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第七話 翁との対峙

 空間を裂く感触は、いつだって不愉快だ。

特に、この「死」と「過去」の臭いが染み付いた場所へ足を踏み入れる時は、反吐が出る。

 

 ジャリ……。

 ラーヴァナは、革靴の底で真っ赤な花を一つ踏み潰し、その「陰気な庭」に降り立った。

 視界を埋め尽くす彼岸花。

 空には星も月もなく、代わりに虹色に煌めく「無数の泡」が、底なしの虚空をゆらゆらと漂っている。

 

 その一つ一つが、異なる世界、異なる時間の夢を映し出す記憶の泡沫。

 そして、世界の中心で墓標のようにそびえ立つ、巨大な黒い樹。

 

「……ケッ。相変わらず趣味の悪い場所だぜ」

 

 ラーヴァナは黄金の装飾品をジャラつかせながら、大樹の根元へと歩を進めた。

 そこには、一人の男が立っていた。

 質素な黒い法衣。腰まで伸びた黒髪。

 この世の全ての色彩を吸い込んだような、底知れぬ静寂を纏った青年――翁。

 彼はラーヴァナが近づいても、微動だにしなかった。

 驚きも、焦りもない。ただ、最初から訪問者が来ることを予期していたかのように、黄金の瞳で静かにこちらを見下ろしている。


「よう、久しぶりだな。……『元』ご主人様よ」

 

 ラーヴァナは、挑発的に片手を挙げた。

 だが、翁は挨拶を返す代わりに、氷点下の声音で呟いた。

 

「……騒がしい雑音が紛れ込んだと思えば。やはり、お主か」

 

 翁の視線が、ラーヴァナを射抜く。

 物理的な衝撃波ではない。だが、その視線だけで周囲の空気が鉛のように重くなり、咲き乱れる彼岸花が一斉に首を垂れる。

 「神」として格の違いを見せつける、圧倒的な威圧感プレッシャー

 

「サントーン・カーシャヘルからの、強烈な干渉波……。そして、私の巫女ミツキとの接続断絶。

 ……全てお主の仕業だな? ラーヴァナよ」

 

 翁は問いかけるのではない。事実を淡々と確認し、罪状を読み上げる裁判官のように告げた。

 

「ああ、そうだぜ。

 お前の大事な『お気に入り』は、俺が預からせてもらった。

 ……返してほしけりゃ、ここまで取りに来るんだな。ま、ここから出られない『引きこもり』のテメェには無理だろうがな?」

 

 ラーヴァナがニヤリと笑う。

 だが、翁の眉はピクリとも動かない。彼はラーヴァナの挑発を無視し、さらに別の罪を指摘した。

 

「それだけではないな」

 

「あ?」

 

「先の『太陽のカラート・シャムス』での一件……。

 ウリエルが暴走し、街が偽りの太陽に焼かれかけたあの騒動。……あれの引き金を引いたのも、元を辿ればお主であろう?」

 

 翁は静かに、けれど逃げ場のない正論を突きつけた。

 

「お主が造り出した娘――セレスティア。

 あの娘が持つ『無敵』の権能が、ウリエルを過剰に刺激し、あの土地の因果を歪めた。

 ……回り回って、お主の撒いた種が、私の巫女や現世に多大なる迷惑をかけていると自覚はあるか?」

 

 娘の暴走も、ミツキの誘拐も。

 すべてはお前の不始末だ、と。

 

 翁は声を荒らげることなく、ただ「ことわり」として断罪した。

 

「……私の庭を荒らし、あまつさえ我が巫女に手を出すとは。

 かつては私の最も忠実な使徒だったお主が、随分と『俗』な真似をするようになったものだ。

 ……その驕り、未だ矯正できておらぬようだな」

 

 ゴゴゴゴゴ……。

 

 空間が軋む。

 翁の背後から、漆黒の神気がオーラのように立ち上る。

 それは、ただそこに在るだけで魂を消滅させかねない、純粋な神威そのものだった。


 ピキ、パキキッ……!

 

 神気が空気を圧縮し、ラーヴァナの黄金や宝石の装飾品が悲鳴のような音を立てて亀裂を生む。

 だが、ラーヴァナは膝を屈しなかった。

 それどころか、顔に張り付いた嘲笑をさらに深め、わざとらしい拍手を送ってみせた。

 

「ハッ、流石は元天上神様だ。

 睨んだだけで空間がひび割れちまう。相変わらず、迷惑なほどデカい出力してやがるぜ」

 

「……戯言を」

 

「戯言? いいや、本心だぜ。

 あんたはすげぇよ。絶対的で、最強で、完璧だ。

 ――かつて俺が、この世の全てを捧げて崇拝した通りにな」

 

 ラーヴァナの声から、ふと軽薄さが消えた。

 その瞳に宿るのは、深い失望と、決して消えることのない怨嗟の炎。

 

「俺はあんたの『忠実な使徒』だった。

 あんたの説く理を信じ、あんたの為に働き、あんたの為に戦った。

 ……だのになぁ、ご主人様」

 

 ラーヴァナは一歩、翁に詰め寄った。

 

「あの日……俺の妹が冷たくなったあの日、あんたが俺になんて言ったか、忘れたとは言わせねぇぞ」

 

 翁は答えない。ただ、悲しげに目を細めるだけだ。

 その沈黙すらも、ラーヴァナの神経を逆撫でする。

 

「俺の必死の祈りを、あんたは『運命』だの『理』だの……そんな冷めきった言葉一つで切り捨てやがった」

 

「……それは」

 

「言い訳は聞きたかねぇよ。

 あんたにとっては、数ある命の瞬きの一つに過ぎなかったんだろうさ。

 ……だがな、俺にとっては『全て』だったんだよ」

 

 ラーヴァナは吐き捨て、憐れむような目で翁を指差した。

 

「――だから、あの時俺は決めたんだ。

 あんたら神になんぞ頼らねぇ。俺自身の力で、理をねじ曲げてでも『悲願』を成就させてやると公言したはずだ。

 ……見ろよ、今のあんたを。最強の神? 笑わせるな」

 

 ラーヴァナは両手を広げ、この閉鎖された空間(精神世界)を仰いだ。

 空には星も月もなく、ただ無数の泡が空虚に漂っているだけ。

 

「あんたは強すぎた。

 その力はあまりに強大で、純粋すぎる。

 だから、うかつに人間界したへ降りれば、その質量だけで世界が壊れちまう。

 ……そうだろ?」

 

 図星だった。

 

 翁が沈黙する。

 この神は、現世という器には収まりきらない「劇薬」なのだ。彼が受肉して地上に降りれば、救うはずの世界そのものが崩壊の危機に晒される。

 

 だからこそ、彼はこうして夢の狭間に留まり、ミツキのような「代行者」を通じてしか干渉できない。

 

「哀れなもんだな、神様。

 自分の巫女が掠われたってのに、その『強すぎる力』が邪魔をして、助けに行くことすらできねぇんだからよォ!」

 

 ラーヴァナは腹を抱えて笑った。

 それは、かつて信仰した神への決別であり、自分を見捨てた理への勝利宣言でもあった。


 ひとしきり笑うと、ラーヴァナはふと真顔に戻り、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「……ま、安心しな。

 俺も鬼じゃねぇ。あの娘らを、殺してミンチにするつもりはねぇよ」

 

 ラーヴァナは踵を返し、背中越しに手を振った。

 

「あの『お人好し』な巫女チャンには、少しばかりサントンカーシャヘルを観光ツアーさせてやるさ。

 ……永遠を求めた成れの果てをな。」

 

「……」

 

「ただし――あのヴィクラムって野郎だけは別だがな。

 あいつには、地獄を見てもらう」

 

 ラーヴァナの姿が、ノイズのようにブレ始める。

 この精神世界への干渉時間が限界に来たのだ。

 

「じゃあな、ご主人様。

 高みの見物でも決め込んでな。指くわえて、自分の無力さを噛み締めながらよォ!」

 

 フッ、と。

 嘲笑の残響を残し、ラーヴァナの姿は掻き消えた。

 後に残されたのは、再び訪れた静寂。

 そして、泡のように揺らめく無数の記憶と、彼岸花だけ。


 翁は、ラーヴァナが消えた空間を静かに見つめていた。

 その瞳から、感情の色が消える。

 代わりに宿ったのは、神代の時代に恐れられた「天上神」としての、冷徹な実行力だった。

 

「……確かに、私は動けぬ。

 この身が地上に降りれば、それだけで世界が崩壊する故にな」

 

 翁は、虚空に向かって片手をかざした。

 そこには、ミツキへと続くはずの道が、見えない「壁」によって遮断されているのが感じ取れる。

 科学と魔法が融合した、ラーヴァナ特製の強固な絶縁結界。

 

「だが――この私が、ただ指をくわえて見ていると思ったか?

 傲慢なのはお主の方だ、ラーヴァナ」

 

 バヂィッ!!

 翁の手から、漆黒の雷のような神気が迸り、見えない壁へと突き刺さった。

 空間が悲鳴を上げる。

 力任せの破壊ではない。神の演算能力を使い、この異質な「科学の結界」を解析し、外側から解体しようとしているのだ。

 

「お主が作った『文明』の檻が勝つか……私の『理』が勝つか、勝負と行こうではないか」

 

 額に玉のような汗が浮かぶ。

 ミツキを守る防壁を壊さぬよう、かつ確実に敵の妨害だけを焼き切る精密な作業。それは神にとっても骨の折れる難行だ。

 だが、翁は手を下ろさない。

 

「待っていろ、ミツキ。

 必ず、繋いでみせる。

 この私が……お主を一人になどさせておくものか」

 

 黄昏の世界に、バチバチと火花が散る音が響き渡る。

 神は祈るのをやめた。

 ただ愛する巫女のために、その全霊を持って「道」を切り拓く戦いを始めたのだった。

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