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第九話 暖炉の爪痕


「うわああああああああっ!! 来るなぁぁぁっ!!」

 

 ルークの絶叫が廊下に木霊する。

 彼女はもう、騎士としての体裁などかなぐり捨てていた。

 涙目で腕を振り回し、もつれる足で必死に絨毯を蹴る。

 

『マッテ……』

 

『オイデ……』

 

 背後からは、ヒタヒタという裸足の足音と、この世のものではない冷気が迫ってくる。

 振り返らなくても分かる。あの青白い女たちが、無数の手を伸ばして背中に触れようとしているのが。

 

「ひいいっ! 無理無理無理! 物理無効はずるいだろううううっ!!」

 

 ルークは半泣きで角を曲がった。

 その時、廊下の突き当たりに、他とは明らかに雰囲気の違う扉が見えた。

 豪奢な木の扉ではない。黒く煤け、重厚な鉄の補強がされた、まるで「監獄」のような扉だ。

 

「あそこなら……っ!」

 

 ルークは迷わずその扉に体当たりした。

 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重い扉が開く。

 彼女は転がり込むように中に入ると、すぐに踵を返して扉を叩きつけた。

 バンッ!!

 ガチャリと鍵をかけ、背中で扉を押さえる。

 心臓が早鐘を打ち、喉がヒューヒューと鳴る。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 

 来るか。すり抜けて入ってくるか。

 ルークは剣を抱きしめ、ガタガタと震えながら身構えた。

 

 ――しかし。

 

 ガリッ、ガリガリッ……。

 

 扉の向こうから、爪で板を引っ掻くような音が数回聞こえただけで、それ以上の侵入はなかった。

 あの執拗だった怨念の気配が、この扉の前でピタリと止まっている。まるで、この部屋に足を踏み入れることを恐れているかのように。

 

「……入って、こない?」

 

 ルークは恐る恐る扉から離れた。

 助かったのか。安堵のため息をつこうとして――むせ返るような臭いに、咳き込んだ。

 

「げほっ、ごほっ……! なんだ、この臭いは……」

 

 それは、埃の臭いではない。

 

 鼻の奥にこびりつくような、焦げ臭い「煤」と「炭」の臭いだった。

 ルークは顔を上げ、自分が飛び込んだ部屋を見渡した。

 そして、息を呑んだ。

 

「……ここは、何だ?」

 

 そこは、先ほどまでいた美しい屋敷とは、まるで別世界だった。

 壁紙は熱で焼け焦げて剥がれ落ち、天井は黒く煤けている。

 家具は炭化して原形をとどめておらず、歩くたびに床の灰が舞い上がる。

 そこは、激しい火災に見舞われ、そのまま放置された廃墟のような部屋だった。

 

「この部屋だけ、時が止まっているのか……?」

 

 ルークは剣を鞘に納め、慎重に歩を進めた。

 幽霊への恐怖は薄れ、代わりに騎士としての鋭い観察眼が戻ってくる。

 部屋の中央には、ひときわ大きく、黒く変色した暖炉があった。

 その周囲だけ、床が激しく炭化しており、ここが火元であったことは明らかだった。

 

「……酷い火事だ。ここで何があったんだ」

 

 ルークは暖炉の前にしゃがみ込んだ。

 灰の中に、何かが埋もれているのが見えた。

 手を伸ばし、灰を払う。

 現れたのは――半分ほど焼け焦げた、革製の小さな靴だった。

 

「……子供の、靴?」

 

 ルークの指先が震えた。

 サイズからして、三歳か四歳くらいの子供のものだ。

 さきほどの写真に写っていた、幼いセレスティアが履いていたものと同じくらいの大きさ。

 

「まさか……。ヴィクラム殿が言っていた、『悲劇』というのは……」

 

 ルークの脳裏に、ヴィクラムの言葉が蘇る。

 

 『妻が発狂し、娘を連れ去った』

 

 だが、この現場の惨状は、もっと生々しい「事故」か「事件」を物語っている。

 ふと、暖炉の内側の壁に目が止まった。

 煤で真っ黒になったレンガの表面に、微かに白い線のようなものが無数に走っているのが見えた。

 

「これは……」

 

 ルークはさらに深く暖炉の中へ身を乗り出し、目を凝らした。

 背後の扉の隙間から差し込むわずかな光が、暗闇の中の「痕跡」をおぼろげに浮かび上がらせる。

 彼女は革手袋をはめた指先で、煤けたレンガの表面をそっと拭った。

 

 現れたのは、傷跡だった。

 獣の爪痕ではない。もっと小さく、弱々しい……人間の爪で、必死に壁を引っ掻いたような跡。

 それも、一つや二つではない。暖炉の内側一面に、絶望的な数で刻み込まれている。

 

「――ッ!!」

 

 ルークは吐き気を催し、口元を押さえた。

 想像してしまったのだ。

 この狭い暖炉の中に閉じ込められ、炎に焼かれながら、逃げ出そうと必死に壁を掻きむしった、幼い子供の姿を。

 

「なんて……なんてことだ……」

 

 ルークは焼け焦げた靴を強く握りしめた。

 彼女の中で、一つの「悲しい仮説」が組み上がっていく。

 

(……ヴィクラム殿は、言えなかったんだ。

 妻が発狂しただけじゃない。狂ったアマラ殿は、この部屋で……自分の娘を、この暖炉に突き落としたんじゃないのか……?)

 

 そう考えた直後、ルークの脳裏に一つの疑問が浮かんだ。

 

「……いや、待て。だとしたらおかしい。今のセレスティアは無傷だ。全身を焼かれたような痕跡なんて、どこにも……」

 

 あんなに綺麗な肌をしている彼女が、こんな暖炉で焼かれて無事なはずがない。

 推理が間違っているのか? ルークは眉をひそめた。

 だがその時、カラートシャムスでの「記憶」がフラッシュバックした。


 ――神官兵の放った無数の矢や魔法が、セレスティアに触れる直前で弾き飛ばされた光景。

 

 ――ウリエルの放つ神の炎さえも無効化した、

あの「無敵」の力。

 

「……あ」

 

 すべての辻褄が合ってしまった。

 ルークは愕然として、煤けた暖炉を見つめ直した。

 

「そうか……。彼女には『力』があったんだ。

 母親に突き落とされ、焼かれそうになったその時……彼女の『無敵』の力が発動して、炎から身を守ったんじゃないか?」

 

 物理的には守られた。だから、身体に火傷はない。

 けれど、心には?

 実の母親に焼き殺されかけたという「恐怖」までは、無効化できなかったはずだ。

 

「だから……あんなに怯えていたのか」

 

 ルークは拳を握りしめた。

 セレスティアがウリエルの炎を見た時に見せた、異常なまでのパニックになったと言う話。

 あれは単に敵が怖いからではない。この暖炉で味わった、母親による殺害未遂のトラウマが蘇っていたのだ。

 

「……ヴィクラム殿。あなたは、こんな地獄を背負って……」

 

 ルークの瞳に、涙が滲んだ。


 ルークは、煤で汚れた子供靴を懐にしまった。

 これは証拠だ。

 ヴィクラムを断罪するためではない。彼が抱える孤独と絶望を共有し、支えるために。

 

「行こう。……こんな悲しい場所、一刻も早く終わらせないと」

 

 ルークは立ち上がった。


 「よし……行くぞ」

 

 ルークは煤で汚れた顔を拭い、覚悟を決めて重厚な鉄扉に手をかけた。

 この部屋は安全地帯だったが、いつまでもここに引きこもっているわけにはいかない。ヴィクラムやミツキ達と合流し、この狂った屋敷から脱出しなければならないのだ。

 

(幽霊たちは、もう去っているかもしれない。もしいたとしても、今の僕には「真実」を知った強さがある。もう動じたりはしないさ)

 

 自分にそう言い聞かせ、ルークは勢いよく扉を押し開けた。

 

 ギィィィィィ……。

 

 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、廊下の景色が広がる。

 そこには、誰もいなかった。

 静まり返った、薄暗い廊下が続いているだけだ。

 

「ふぅ……。やはり、去ったか」

 

 ルークは安堵の息を吐き、一歩を踏み出した。

 その瞬間。

 

 ヌッ。

 

 上下左右、そして足元の床から。

 視界を埋め尽くすほどの「白い顔」が、一斉に現れた。

 

「…………へ?」

 

 ルークの思考が停止した。

 去ってなどいなかった。

 彼女たちは、扉の縁に張り付き、天井からぶら下がり、床から上半身を生やして、ルークが出てくるのを「待っていた」のだ。

 

『……チガウ』

 

 目の前に浮かぶ、長い髪の女の霊が、虚ろな瞳でルークを見つめて口を開いた。

 

『ソウジャナイ……』

 

『アノ男ハ……』

 

 彼女たちは、ルークを襲おうとしているのではなかった。

 

『キイテ……』

 

『ダマサレチャ駄目……』

 

 無数の幽霊たちが、わらわらとルークに群がってくる。

 その手は「ねえ、話を聞いてよ」と言わんばかりに伸びてくるが――極度のオバケ恐怖症であるルークの目には、それは「地獄への手招き」にしか見えなかった。

 

「あ……あ、あ……」

 

 ルークの顔から、決意も、騎士の矜持も、血の気も、全てが抜け落ちた。

  カチカチと歯が鳴る。

 そして、限界突破。

 

「ぎゃあああああああああああああっ!! 待ち伏せとか卑怯だあああぁぁぁぁっ!!」

 

 ルークは脱兎のごとく駆け出した。

 話を聞く? 無理だ。

 誤解を解く? それどころじゃない。

 今の彼女の脳内には、「怖い」「無理」「逃げたい」の三単語しかない。

 

『マッテ!』

 

『話ヲ聞イテ!』

 

 背後から、幽霊たちが猛スピードで浮遊して追いかけてくる。

 壁をすり抜け、ショートカットしながら、執拗にルークの前後左右に現れては何かを囁こうとする。

 

「うるさいうるさいうるさぁぁぁいっ!! 近寄るな! 喋りかけるな! ちゃんと実体を持ってから出直してこぉぉぉいッ!!」

 

 ルークは涙目で剣を振り回すが、刃は虚しく空を切るだけだ。

 物理無効の相手に、物理特化の女騎士は無力すぎた。

 

『アノ男ガ……』

 

『焼イタノ……』

 

 幽霊の一体が、ルークの耳元で真実を告げようとする。

 だが、ルークは耳を塞いで絶叫した。

 

「わああああああああ!! 聞こえない聞こえない! 呪いの言葉なんて聞きたくないぞぉぉぉっ!!」

 

 彼女は全速力で廊下を駆け抜け、階段の手すりを飛び越え、なりふり構わず屋敷の奥へと逃走する。

 幽霊達の言葉も、訴えも、全て「恐怖」というフィルターによって遮断されていく。

 

「ハァッ、ハァッ! もう嫌だ! 早く朝になってくれぇぇぇっ!!」

 

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした女騎士は、何かを訴えようとする死者たちの群れを引き連れて、迷宮のような屋敷を転がるように逃げ惑うのだった。


 「はぁっ、はぁっ、はぁぁぁっ!!」

 

 ルークの荒い呼吸音が、静寂であるはずの屋敷を騒がしく切り裂く。

 彼女が駆けているのは、目が眩むほど豪華なメイン廊下だ。

 壁には金箔の貼られた額縁に入った歴代当主の肖像画が並び、天井からは等間隔にクリスタルのシャンデリアが吊り下げられている。


 本来なら優雅に歩くべきその場所を、ルークはなりふり構わず疾走していた。

 

『キイテ……』

 

『オ願イ……』

 

 背後から迫る白い影の群れ。

 彼女たちは壁をすり抜け、床から湧き出し、まるで白い波のようにルークを追い詰めてくる。

 

「っ、おわぁっ!?」

 

 焦りのあまり、毛足の長い高級絨毯に足を取られ、ルークはたたらを踏んだ。

 体勢を崩した拍子に、飾られていた巨大な青磁の壺に肩がぶつかる。


 ガシャアアアンッ!!


 国宝級かもしれない壺が床で粉々に砕け散ったが、今のルークにそれを気にする余裕など微塵もない。

 

「ご、ごめんなさいヴィクラム殿! 弁償しますから! 出世払いで絶対返しますからぁぁっ!!」

 

 涙目で謝罪を叫びながら、這うようにして体勢を立て直す。

 振り返れば、すぐ目の前に女の霊の顔があった。

 

『……マダ、間ニ合ウ』

 

「ひっ!間に合いたくない! 近づくなっ! シッシッ!」

 

 ルークは剣をめちゃくちゃに振り回して牽制し、再び走り出した。


 長い廊下の突き当たり。そこに、他とは一線を画す威圧感を放つ、黒檀の巨大な両開き扉が見えた。


 精緻な彫刻が施され、厳重な錠前がついているようだが――。

 

「あそこだ! あそこなら隠れられる!」

 

 ルークは最後の力を振り絞って加速した。

 鍵がかかっていようが知ったことではない。

 彼女は肩から扉に突っ込んだ。

 

 ドォォンッ!!

 

 ネファスの魔女としての身体能力と、火事場の馬鹿力が合わさり、厳重な鍵ごと扉が弾き飛ばされるように開いた。


 ルークは部屋の中に転がり込むと、すぐに立ち上がって扉を押し戻し、かんぬきをかけ、さらに近くにあった重い棚を引きずってバリケードにした。

 

「ぜぇ、はぁ、ぜぇ……っ!」

 

 扉に背中を預け、ずるずると座り込む。

 心臓が破裂しそうだ。汗で前髪が張り付いている。

 

「……く、来るか……?」

 

 ルークは剣を構え、扉を凝視した。

 幽霊は壁をすり抜ける。こんな物理的なバリケードなど無意味かもしれない。

 だが――。

 

 …………シーン。

 

 扉の向こうからは、何の気配もしなかった。

 先ほどまで耳元で囁いていた怨嗟の声も、ヒタヒタという足音も、嘘のように消え失せている。

 

「……入って、こない?」

 

 まただ。

 あの焼け焦げた部屋と同じ。

 幽霊たちは、この部屋の前までは追ってきたが、中には入ろうとしない(あるいは入れない)ようだ。

 

「助かった……のか……」

 

 ルークは全身の力を抜き、ようやく周囲を見渡す余裕を取り戻した。

 そして、眉をひそめた。

 

「ここは……資料庫、か?」

 

 そこは、屋敷の他の部屋とは全く異なる空気に包まれていた。

 豪華な装飾品は一切ない。

 広い部屋を埋め尽くしているのは、天井まで届く巨大な本棚と、そこにぎっしりと詰め込まれた分厚い古書、そして羊皮紙の束だ。

 

 だが、ただの書庫ではない。

 部屋の奥には実験器具のようなガラス管や、ホルマリン漬けにされた奇妙な生物の標本、そして壁一面に貼られた複雑怪奇な魔法陣の図面が見える。

 

「埃っぽいな……。それに、薬品の臭いがする」

 

 ルークは立ち上がり、積み上げられた書類の山に近づいた。

 それは、綺麗に整理整頓されたヴィクラムの書斎とは対照的に、狂気的な熱量で乱雑に書き散らされた「研究」の痕跡だった。

 

「これだけの資料……。ヴィクラム殿は、ここで何を調べていたんだ?」

 

 ルークは足元の紙束を拾い上げた。

 そこに書かれていたのは、古代語で記された魔術理論と、ある特定の「伝承」に関する膨大なメモだった。

 

『――再生の理』

 

『――魂の定着率に関する考察』

 

『――サントーン・カーシャヘルの不死の祝福について』

 

「……生命、不死?」

 

 ルークは首を傾げた。

 娘を救うための治療法の研究だろうか?

 だが、その内容は、医学というよりは禁忌の魔術に近いもののように見えた。

 その時、部屋の最奥。

 書類の山の向こうに、厳重に封印された「黒い革表紙の日記帳」が置かれているのが目に入った。

 

「あれは……」

 

 本能が告げている。

 あの日記にこそ、この屋敷の、そしてヴィクラム殿とセレスティアの過去の「答え」が記されているのだと。

 ルークはゴクリと唾を飲み込み、その日記へと手を伸ばした。

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