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第五話 花畑の世界


――懐かしい、匂いがした。

 

焦げた鉄の臭いでも、古い埃の匂いでもない。

それは、陽だまりの中で揺れる草花が放つ、胸が苦しくなるほど甘く、清らかな香り。

 

「……ん……」

 

ミツキはゆっくりと目を開けた。

頬を撫でる柔らかな感触に、まどろみの中から意識が浮上する。

 

(ここは……どこ……?)

 

視界を埋め尽くしていたのは、どこまでも続く「白い花」の海だった。

 

名前も知らないその花々は、薄く透き通った花弁を持ち、風もないのに寄せては返す波のように静かに揺れている。

空を見上げれば、そこには星の代わりに、無数の光る「泡」がゆっくりと流れ、その中心には、あの悲しいほどに青い地球ホシが、大きな月のように浮かんでいた。

 

「……きれい」

 

ミツキは吸い寄せられるように上半身を起こした。

足元には柔らかな土はなく、代わりに鏡のように透き通った「水面」が広がっている。けれど、不思議と足が濡れることはなく、一歩踏み出すたびに、水紋の代わりに光の粒子がパッと花開くように広がった。

 

「ルーク………エリシェヴァ、ライラ、セレスティアさん!」

 

声を上げてみるが、返事はない。

ただ、花たちがさわさわと擦れ合う衣擦れのような音だけが、耳を優しくなでる。

あれほど凄まじい崩壊の中にいたはずなのに、今のミツキの心は、なぎのような静寂に包まれていた。

 

「……一人になっちゃったんだ」

 

ポツリと漏れた言葉が、虚空に溶ける。

この景色は、かつて翁が見せてくれた彼岸花の世界にも似ていた。けれど、あちらが「死」と「厳粛」を象徴する場所だとしたら、ここはもっと脆く、儚い、「誰かの夢」の残骸のようだった。

ふと、足元の水面に自分の顔が映った。

そこに映っていたのは、今の「翁の巫女」としての凛々しい姿ではなく、制服を着て、俯きがちな目をしていた頃の、神崎美月の姿だった。

 

(あたし、本当は知ってる……)

 

ミツキは、空に浮かぶ青い地球を見上げた。

なぜ、魔法の世界の遺跡に、あんな映像があるのか。

なぜ、この花畑は、かつて自分が読んでいた絵本の世界にそっくりなのか。

 

(ラーヴァナは、何を救おうとしていたの……? ここは、あいつの……)

 

その時だった。

一面の白い花畑の中に、一箇所だけ、「鮮やかな赤」に染まった場所があることに気づいた。

それは、誰かがそこにいたことを示すような、小さな痕跡。

ミツキは予感に突き動かされ、白い波をかき分けてその場所へと駆け出した。


 どこまでも続く白い花をかき分け、ミツキは走った。

足元の水面を蹴るたびに、パシャリという音の代わりに「キィィン」と高く澄んだ、電子音のような音が響く。

空に浮かぶ巨大な地球が、冷たくも優しい青い光で彼女の背中を照らしていた。

 

(あそこだけ、色が違う……)

 

視界の端に捉えた「赤」は、近づくにつれてその形を鮮明にしていった。

それは、ミツキがよく知る花。翁の精神世界で、死体の山を覆い隠していたあの不吉な花――。

 

「……彼岸花?」

 

白い花畑の真ん中に、ぽっかりと空いた円形のスペース。そこだけに、血を流したような鮮やかな赤色の彼岸花が群生していた。

 

だが、翁の庭に咲くそれとは決定的に違う点があった。

ここの花は、触れれば壊れてしまいそうなほど透明な「光の糸」で編まれているように見えた。

ミツキはその中心に、何かが落ちているのを見つけた。

 

「これ……みんなと、買った……」

 

震える手で拾い上げたのは、アイン・アル・ハヤトの市場で、五人でお揃いで買った銀細工のブレスレットだった。

ルークが照れくさそうに腕に巻いていたものか、あるいはライラが大切そうに撫でていたものか。

本来なら壊れるはずのない銀の飾りが、ここではノイズを放ち、実体と虚像の間を激しく明滅している。

 

「みんな、近くにいるの? ルーク! エリシェヴァ!」

 

ミツキが叫んだその時、背後でカサリ、と花が揺れる音がした。

 

「――おねえちゃん。そんなところで、何してるの?」

 

ミツキの心臓が、跳ね上がる。

振り返った先に立っていたのは、白いワンピースを着た、十歳にも満たない一人の少女だった。

髪は長く、瞳はセレスティアと同じ不思議な銅色をしている。

 

「……あなたは? ここ、どこなの?」

 

ミツキの問いに、少女は答えず、ただ足元の赤い花を一輪摘み取った。少女の手が花に触れた瞬間、花の周りに「0と1」の数字が渦巻き、一瞬だけ、かつてのサントーン・カーシャヘルの光景が映し出された。

それは、窓辺で笑い合う親子の姿。

けれど、次の瞬間、その映像は砂嵐のように乱れ、真っ黒に塗りつぶされる。

 

「ここはね、王様が作った『ゴミ箱』だよ」

 

少女は無邪気な声で、残酷なことを言った。

 

「神様がいらないって言った思い出を、王様がこっそり拾って、ここに隠したの。でも、王様が疲れちゃったから、もうすぐここも全部消えちゃうんだって」

 

「王様……? それって、ラーヴァナのこと?」

 

ミツキが一歩踏み出すと、少女はひらりと身を翻し、花畑の奥へと走り出した。


 白い花の海が足元から溶けるように消え、代わりに現れたのは、息を呑むほど鮮やかな「生命の色彩」だった。

 

「おねえちゃん、こっちこっち!」

 

少女が楽しげに跳ね回ると、周囲の生い茂る巨大なシダの葉の陰から、鈴の音を何重にも重ねたような、不思議な歌声が響き渡った。

次の瞬間、色とりどりの光の粒が、霧のようにミツキの周りを舞い踊る。

 

「わっ……!? 何、これ……」

 

それは、半透明の羽を持った小さな精霊たちだった。彼らはミツキの腕や肩に寄り添い、温かな体温のような魔力を伝えながら、彼女を導くように一斉に飛び立つ。

精霊たちに導かれ、極彩色の花々が咲き乱れる密林の小道を抜けると、視界が劇的に開けた。

そこに広がっていたのは、どこまでも透明な碧い海に囲まれた、「幻想の島」だった。

 

「すごい……。地下の世界に、こんな場所があるなんて……」

 

ミツキは立ち止まり、目の前の情景に圧倒された。

切り立った断崖には、赤砂岩を幾層にも積み上げた精緻な石塔パゴダが立ち並び、それらを結ぶ細い橋には、美しい刺繍が施された布が海風を受けて優雅になびいている。

 

山の斜面には、鏡のような水面を湛えた「棚田」が幾重にも重なり、空に浮かぶあの青い地球の光を反射して、島全体が翡翠色に輝いていた。

 

「精霊さんたちはね、ここでお仕事をしてるんだよ」

 

少女が指差した先では、無数の精霊たちが空中に浮かぶ「光の糸」を紡いでいた。

 

彼らは何かを慈しむように、壊れ物を扱うように、その糸を複雑に編み上げている。その光景は、まるで見えない「生命」の形を整えているかのようだった。

 

「お仕事……? 何を編んでいるの?」

 

ミツキが問いかけると、少女は池のほとりに咲く大きな睡蓮を見つめ、静かに答えた。

 

「昔ね、とっても悲しいことがあったの。

大事なものがバラバラに壊されちゃって、みんなが泣いていた時に……王様がこの子たちを呼んだんだ。

『新しく、やり直すための形を作ってくれ』って」

 

精霊たちが紡ぐ光の糸が、一瞬だけ人の形を成し、すぐに淡い煙となって消えていく。

 

「ここはね、その時の『願い』がずっと残っている場所。

一度壊されたものが、もう一度息を吹き返すための、温かな揺り籠なんだよ」

 

精霊の一体がミツキの指先に止まり、微かな、けれど確かな心音を伝えてきた。

ミツキの胸の奥で、張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。ラーヴァナがこの「ゴミ箱」の最奥に隠したものは、単なる廃墟ではなく、再生への祈りだったのかもしれない。

しかし、その穏やかな静寂を、不快な音が切り裂いた。

 

ジジッ……。

 

「……!?」

 

ミツキが振り返ると、碧い海と緑の楽園の境界線に、「黄金の亀裂」が走っていた。

それは、美しい景色を無理やり剥ぎ取るような、暴力的なノイズ。

 

「あ……変な音がする。お外から、誰か来ちゃう……」

 

少女が怯えたようにミツキの服の裾を掴む。

精霊たちが一斉にざわめき立ち、編み上げていた光の糸が不吉に波打った。

 

この聖域のルールを無視し、力尽くで理をこじ開けてくる「異物」の気配。

ミツキは無意識に剣の柄を握りしめ、侵食が始まった空を睨みつけた。


 「……あ……ああ……」

 

少女の唇から漏れたのは、言葉ではなく、震える悲鳴だった。

パリン、と。

目に見えない「世界の殻」が砕けるような音が響くと同時に、碧い海と翡翠の棚田のあちこちで、取り返しのつかない変異が始まった。

 

「……何、これ……!? どうなってるの!?」

 

ミツキは息を呑んだ。

穏やかに波打っていた海面が、端から順に「黒い立方体のデータ」へと変質していく。それは波しぶきを上げることもなく、ただ無機質な幾何学模様となって、この世界の色彩を無慈悲に貪り食っていった。

 

 瑞々しく茂っていたシダの葉は、触れてもいないのに砂嵐のようなノイズを発し、真っ黒な影となって崩れ落ちる。空に浮かぶあの青い地球の映像さえも、激しいデジタルノイズに引き裂かれ、空にはドス黒い「システムエラー」の文字が不吉に浮かび上がった。

 

「逃げて! みんな、逃げてぇ!!」

 

少女が必死に叫ぶが、楽園を守っていた精霊たちの歌声は、今や耳をつんざく高周波のノイズへと変わっていた。

 

虹色の尾を引いて舞っていた精霊たちが、侵食してくる黒いデータに触れた瞬間、断末魔の代わりに「0」と「1」の数字を撒き散らして虚空へと消滅していく。

 

「おねえちゃん……いたい……いたいよ……」

 

ミツキの腕を掴んでいた少女の身体が、不規則に点滅を始めた。

その肌は透き通り、指先の方から、古い映像が途切れるように輪郭がぼやけていく。

 

「しっかりして! 今、あたしが……!!」

 

ミツキは咄嗟に少女を抱きしめようとした。だが、その手は虚しく空を切り、ノイズの冷気だけが掌に残る。

少女は、存在が消えかかりながらも、必死に島の中央にある石塔を指差した。

 

「……知らない何かが、扉を……無理やり、開けてる……。王様の……みんなの……大切なお庭が……壊されちゃう……」

 

その瞬間、空の亀裂から黄金の光が濁流となって降り注いだ。

 

それは温かな太陽の光ではない。どこか教皇アダムスの力にも似た「神聖さ」を装いながら、その実体は対象を冷酷に暴き、分解し、奪い去るための「掠奪の光」。

その光が精霊たちが編み上げていた「光の糸」を次々と断ち切り、一箇所へと強引に吸い寄せ始める。

 

(誰なの……!? 誰がこんな酷いことを……!!)

 

ミツキは歯を食いしばり、剣を抜き放った。

姿の見えない侵入者への、抑えきれない怒りが胸を焼く。

 精霊たちがこれほど慈しんで育ててきた世界。それを「資源」か何かのように食い散らかす存在が、どうしても許せなかった。

 

「……ミツキさん……ミツキさん……!!」

 

崩壊する大地の鳴動に混じって、どこか遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえた気がした。

だが、今のミツキの視界は、黒い立方体に飲み込まれていく碧い海と、不気味に輝く黄金の侵食に塗り潰されていた。


 「そんな……やめて……。やめてぇぇぇっ!!」

 

ミツキの叫びが、ノイズまみれの空に響き渡った。

足元から碧い海が消失し、虚無の黒が迫る。腕の中で透き通っていく少女の涙が、ミツキの胸を熱い憤りで焦がしていた。

 

(あたしに何ができる? 止めるだけじゃ足りない。壊すだけじゃ救えない!)

 

ミツキは目を閉じ、胸の奥深く、三つの権能が渦巻く中心へと意識を沈めた。

翁の「時」、ベルゼブブの「破壊」、そして――アスタロトから授かった『生命の権能』。

かつて翁は言っていた。この力は「命を高め、繋ぐ力」だと。

 

(だったら、あたしがこの世界の『命』をつなぎとめればいい……!)

 

「みんな、あたしに力を貸して!!」

 

ミツキが剣を地面に突き立て、生命の権能を全開放した。

彼女の体から、眩いばかりの紅い光が溢れ出す。それは破壊の炎ではなく、脈動する血管のように、島の隅々へと伸びていく「魂の糸」だった。

 

ミツキは自分の精神を削りながら、消えゆく精霊たち、そして震える少女の「意識」を、強引に自分へと繋ぎ止めた。

 

「『命』のことわりよ……。バラバラになった記憶を、もう一度編み直せ!!」

 

ミツキの紅い光が、侵食してくる黄金の光と激突する。

驚くべきことが起きた。黒い立方体データへと変わり果てていた海面が、ミツキの放つ生命の拍動を受けて、再び瑞々しい碧色を取り戻し始めたのだ。

 

「あ……あ……おねえちゃん、あったかい……」

 

消えかかっていた少女の輪郭が、ミツキの魔力によって「上書き」され、再び確かな実体を結ぶ。

ミツキはさらに、翁の権能を併用した。だが、今度は時間を「止める」ためではない。

 

「――『固定』!!」

 

黄金の掠奪が及ぶ範囲を、自分の「時間」の枠組みの中に閉じ込め、侵食の速度を極限まで遅延させる。

生命の権能で世界を修復し、時の権能で崩壊を繋ぎ止める。二つの超常的な力がミツキを媒介に混ざり合い、崩壊寸前だった楽園は、不自然なまでの「静止した再生」を遂げていった。

 

「……はぁっ、はぁっ……!!」

 

ミツキの額から脂汗が滝のように流れる。

世界そのものを背負うような圧倒的な負荷。精神の壁がミシミシと音を立てて軋む。

だが、空の亀裂から降り注ぐ黄金の光は、この「命の拒絶」に抗うように、さらに不気味な輝きを増した。

 

「まだ止まらない……。誰だか分からないけど、この光の向こう側に、あたしたちをただの『モノ』として壊そうとする、すごく冷たい意志を感じる……」

 

ミツキは歯を食いしばり、剣を握り直した。

とりあえずの崩壊は止めた。少女も精霊も、ひとまずは無事だ。

だが、この得体の知れない「侵入者」を退けない限り、この場所がいつまで保つか分からない。

 

「大丈夫だよ。あたしが、絶対に守り抜いてみせるから」

 

ミツキは、再び実体を取り戻した少女に微笑みかけた。

その瞳には、もう孤独も、前世の無力感もない。守るべきもののために、彼女は今、独りでその「意志」と対峙していた。

 

その頃、黄金の光の供給源――この世界の「中枢」では、想定外の抵抗に直面した『侵入者』が、苛立ちを冷酷な笑みへと変えようとしていた。

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