のように濁る中、唯一、ヴィーナの音色だけが清冽な光のように彼女を導いていた。
この音の先に、救いがある気がした。
回廊を抜け、彼女が辿り着いたのは、宮殿の中庭だった。
そこには、熱帯の植物が鬱蒼と茂り、夜風が湿った土と花の香りを運んでいる。
音色は、庭園の中央から聞こえてくるようだった。
「……水?」
セレスティアは、植物をかき分けて進んだ先に、古びた石造りの水盤を見つけた。
宮殿の他の場所と同様、ここも長い間放置されていたのだろう。水盤の縁には苔がむし、ひび割れている。
だが奇妙なことに、そこに湛えられた水だけは、鏡のように澄み渡り、微かなさざ波すら立っていなかった。
――ポロロン……。
音色は、間違いなくこの水底から響いてきていた。
セレスティアは吸い寄せられるように水盤の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
「……綺麗」
水面には、夜空がそのまま切り取られたように映り込んでいた。
深く沈んだ藍色の闇。そして、その中心には、鋭利な刃物のような三日月が、冷たく、静かに浮かんでいる。
空を見上げれば、そこにあるのはノイズ混じりのぼんやりとした月なのに、水の中の月だけは、触れれば切れそうなほど鮮烈な輪郭を持っていた。
(……呼んでるの?)
水底の月が、自分を手招きしているような錯覚を覚えた。
その光は、父の怒りや、血の匂いとは無縁の、静謐な世界への入り口のように見えた。
セレスティアは無意識のうちに、その水面へと手を伸ばしていた。
指先が、冷たい水に触れた、その瞬間――。
ドォォォン……。
低い地鳴りのような音が響き、水面が激しく波打った。
「えっ……?」
映り込んでいた三日月が、ぐにゃりと歪む。
いや、違う。歪んだのは月ではない。世界そのものだ。
足元の石畳が消失する感覚。
上下の感覚が反転し、セレスティアの体はふわりと宙に浮いた。
「――っ!?」
声にならない悲鳴を上げる間もなく、彼女は「落ちて」いった。
水の中へではない。
水面に映っていた、あの「逆さまの空」へと向かって。
バシャァァァッ!
水飛沫が上がったと思った次の瞬間、彼女の視界は一変した。
夜の宮殿の湿った空気は消え失せ、代わりに頬を打ったのは、乾いた砂埃と錆の匂いが混じる、冷たいビル風だった。
「きゃあああああっ!?」
セレスティアは、自分が遥か上空に放り出されていることに気づき、悲鳴を上げた。
眼下に広がるのは、息を呑むような絶景だった。
切り立った赤茶色の断崖絶壁。
その崖にへばりつくように、赤砂岩を幾層にも積み上げた精緻な石塔が立ち並んでいる。
塔と塔を結ぶ細い吊り橋には、美しい刺繍が施された色とりどりの布が結ばれており、それらが海風を受けて優雅に、そして激しくはためいていた。
(落ちる……!)
石塔の尖塔が迫る。
死の恐怖に目を瞑った、その時。
「――っとぉ!セレスティアさん、大丈夫?」
ドンッ、という衝撃と共に、彼女の体はミツキにしっかりと受け止められた。
硬い岩肌に叩きつけられる痛みはない。どうやらミツキが時間停止の権能を駆使してセレスティアの身体を受け止めてくれたらしい。
――代わりに感じたのは、温かい人間の体温と、微かに香る鉄と革の匂い。
「……セレスティア!?無事か?」
耳元で、驚きに満ちた、しかしひどく懐かしい声が聞こえた。
恐る恐る目を開けると、そこには碧眼の騎士――ルークの顔が、すぐ目の前にあった。
「ル、ルーク……」
セレスティアは目を白黒させ、周囲を見渡した。
ついさっきまでいたはずの夜の宮殿は、もうどこにもない。
目の前にあるのは、赤い断崖と青い空、そして風になびく極彩色の布。
そこには、彼女を心配そうに見つめる仲間たち――ミツキ、エリシェヴァ、ライラの顔もあった。
「セレスティアさん!」
「よかった、無事だったのね!」
ライラとエリシェヴァが、石塔のテラスから駆け寄ってくる。
夢か現か。混乱する頭の中で、しかし、彼女の手だけは現実を握りしめていた。
――父から渡された、『梵天の牙』。
「あ……」
冷たい金属の感触が、彼女を現実に引き戻す。
父の言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。
『お前は呪われている』
『魔王を殺さなければ、お母さんは救えない』
「いけない……私、戻らなきゃ……」
彼女は弾かれたようにルークの腕から抜け出し、後ずさった。足元の吊り橋がギシリと音を立てて揺れる。
「お父様が待ってるの。私、やらなきゃいけないことがあるの……」
「セレスティア?」
ルークが怪訝そうに眉を寄せる。だが、セレスティアは彼を見ることができなかった。
自分が汚れている気がした。人殺しの道具を握りしめたこの手で、清廉な騎士に触れてはいけない気がしたのだ。
「来ないで! 私は呪われてるの! 近づいたら、あなたたちも不幸になるわ!」
彼女は短剣を構え、拒絶するように叫んだ。
海風が吹き荒れ、彼女の緑がかった金髪を乱暴に煽る。
だが、ルークは止まらなかった。彼は一歩踏み出し、真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。
「不幸になんかならない。君は呪われてなんかいない」
「嘘よ! お父様が言ったもの! 私は呪われてるって、私のせいで世界がおかしくなるって……!」
「それが嘘だと言っているんだ!」
ルークの凛とした声が、風音に負けじと響き渡った。その声には、父の言葉にはない、嘘偽りのない力強さがあった。
「君のお父さんが何を言ったかは知らない。でも、僕たちが知っているセレスティアは、誰よりも優しくて、誰かのために泣ける女の子だ。……呪いなんて、そんなもの、君のどこにもない!」
「ルーク……」
セレスティアの手が震え、短剣の切っ先が下がる。
「……セレスティアさん」
ライラだった。
まだ十歳の少女は、不安そうに眉を寄せながらも、セレスティアのドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
「あのお屋敷に戻っちゃだめだよ。……私、すごく怖かった。あそこには、セレスティアさんを守ってくれる人はいない気がするの」
子供ならではの純粋な直感が、核心を突いていた。
続いてエリシェヴァが歩み寄り、セレスティアの震える腕を、まるで患者を診る時のように丁寧に、そっと支えた。
「ライラの言う通りよ。私たち、あなたを連れ戻しに来たんだから」
「エリシェヴァさん……」
「お父様の言葉だけが本当のことじゃないわ。……私は治癒師として、たくさんの『嘘』を見てきた。家族を想うフリをして、傷つける人たちをね」
エリシェヴァの瞳には、神への祈りではなく、過酷な現場で命と向き合ってきた者だけが持つ、静かで強い理性の光が宿っていた。
「お願い、私たちを信じて。……私たちは、あなたの味方よ」
その温かい言葉と体温が、凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。
そして最後に、ミツキが一歩前に出た。
その瞳には、かつてないほどの真剣な光が宿っていた。
「セレスティアさん。ヴィクラムさんは言ったんでしょ? 『お母さんは魔王に攫われた』って」
「……はい。お母様は、魔王ラーヴァナの慰み者にされていると……」
「違うよ。それは決定的な嘘だ」
ミツキは言い淀むことなく断言した。
「あたしたちは見たんだ。ヴィクラムさんの真の企みを。彼が貴方を犠牲にしてまで何をしたかったのかをね。
――セレスティアさん。あの廃墟で、ラーヴァナが話したこと……覚えてる?」
「え……?」
「『ヴィクラムはクソ親父だ。あいつと一緒にいたら、お前らは骨の髄まで利用されて捨てられる』……そう言ってたって話」
ミツキは悔しげに唇を噛み、そして顔を上げた。
「あの時は信じられなかったかもしれない。でも……やっぱり、あいつの警告は本当だったんだよ」
「本当、だった……?」
「うん。ラーヴァナは敵じゃない。本当の敵は……」
ミツキは言葉を切り、ルークへと視線を流した。
ルークは深く頷くと、懐から一冊の古びた手帳を取り出した。
革の表紙はボロボロで、焼け焦げたような跡がついている。
それは、あの幽霊屋敷の隠し部屋で見つけた、ヴィクラムの「日記」だった。
「セレスティア。僕の話を聞いてくれ」
ルークは手帳を強く握りしめた。
この中に書かれていることは、あまりにもおぞましく、残酷な真実だ。
それを伝えることが、どれほど彼女を傷つけるか。
けれど、嘘で塗り固められた「父の愛」という鳥籠から彼女を救い出すには、この劇薬を使うしかなかった。
「信じられないかもしれない。信じたくないかもしれない。……でも、ここには君のお母さんのことや、君が生まれた時の本当の事が書かれている」
「お母様の……?」
母、という言葉にセレスティアの瞳が揺れる。
ヴィクラムは言った。『お母さんは魔王に囚われている』と。
だが、ルークの碧眼は、それとは違う真実を訴えかけていた。
「お願いだ、セレスティア。自分の目で見て、確かめてほしい。……君を『呪われている』と言ったあの男が、本当は何を考えていたのかを」
ルークは祈るような眼差しで、その禁断の日記をセレスティアへと差し出した。
断崖の強い風が、手帳のページをパラパラとめくる。
そこには、几帳面なヴィクラムの筆跡で、狂気とエゴに満ちた記録が刻まれていた。
セレスティアは息を呑み、震える指先をその革表紙へと伸ばした。
これを開けば、もう二度と「優しいお父様の娘」には戻れない。
そんな予感が、冷たい刃のように彼女の胸を突き刺していた。




