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第八話 幽霊屋敷


耳の奥を掻き乱していた不快な電子音は、いつの間にか止んでいた。

代わりに響くのは、どこか遠くで時を刻む規則正しい振り子時計の音。そして、微かに鼻をくすぐる古い木材と高級な蜜蝋の香りが、意識をゆっくりと浮上させた。

 

ルークは重い瞼を押し上げた。

視界に飛び込んできたのは、サントーン・カーシャヘルの無機質な天井ではない。緻密な装飾が施された高い天井と、そこから吊り下げられた豪奢なクリスタルのシャンデリアだった。

 

「……っ、ん……ここは……?」

 

ルークは反射的に身体を起こそうとしたが、あまりに柔らかすぎる感触に一瞬戸惑った。

彼が寝かされていたのは、深い真紅の天蓋がついた巨大なベッドの上だった。シーツは滑らかなシルクで、身体の芯まで沈み込むような上質な羽毛の温もりが伝わってくる。

 

「……たしかミツキの手を掴もうとして……。それから、あの光に飲み込まれて……」

 

記憶を辿りながら、ルークはベッドから足を下ろした。

床には毛足の長い厚手の絨毯が敷かれ、裸足で踏みしめても冷たさは全く感じない。

部屋は驚くほど広大だった。

壁際には革装の本が並ぶ黒檀の本棚があり、窓辺には彫刻の施されたライティングデスクが置かれている。カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光の中で、埃が光の粒となって静かに舞っていた。

 

サントーン・カーシャヘルの「死」と「ノイズ」が支配する世界とはあまりにもかけ離れた、完璧に保存された静止画のような美しさがそこにはあった。

 

「誰かいないのか? ミツキ! ライラ! エリシェヴァ!」

 

声を張り上げてみたが、その声は厚い壁と絨毯に吸い込まれ、虚しく消えた。

ルークは無意識に傍らに手を伸ばした。幸いなことに、愛用している剣はベッドの脇に立てかけられていた。その冷たい金属の感触だけが、今の彼にとって唯一の「現実」だった。

 

「誰もいないのか……。けど、この手入れの行き届き方は異常だ。誰かが管理しているのは間違いないな」

 

ルークは警戒を緩めず、ゆっくりと部屋の扉へと歩み寄った。

金細工のノブに手をかけ、僅かに押し開ける。

廊下もまた、静まり返っていた。

等間隔に並ぶ肖像画の額縁が、薄暗い廊下でぼんやりと光を反射している。その肖像画の顔は、なぜかどれも深い影が落ちているようで、はっきりと見ることはできなかった。

 

「……趣味のいい屋敷だ。けど、不気味すぎるな」

 

独り言を呟き、ルークは自分をこの箱庭に招き入れた主を探すため、見知らぬ屋敷の奥へと一歩を踏み出した。長い廊下を進み、少しだけ扉が開いている部屋の前で足を止めた。

隙間から、古紙とインクの混じった独特の匂いが漂ってくる。

 

(書斎……か?)

 

警戒しながら扉を押し開けると、壁一面を埋め尽くす書棚と、部屋の中央に鎮座する重厚な執務机が目に入った。

 

先ほどの寝室と同じく、ここもまた不気味なほどに整頓されている。机の上には書きかけの書類や万年筆が置かれ、まるで主がほんの数分前までそこに座っていたかのような気配が残っていた。

 

ルークは足音を忍ばせて机に近づいた。

書類に書かれている文字は、見たことのない複雑な数式や言語ばかりで判読できない。だが、その書類の脇に、大切そうに飾られた一つの「銀のフォトフレーム」が置かれているのに気づいた。

 

「……写真?」

 

ルークはそれを手に取り、ガラス越しに中の光景を覗き込んだ。

写っていたのは、三人の家族だ。

中央に座るのは、白衣を纏った知的な風貌の男性。

その膝には、一人の幼い少女が抱かれている。三歳か四歳くらいだろうか。栗色の髪を愛らしい二つの三つ編みにし、少し痩せすぎているようにも見えるが、カメラに向けて儚げな微笑みを浮かべている。

そして、その背後で男性の肩に優しく手を置いている女性。

ルークはその女性の姿に、思わず目を奪われた。

 

(……綺麗な人だ。異国の血を引いているのかな)

 

彼女の肌は、健康的な褐色だった。

腰まで届く長い髪は、月光を織り込んだような美しい銀色。そして何より印象的なのは、その双眸だ。

膝の上の少女と同じ、いや、それ以上に鮮烈で透き通るような「金色」の瞳が、写真越しにこちらを見つめている。

 

「お父さんと、お母さん、か……」

 

ルークは写真の表面を指でなぞった。

男性の穏やかな表情、女性の慈愛に満ちた眼差し、そして大切そうに抱かれた少女。

どこにでもある幸せな家族の肖像に見える。けれど、少女のあまりに白い肌と、どこか諦めたような瞳の静けさが、ルークの胸に小さな棘のような違和感を残した。

 

(この屋敷の主人の家族……なんだろうな。この子たち、今はどこにいるんだろう)

 

全く知らないはずの人々だ。

けれど、この褐色肌の女性の金色の瞳を見ていると、なぜだか胸の奥がざわつくような、不思議な既視感を覚える気がした。

 

「……ん?」

 

写真を元の位置に戻そうとして、ふとフレームの裏側に、走り書きのようなメモが挟まっているのに気づいた。


 ――○○年◯月◯日……セレスティア…………アマラ…………ヴィクラム


「――ヴィクラム殿とセレスティアだって!?」


 ルークは息を呑み、慌てて写真を裏返して、もう一度ガラス越しに少女の顔を凝視した。

 

「嘘だ……? 名前は確かに『セレスティア』って書いてある。」

 

 写真の中の少女は、栗色の髪に、母親譲りの透き通るような金色の瞳。

 だが、ルークが知る幼馴染のセレスティアは、輝く緑がかった金髪に、深みのある銅色の瞳を持っている。

 

「顔が……違う。面影はあるけど、まるで別人みたいじゃないか」

 

 ルークの背筋に、冷たいものが走った。

 成長して髪や瞳の色が変わることはあるかもしれない。

 だが、ここまで劇的に変わるものだろうか?

 それとも、この写真はセレスティアではない別の誰かなのか? いや、だが名前は確かに……。

 

「……君は、一体誰なんだ? 本当に僕が知ってるセレスティアなのか?」

 

 ルークが写真の少女に問いかけた、その時だった。

 屋敷の空気が、ルークの疑念に呼応するように凍りついた。

 

 その時だった。

 屋敷の空気が、ルークの感傷をあざ笑うかのように凍りついた。

 

 ガタガタガタガタッ!!

 

 突如、書斎全体が激しく振動し始めた。

 ルークが反射的に顔を上げると、壁一面を埋め尽くしていた巨大な本棚が、まるで意志を持った巨人のように揺れている。

 

「な、なんだ!?」

 

 バサバサバサバサッ!

 無数の書物が棚から飛び出した。それらは重力に逆らって宙を舞い、まるで怒り狂った鳥の群れのように、ルークを目掛けて殺到する。

 

「!?」

 

 ルークは咄嗟に腕で顔を庇った。

 硬い表紙が肩や腕に叩きつけられる。だが、ルークの瞳に宿ったのは恐怖ではなく、戦士としての鋭い光だった。


 「――物理的な干渉か。ならば、対処は可能だ」

 

 ルークは表情一つ変えず、冷静に愛剣を抜き放った。

 宙を舞う本や家具。普通ならパニックになる状況だが、彼女の隻眼には、戦場を俯瞰するような冷徹な光が宿っている。

 

「ヴィクラム殿の屋敷を荒らしたくはなかったが……降りかかる火の粉は払わせてもらう。許していただきたい」

 

 ルークは短く謝罪を口にすると、迫りくる物体を迎え撃った。

 アスタロトとの契約により強化された身体能力。女騎士として磨き上げた剣技。

 彼女の動きに無駄はない。

 

 ズバッ! ガシャーン!

 

 襲いかかる椅子を最小限の動きで切り払い、飛来する置物を剣の腹で受け流す。

 その所作は、まるで舞踏のように洗練されていた。

 

「ふっ……。姿を見せずに物を投げるだけか? 残念だが、実体のある攻撃である限り、僕の剣技の前では無意味だ」

 

 ルークはふわりと着地し、剣先をスッと中空に向けた。

 クールで、頼もしい。

 幾多の死線を潜り抜けてきた「ネファスの魔女」としての風格がそこにあった。

 

「君が何者かは知らないが、隠れていないで正々堂々と――」

 

 ルークが一歩踏み出し、隠れている敵を暴こうとしたその瞬間だった。

 

 ヒュゥゥゥ――――……。

 

 風もないのに、蝋燭の火が一斉に消えた。

 同時に、気温が急激に下がる。吐く息が白くなるほどの冷気。

 

 そして、部屋の隅、闇が凝縮した場所から、ズルリ、ズルリと「それら」が湧き出してきた。

 

「……?」

 ルークの動きがピタリと止まる。

 闇の中から現れたのは、家具でも本でもなかった。

 青白い死人の様な肌。乱れた長い髪。

 ボロボロの白い寝間着を纏った、透き通るような女性たちの姿。

 

 一人ではない。二人、三人……五人。

 

 彼女たちは、重力を無視してふわふわと宙に浮き、うつむいた顔の隙間から、恨めしそうな瞳でルークを睨めつけていた。

 

『……ダレ……?』

 

『ワタシモ……連レテッテ……』

 

『ドコニモ……行カセナイ……』

 

 この世のものではない、怨嗟の声が重なり合い、耳元で反響する。

 

「…………」

 

 カラン。

 

 ルークの手から、愛剣が滑り落ちた。

 さっきまでの「クールな女騎士」の仮面が、音を立てて粉砕される。

 顔色が土気色になり、歯がガチガチと鳴り、膝が笑い出す。

 

「ゆ、ゆゆゆ、幽霊……だ……?」

 

 ルークは強かった。ドラゴンだろうが魔王だろうが、剣で斬れる相手なら勇敢に立ち向かえた。

 

 だが、彼女には致命的な弱点があった。

 

 幼少期、蛙一匹で泣き叫んでいた頃から変わらない、理屈の通じない「オバケ」に対する根源的な恐怖。

 

『……タスケテ』

 

 一人の女性の霊が、スゥーッと音もなく距離を詰めてくる。

 その顔には、目も鼻もなく、ただぱっくりと裂けた口だけがあった。

 

「ひっ……!」

 

 ルークの喉から、騎士らしからぬ甲高い悲鳴が漏れる。

 

『ニガサナイ……』

 

『コッチ……オイデ……』

 

 周囲を取り囲むように、複数の女の幽霊たちが迫ってくる。

 物理攻撃無効。剣など役に立たない。斬れない。触れない。

 

「い、いやだ……来ないでくれ……僕は、僕は……!」

 

 ルークは涙目で後ずさり、壁に背中をぶつけた。

 そして、限界を超えた恐怖が、彼女の理性を吹き飛ばした。

 

「うわあああああああああああああっ!! やっぱり無理無理無理ッ! ごめんなさいごめんなさい! お化けは無理だぁぁぁぁっ!!」

 

 ルークは床に落ちた剣を拾うことさえ忘れ、脱兎のごとく部屋の扉へダッシュした。

 ガチャガチャとノブを回し、廊下へと転がり出る。

 

『ニガサナイ……』

『行カナイデ……』

 

 背後から、ヒタヒタと裸足の足音が追いかけてくる。

 振り返ると、廊下の闇の奥から、数え切れないほどの女の幽霊たちが、手招きしながら浮遊して追ってくるのが見えた。

 

「ひいいいいいっ!! なんで増えてるんだよぉぉぉっ!!」

 

 ルークはなりふり構わず、広い屋敷の廊下を全力疾走した。

 クールな女騎士の威厳など、そこには欠片もなかった。

 あるのはただ、かつての幼少期の泣き虫に戻り、涙と鼻水を垂れ流しながら「セレスティアーっ!」と幼馴染の名を叫び出しそうな勢いで逃げ惑う、一人の少女の姿だけだった。

 

「誰かぁぁっ! 助けてくれぇぇぇっ!!」

 

 絶叫が、静寂の屋敷に虚しく響き渡る。

 彼女の「地獄」の探検は、まだ始まったばかりだった。

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