第七話 朽ちて芽吹く、命の理
裏路地の泥水にまみれ、腐敗した足を投げ出している元浄化官の男。エリシェヴァはその前に静かに膝をついた。
「……何のつもりだ。笑いに来たのか?」
男の声は、喉に砂が詰まったように掠れていた。かつて自分を縛り上げたその手は、今は激しい震えを抑えることさえできず、ただ虚空を掻いている。
エリシェヴァは何も答えず、ハンスから受け取ったばかりの『調合録』を開いた。そこには、彼女がかつてこの街で命を救おうと苦闘した日々の記憶が、確かな重みを持って記されている。
「傷を洗います。少し、痛みますよ」
「よせ……ッ! 穢らわしい魔女の手に触れられるなど……死んだ方がマシだ!」
男が拒絶するように腕を振り回すが、エリシェヴァはその手を迷いなく、けれど優しく押さえた。
「死にたいのなら、私が去った後に勝手にすればいいわ。でも、今の私は『診療所のエリシェヴァ』なの。目の前の傷を放っておくことは、私自身の誇りが許さない」
彼女はそっと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、あの森で出会った深緑の瞳の魔王。
(ベルゼブブ様。……貴方が『罪ではない』と言ってくれたこの力、今こそ使わせてください)
エリシェヴァの掌から、溢れ出した。
それは、澱んだ路地裏の空気を一変させるような、瑞々しく輝く深緑の光。
「な……ッ……」
男が絶句する。
光が壊疽を起こした肉に触れた瞬間、ドス黒い膿が浄化され、生気のない肌にみるみるうちに血色が戻っていく。痛みに歪んでいた男の表情が、魔法のような温もりに包まれ、次第に穏やかなものへと変わっていった。
「……なぜだ。なぜ、自分を殺そうとした俺を救う……」
「救ったのは、あなたという『人間』よ。浄化官としてのあなたではないわ」
エリシェヴァは光を収めると、立ち上がって服の汚れを払った。
その表情には、もはや第1章で火刑台を恐れていた怯えはない。自らの力を正しく使い切った者の、静かな自信が宿っていた。
その時だった。
「……ッ!?」
エリシェヴァの背筋に、氷を押し当てられたような鋭い戦慄が走った。
治癒魔法を通じ、街のわずかな「生命の脈動」と繋がっていた彼女の感覚に、異質なノイズが混じったのだ。
それは、広場の向こう、今は人影の絶えた地方教会の礼拝堂から放たれていた。
冷たく、鋭利で、一切の生命を拒絶するような神気の余波。
アダムスがこの街に残していった、あるいは彼が今まさに行使しようとしている「力」の残滓。
「この感じ……何……?」
ミツキを、そしてセレスティアを狙う、あの「超人」の冷徹な気配がそこにある。
「エリシェヴァさん? どうしたんですか?」
様子を窺っていたハンスが心配そうに声をかけるが、エリシェヴァは既に歩き出していた。
「ハンス、その男の人をお願い。……私は、確かめなきゃいけないことがあるの」
彼女はフードを深くかぶり、灰の舞う大通りを駆け出した。
向かう先は、街の最も高い場所に鎮座する、あの白亜の礼拝堂。
救いを失い、自壊していく聖都の心臓部で、教皇が何を「遺して」いったのか。
その正体を知ることが、ミツキたちの元へ還るための鍵になると、彼女の直感が告げていた。
ギィィ……と、重厚な鉄の扉が不吉な音を立てて開いた。
礼拝堂の中は、外の灰色の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ステンドグラスから差し込む光はくすみ、かつて信徒たちが跪いた赤い絨毯は、厚い埃に覆われている。
エリシェヴァは、祭壇へと続く長い通路を、自身の足音だけを聞きながら進んだ。
かつては教皇アダムスの権威が満ちていたこの場所も、今はただの巨大な石の棺桶のように、冷たく、虚ろだった。
「……誰か、いるの?」
その問いに、思いがけない声が返る。
「――おいで、エリシェヴァ。ずっと待っていたよ」
祭壇の奥、かつては自分を「穢れ」と断じた紋章の前に、二つの人影が立っていた。
質素な農夫の服を纏い、痩せこけた頬に慈愛を宿した父。そして、その隣で穏やかに微笑む母。
「お父様……お母様……?」
エリシェヴァの手から調合録が滑り落ちた。
かつて飢餓と病で失ったはずの両親。幻影だとしても、その温かな気配を彼女の魂は拒めなかった。
「よく頑張ったね、エリシェヴァ。あんなに惨い目に遭ったのに、あなたはまだ、自分の足で歩いている」
母親が、透き通った手でエリシェヴァの頬をなぞるように動かした。
「お父様、どうしてここに……」
父親が静かに首を振った。
「形ある教会が何を語ろうと、ここが人々の『祈り』が集まる場所であることに変わりはない。だからこそ、お前に伝えに来たのだ」
父親の瞳が、真剣な色を帯びる。
「いいかい、エリシェヴァ。今、ミツキたちが向かった『サントーン・カーシャヘル』……あそこは、生きた人間が踏み入るべき場所ではない。『死さえも許されず、時が止まったまま腐りゆく地獄』だ」
「死さえも許されない……?」
「そうだ。本来なら朽ち果てて土に還るべきものが、無理やり繋ぎ止められている。理が外れた、歪な場所なのだよ。……エリシェヴァ、お前の力が必要だ」
母親がエリシェヴァの手をとり、優しく諭す。
「ミツキさんの元へ急ぎなさい。彼女が手に入れた『狂気』、そしてサントーン・カーシャヘルに満ちる『停滞』……その濁流の中で、正気を保ち、彼女の隣に立っていられるのは、本当の命の巡りを知る、あなただけなのだから」
二人の姿が、光の粒子となってゆっくりと溶け始める。
エリシェヴァは必死に手を伸ばしたが、指先は温かな記憶だけを残して、埃の舞う虚空を掴んだ。
祭壇の上には、いつの間にか一輪の、瑞々しい野花が残されていた。
エリシェヴァは、足元に落ちた調合録を拾い上げた。
サントーン・カーシャヘルの不気味な正体。そして、ミツキが今、極めて危険な状態にあること。
「待ってて、ミツキ……。今、あたしも行くから!」
彼女は力強く踵を返した。
エリシェヴァは、無人の礼拝堂を飛び出した。
灰色の雪が舞う聖レクス市の空は、不気味に歪んでいる。遥か東、地平線の彼方から響いてくるのは、物理的な音ではない。
それは彼女の指先に残るベルゼブブとの契約印が、ミツキの放つ強烈な「生命の権能」の波動を捉えて震えている音だった。
「ベルゼブブ様、力を……! あの子のところに繋いで!!」
彼女が強く願った瞬間、足元の影が粘り気を持って膨れ上がった。
『やれやれ、急かすね。だが、あの場所は「停滞」が支配するラーヴァナの箱庭だ。普通に行けば、君の生命力もろとも「固定」されてしまうよ』
影の中から、実体を持たないベルゼブブの囁きが響く。
「それでも行かなきゃ。あの子が……ミツキが、一人で世界を背負おうとしてる。死を恐れて時を止めたあの街に、本当の『命の巡り』を教えられるのは、あたしたちだけだって、お父様たちが言ったわ!」
『……いいだろう。豊穣の理をもって、死した都市の隙間を抉開けよう』
刹那、エリシェヴァの背中から、半透明で毒々しくも美しい、巨大な異形の羽が噴き出した。
それは彼女がかつて「魔女の烙印」と恐れた力。だが今は、迷いなき救済の翼だった。
ドォォォォンッ!!
爆音と共に彼女の身体は垂直に跳ね上がり、空の亀裂へと吸い込まれていった。
――――
視界が激しいノイズに引き裂かれる。
次の瞬間、エリシェヴァが降り立ったのは、崩壊しつつある世界の上空だった。
「……っ、何、これ……!?」
眼下に広がるのは、青空が崩れ、世界が黒い立方体のノイズに飲み込まれていく絶望的な光景。
そしてその中心に、翡翠色の輝きを放つ「幻想の島」が見えた。
島は激しく点滅し、空から降り注ぐ黄金の光によって無理やり「解体」されようとしている。
エリシェヴァは、ノイズの嵐を切り裂き、その翡翠色に輝く「幻想の島」へと舞い降りた。
背中から生えた半透明の異形の翼が、デジタルの砂に削られながらも、瑞々しい深緑の魔力を撒き散らす。空を見上げれば、巨大な「青い地球」が不気味なデジタルノイズに引き裂かれ、空の亀裂からは掠奪の黄金光が滝のように降り注いでいた。
「……あ……あぁ……」
島の中央、精緻な石塔の前で、ミツキが膝をついていた。
彼女の身体からは、無理やり命を繋ぎ止めるための紅い光が、無数の血管のような「魂の糸」となって島全体に伸びている。黒い立方体へと変わり果てようとする海や、砂嵐に消えゆく精霊たちを、彼女は自分の精神を削りながら必死に「固定」し、編み直そうとしていた。
「ミツキ!!」
エリシェヴァは着地と同時に駆け寄り、背後からミツキの震える肩を抱きしめた。
「エ、エリシェヴァ……!? どうして、ここに……」
ミツキが力なく顔を向ける。その瞳は過剰な負荷で焦点が合わず、頬には脂汗が伝っていた。その腕の中では、点滅を繰り返す銅色の瞳の少女が、消え入るような声を漏らしている。
「ミツキ、もういいわ。一人で止めようとしなくていいの」
「でも……止めなきゃ……! あたしが支えないと、この子も、精霊さんも、みんな消えちゃう……!」
ミツキは歯を食いしばり、さらに「時の権能」を強めて世界を固定しようとする。しかし、外部からの黄金の侵食は、その静止をあざ笑うように楽園を解体していく。
「違うのよ、ミツキ。聖レクス市も、このサントーン・カーシャヘルも、みんな『止まること』で永遠を得ようとして……そして腐ってしまったわ」
エリシェヴァは、亡き両親から授かった言葉を、ミツキの耳元で優しく、けれど力強く紡いだ。
「命はね、止まるものじゃないの。壊れて、朽ちて、土に還るからこそ、次に新しく生まれてこれる……。今のこの世界に必要なのは、止める力じゃない。『巡らせる力』よ!」
エリシェヴァが、ミツキの重なり合う手の上に自らの掌を重ねた。
ベルゼブブから授かった「豊穣」の理が、ミツキの「生命の権能」と共鳴し、爆発的な輝きを放つ。
「ミツキ、あなたの『命』を、あたしの『循環』に乗せて! 壊される前に、あたしたちの手で、この子たちの想いを大地に還してあげるの!!」
エリシェヴァの身体から、濃密な深緑の光が溢れ出した。
それはミツキが必死に繋ぎ止めていた「魂の糸」を伝わり、島全体へと浸透していく。
驚くべき変化が起きた
。
ミツキが「固定」していたことで、黄金の光に削られる一方だった精霊や植物たちが、エリシェヴァの光を浴びた瞬間、あえて自ら「枯れ、溶ける」ことを選んだのだ。
消滅ではない。それは、種となって大地に潜るための「休息」
。
光の糸を紡いでいた精霊たちは、安らかな歌声を上げながら小さな光る粒となって水面へと沈み、翡翠色の棚田は黄金の光に奪われる前に、自ら豊かな泥へと還っていった。
「あ……あったかい……。ミツキさん、このおねえちゃん……土の匂いがする……」
腕の中の少女が、エリシェヴァの魔力に包まれ、初めて穏やかな表情を見せた。
「掠奪の光」が、苛立たしげに空を掻いた。
エリシェヴァがもたらした「命を巡らせ、大地に還す」という理は、形あるものを奪い、分解しようとしていた黄金の光にとって、掴むことのできない霧のようなものだった。奪おうとした瞬間に種となり、泥となり、次なる芽吹きの予感の中へと隠れてしまう命。
空の亀裂の向こう側に潜む『侵入者』は、この場所がもはや、力尽くで収穫できる「熟した果実」ではないことを悟ったかのように、冷徹な沈黙を守った。
「……消えていく?」
ミツキが顔を上げると、空を切り裂いていた黄金のノイズが、潮が引くように急速に細まっていくのが見えた。
バリバリと空間を削っていた不快な音は止み、ドス黒い「システムエラー」の文字も、夕闇に溶けるように淡くなっていく。
やがて、空の亀裂は最後の一条の光を放って、パチンと弾けるように閉じた。
「……助かったの、あたしたち?」
ミツキの腕の中で、点滅を繰り返していた銅色の瞳の少女が、安らかな寝息を立て始めた。彼女の輪郭はもう揺らいでいない。エリシェヴァの光に包まれたことで、この世界の不安定なシステムから切り離され、深い眠りの中で「保存」されたのだ。
「ええ、今はね。あのお光、あたしたちがこの世界を『動かした』ことで、狙いを絞れなくなったみたい」
エリシェヴァは異形の翼をゆっくりと畳んだ。
翡翠色の棚田や碧い海は、かつての輝かしい色彩を失い、静かな夜の森のような、穏やかな停滞……いや、「冬眠」に近い静寂に包まれている。
ミツキが不安そうに、精霊たちが消えた水面を見つめていると、エリシェヴァが優しく微笑んで言いました。
「大丈夫よ。あの子たちは死んだんじゃないわ。……ただ、少し長い眠りについただけ。あの掠奪の光に捕まらないように、みんなで土の中に隠れたの」
エリシェヴァが地面にそっと手を触れると、彼女の指先から伝わる魔力に呼応して、土の奥底からポッと淡い光が返ってきました。
「ほら、返事をしてくれた。……この世界が本当の春を迎える時、あの子たちはまた、今よりもっと綺麗な光の糸を紡ぎ始めるわ」
「そっか、良かった……はぁ……っ」
ミツキがその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
世界そのものを背負っていた極限の緊張が解け、全身の力が抜けていく。エリシェヴァはそっと彼女の隣に座り、その冷たくなった手を両手で包み込んだ。
「よく頑張ったわね、ミツキ。……本当に、一人でここまで……」
「エリシェヴァ……。あたし、怖かった。みんながいなくなって、ここも壊されて、あたしだけが残されるのが……」
ミツキの瞳から、こらえていた涙が溢れ出した。
前世での孤独、そしてこの世界で背負わされた「巫女」としての重圧。それを分かち合える存在が今、自分の隣で温かな体温を伝えている。
「もう独りじゃないわ。……ライラも、ルークも、きっとどこかで戦ってる。この『花畑の世界』が保たれたなら、魂の糸はまだ繋がっているはずよ」
エリシェヴァは、空に浮かぶあの青い地球を見上げた。ノイズが消え、穏やかな輝きを取り戻したその映像は、まるで彼女たちを祝福するように、静かに夜の楽園を照らしていた。
黄金の光は去った。
だが、それは決して終わりではなく、より大きな戦いの前の、束の間の休息に過ぎないことを二人は予感していた。




