第十三話 剥がれ落ちた仮面
どこまでも続く、重厚な石造りの回廊。
柱には象や蓮、踊る天女の精緻な彫刻が施され、開放されたアーチの向こうからは、湿った夜風が白檀の香りを運んでくる。
窓の外には、深く沈んだ闇の庭園が広がり、その遥か上空には、鋭利な刃物のような三日月が、冷たく静かに浮かんでいた。
――ここは現実ではない。何者かの記憶と精神によって構成された、不安定な夢の世界のようだ。
「……セレスティア。よく聞くんだ」
ヴィクラムは立ち止まり、不安げに周囲を見渡すセレスティアの肩に手を置いた。
その表情は真剣そのもので、娘を案じる父親の慈愛に満ちているように見えた。
「ここは現実の世界ではない。あの魔王ラーヴァナの精神世界……言わば、奴の『夢の中』だ」
「夢の中……ですか?」
「そうだ。奴はお前や私をこの空間に閉じ込め、精神を摩耗させて、永遠に支配しようとしているんだ。……お母さんの時のようにね」
ヴィクラムは苦しげに顔を歪めた。その言葉は、セレスティアの罪悪感と恐怖心を的確に刺激する。
「そんな……。お父様、どうすれば出られるのですか? このままでは、私たちが現実に帰れなくなってしまいます」
「方法はある。……だが、それはお前にとって残酷な選択になるかもしれない」
ヴィクラムは懐から、一振りの短剣を取り出した。
それは黄金の柄に、白銀の刃を持っていたが、どこか禍々しい冷気を放っている。
これは現実の物質ではない。ヴィクラムが所持していた『神器』の概念を、この精神世界に具現化させたものだ。
「……セレスティア。これを見るんだ」
「きれいな……短剣ですね」
「ただの短剣ではない。これは『梵天の牙』。かつて天上神が魔王ラーヴァナを討ち滅ぼした際に振るった、伝説の神器だ」
ヴィクラムの瞳が、狂信的な熱を帯びて輝いた。
その言葉には、一点の曇りもない絶対的な確信が込められている。
「魔王といえど、この聖なる牙の前では無力だ。神話の時代、奴の十の頭と二十の腕は、この刃によってバラバラに切り落とされ、浄化されたのだからな」
「そんな凄い力が……」
セレスティアは息を呑んだ。
父の語る言葉には、有無を言わせぬ重みがあった。神話の戦いを再現する力が、今ここにあるのだと。
「ああ。だからこそ、お前に託すのだ。この短剣だけが、お前にかけられた呪いを断ち切り、お母さんの魂を解放できる唯一の希望なんだ」
ヴィクラムは厳かに、短剣の柄をセレスティアの方へと差し出した。
「恐れることはない。これは正義の刃だ。神が私たちに与えたもうた、奇跡の具現なのだよ」
「……はい、お父様」
セレスティアは震える手で『梵天の牙』を受け取った。
ずしりと重い。
その冷ややかな金属の感触は、これから彼女が背負う「罪」と「救済」の重さそのもののように感じられた。
「さあ、行こう。魔王ラーヴァナの首を、今度こそ神の御名のもとに刈り取るのだ」
ヴィクラムは満足げに頷き、娘の背中を押した。
すると静寂な回廊を進む二人の耳に、不意にカサカサという小さな音が届いた。
ヴィクラムが素早く足を止め、セレスティアを背に庇う。
「……ッ、何者だ」
緊張が走る中、柱の陰から姿を現したのは、恐ろしい魔物――ではなく、白い毛玉のような小さな生き物だった。
大きな耳に、つぶらな瞳。手には自分の体ほどもある大きな箒を抱えている。
それは、この精神世界の宮殿を維持・清掃するために生み出された、下級の使い魔のようだった。
「キュッ?」
使い魔は二人を見つけると、警戒するどころか、嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってきた。
そして、セレスティアの足元で止まると、その頬をスリスリと彼女の足首に擦り付け始めた。
「……かわいい」
セレスティアの表情が思わず緩む。
使い魔は彼女から漂う魔力――すなわち、創造主であるラーヴァナと同じ波長を感じ取り、甘えているのだ。敵意など微塵もない、無邪気な愛着の仕草だった。
「お父様、見てください。この子はきっと、悪い魔物じゃ……」
セレスティアがしゃがみ込み、その頭を撫でようとした、その時だ。
「――触れてはいけない、セレスティア!」
ヴィクラムの鋭い叱責が飛んだ。
セレスティアはビクリと肩を震わせ、手を引っ込める。
「お、お父様……?」
「騙されるな。見た目に惑わされてはいけない。それは魔王ラーヴァナの眷属……奴の手足となって動く、呪われた監視者だ」
ヴィクラムは冷徹な瞳で、足元の毛玉を見下ろした。
「そいつはお前を油断させ、魔王に居場所を知らせようとしているのだ。あるいは、その体内に猛毒を隠し持っているかもしれない」
「そんな……。でも、この子はこんなに懐いて……」
「それが魔のやり口だ! 人の善意につけ込み、内側から食い破る。……お母さんも、そうやって奴の甘言に騙され、囚われたのだぞ」
母、という言葉を出された途端、セレスティアの顔色が青ざめる。
ヴィクラムは一歩近づき、低い声で命じた。
「セレスティア。その短剣を構えなさい」
「え……?」
「殺すんだ。今すぐに」
セレスティアは息を呑んだ。
足元では、まだ使い魔が「キュウ?」と不思議そうに小首をかしげている。こんなに小さく、温かい命を奪うなんて。
「で、できません……! 抵抗もしていないのに……」
「やるんだ!!」
ヴィクラムが怒鳴った。
その剣幕に、セレスティアだけでなく使い魔も怯えて身を縮こまらせる。
ヴィクラムはすぐに表情を和らげ、悲しげに首を振ってみせた。
「……すまない、大声を出して。だが、分かってくれ。これは戦いなんだ。ここで情けをかければ、私たちだけでなく、お母さんまで永遠に救えなくなる」
「……っ」
「これは『穢れ』だ。形こそ可愛らしいが、中身は悪意の塊なんだ。……お前がそれを祓わなければ、誰が家族を守るんだい?」
逃げ場のない論理が、セレスティアの心を締め上げる。
彼女は震える手で『梵天の牙』を握り直した。
使い魔は逃げようともしない。ただ、大好きな波長を持つセレスティアを信じて、つぶらな瞳で見上げているだけだ。
「……ごめんなさい」
セレスティアは涙を溜め、振り上げた刃を――振り下ろした。
ザシュッ。
嫌な手応えと共に、短い断末魔が漏れる。
使い魔の体は、血を流す代わりに、砂のような光の粒子となって崩れ去った。精神世界の幻影ゆえに、死体すら残らない。
後には、使い魔が大切そうに持っていた小さな箒だけが、カランと音を立てて石畳に転がった。
「あ……あぁ……」
セレスティアはガタガタと震え、短剣を取り落としそうになった。
私は、殺してしまった。罪のない、私に懐いてくれた子を。
「よくやった、セレスティア」
ヴィクラムが背後から彼女の肩を抱き、優しく囁いた。
「偉いぞ。悪を滅ぼすことに、迷いも痛みも必要ない。……さあ、涙をお拭き」
父の温かい手が、彼女の涙を拭う。
その優しさが、今は何よりも恐ろしかった。けれど、父に褒められたという事実だけが、崩れそうな彼女の精神を辛うじて繋ぎ止めていた。
「行こう。本番はこれからだ」
ヴィクラムは残された箒を無造作に踏みつけ、先へと歩き出した。
セレスティアは一度だけ振り返り、光となって消えた場所を見つめた後――うつむいて、父の背中を追った。
血の通わない使い魔を手にかけた感触が、まだ手のひらに残っている。
セレスティアは自身の罪悪感に押しつぶされそうになりながら、ただ機械的に父の背中を追っていた。
「……ここだ。この先に強い魔力を感じる」
ヴィクラムが足を止め、豪奢な両開きの扉を荒々しく押し開けた。
そこは、宮殿の応接間のようだった。
磨き抜かれた大理石の床、天井から吊るされた巨大なシャンデリア。そして、部屋の奥の壁一面には――一枚の巨大な肖像画が飾られていた。
「あ……」
セレスティアは息を呑んだ。
描かれているのは、一人の美しい女性だ。
夜空のように深い褐色の肌に、月光を織り込んだような銀色の髪。
彼女は、この国特有の、肌を大胆に露出した煌びやかな民族衣装を纏い、無数の宝石で飾られていた。その表情は、どこか憂いを帯びつつも、女神のような気品に満ちている。
「お母様……?」
間違いない。セレスティアの母アマラだ。
しかし、その姿はかつてヴィクラムから写真で見せられた。「質素で慎ましい母」とはまるで違っていた。まるで気品溢れる一国の王妃のように描かれている。
「あ、あ……………あ…………………」
隣で、呻くような声が聞こえたかと思うと、途端に爆発するような怒号が響いた。
「ふ、ふざけるな……ッ!!なんだこれは! なんだこの恰好は!!」
セレスティアが視線を向けると其処には今までの紳士的で礼儀正しい父の面影等は無く、変わりに醜く歪んだヴィクラムの顔があった。
「お、お父様……?」
思わず一歩引き下がるセレスティア。
彼はそのまま絵画の前まで駆け寄ると、唾を飛ばして叫んだ。
「肌を晒して、男に媚びるような装飾品をつけて……! まるで娼婦ではないか! アマラは私の妻だ、私のものだぞ!!」
「お父様、止めてください!それはお母様の絵です!」
「黙れ! これはアマラではない! ラーヴァナの野郎、よくも私の所有物を……こんな汚らわしい姿で描きおって……ッ! これは冒涜だ、私への侮辱だ!」
ヴィクラムは腰の剣を抜き放ち、狂ったようにキャンバスを切り裂き始めた。
――ビリッ! ズタズタッ!!
美しい銀髪が、褐色の肌が、ヴィクラムの刃によって無惨に引き裂かれていく。
「汚らわしい! 汚らわしい! お前は清廉潔白でなければならないのだ! 私だけの女でなければならないのだ!!」
その姿に、セレスティアは恐怖を覚えた。
怖い。
目の前で剣を振るっている男は、本当に優しいお父様なのだろうか。
母の絵を滅多刺しにし、口汚い言葉を叫び続けるその背中は、先ほど「使い魔を殺せ」と命じた時以上に、恐ろしく、卑しいものに見えた。
(嫌だ……ここにいたくない……)
セレスティアの足が、恐怖で震える。
その時だった。
――ポロロン……。
どこからともなく、美しい弦楽器の音色が響いてきた。
それは弦楽器の音色。
父の罵声や破壊音とは対照的な、深く、澄み渡るような旋律。
「……?」
セレスティアは顔を上げた。
その音色は、怯える彼女の心に、不思議なほど優しく染み渡った。
なぜだろう。初めて聞く曲のはずなのに、ひどく懐かしい。
まるで、遠い昔に揺りかごの中で聴いた子守唄のような――あるいは、もっと根源的な、魂が覚えている響き。
「……呼んでる?」
セレスティアの瞳から、恐怖の色が薄れ、代わりに夢遊病のような虚ろさが宿る。
彼女は、必死に絵画を切り刻む父のことなど忘れたかのように、ふらりと背を向けた。
「あっち……」
音のする方へ。
この窒息しそうな空間から逃れるように。
セレスティアは引き寄せられるように応接間を出て、暗い回廊の奥へと、たった一人で歩き出してしまった。
「死ね! 殺してやる! 私のアマラを返せェェッ!!」
背後で響くヴィクラムの絶叫は、もう彼女の耳には届いていなかった。




