第五話 ミツキ、誘拐される
あれからアイン・アル・ハヤトでの滞在も、今日で三日目を迎えていた。
窓から差し込む朝日は変わらず穏やかで、湖面を渡る風は涼しい。
だが、宿の部屋で荷物をまとめるヴィクラムの背中からは、隠しきれない高揚感と、張り詰めた緊張感が漂っていた。
「……よし。解析は完了した」
ヴィクラムは、机の上に広げていた数枚の羊皮紙と、複雑な計算式が書かれたメモを乱雑にまとめた。
その瞳は充血しているが、疲労よりも目的達成への執着が勝っているように見える。
「時空の周期、砂嵐の切れ間、そして『防衛システム』の死角……。全て計算通りだ。これなら行ける」
彼は満足げに頷くと、食堂で待つミツキたちの元へと降りていった。
「お待たせ。準備は整ったよ」
ヴィクラムは、いつもの柔和な父親の顔で微笑んだ。
「出発は明日の早朝だ。ラクダと水、食料の手配は済ませてある。……いよいよだね、セレスティア」
「はい、お父様……!」
セレスティアが不安と期待の入り混じった顔で頷く。
ついに、自分の力の謎を解き、制御するための旅が始まるのだ。
「今日は英気を養うために、ゆっくり過ごすといい。私も最終確認をしておくよ」
そう言ってヴィクラムは自室へ戻っていった。
残されたミツキたちは、最後の休息日を過ごすことになったのだが――。
――――
その日の午後。
ミツキは一人、宿のテラスでぼんやりと湖を眺めていた。
ルークとセレスティアは市場へ追加の買い出しに、エリシェヴァとライラは旅の保存食を作りに行っている。
(……おかしい)
ミツキは、胸元の服をぎゅっと握りしめた。
そこにあるはずの「繋がり」が、まるで感じられないのだ。
あの日、市場で電子基板を見つけた夜から――。
ミツキは当然、夢の中で翁に会えると思っていた。
これまでも、新しい土地に行ったり、重要なアイテムを手に入れたりした時は、必ずと言っていいほど翁が夢に現れ、助言や警告をくれたからだ。
『ほう、奇妙なものを拾ったな』とか、『心して行け』とか。
何かしらの言葉があるはずだった。
けれど――その夜、ミツキが見たのは、ただの暗闇だった。
あの懐かしい彼岸花畑も、黒い大樹も現れず、ただ泥のように眠り、朝を迎えた。
(昨日は、疲れてたからかなって思った。でも……)
二日目の夜も。そして昨晩も。
翁は現れなかった。
夢を見ないだけではない。起きている時でさえ、常に心の奥底に感じていた「翁の気配」――守護者としての温かくも冷徹な視線が、ぷっつりと途切れているのだ。
まるで、回線の切れた電話機を握りしめているような、頼りない感覚。
「……翁? 聞こえてる?」
小声で呼びかけてみる。
返事はない。ただ、湖面を渡る風の音だけが虚しく響く。
こんなことは初めてだった。
転生してからずっと、彼はミツキを見守っていた。どんな窮地でも、あるいは平和な時でも、その繋がりだけは絶たれたことがなかったのに。
(……もしかして、あの基板と関係があるのかな?)
ミツキはポケットから、市場で拾った緑色の板きれを取り出した。
金色の回路が走る、電子基板。
この世界にあるはずのない、科学の欠片。
これを手にしてから、翁の声が届かなくなった。
いや、正確には――「サントーン・カーシャヘル」へ向かうと決めてから、翁の気配が遠ざかっている気がする。
「……不吉な予感がする」
ミツキは基板を強く握りしめた。
東の空を見る。その先には「死の砂漠」があり、その向こうに目的の遺跡がある。
そこは、神様(翁)の目さえ届かない場所なのではないか。
神の理が通じない、全く別のルールで動いている場所なのではないか。
「ミツキさーん! 何してるのですかー?」
下からライラの明るい声がした。
見下ろすと、買い出しから戻ってきたみんなが手を振っている。ルークが荷物を抱え、セレスティアが楽しそうに笑っている。
「……ううん、なんでもない!」
ミツキは慌てて基板を隠し、笑顔を作って手を振り返した。
この不安を口にして、みんなを怖がらせたくない。
ヴィクラムさんも、セレスティアのために一生懸命準備してくれているのだ。水を差すようなことは言えない。
(……大丈夫。翁の声が無くても……あたしは戦える)
ミツキは自分に言い聞かせるように呟き、テラスを降りていった。
だが、背中に感じる「断絶」の冷たさは、砂漠の熱気の中でも消えることはなかった。
――――
深い眠りの底で、ミツキの意識はふわりと浮上した。
鼻をくすぐるのは、懐かしい甘い香り。
目を開けると、そこには見慣れた光景が広がっていた。
虚空にそびえる巨大な黒い樹。
足元を埋め尽くす、燃えるような彼岸花。
二つの月が照らす、永遠の夕暮れの世界。
「……あ」
ミツキは大きく息を吐き出し、胸を押さえた。
心臓が早鐘を打っていたのが、嘘のように静まっていく。
(よかった……。夢、見れた)
ここ数日続いていた「断絶」の孤独感が、一気に溶けていく。
圏外だった携帯が繋がったような、暗闇で灯りを見つけたような安堵感。
大樹の根元には、いつものように彼が立っていた。
長い黒髪に、褐色の肌。黄金の瞳で静かにこちらを見つめる青年――翁。
「……遅かったではないか、ミツキ」
その声を聞いた瞬間、ミツキの目頭が熱くなった。
「翁……! よかった、本当に……!」
ミツキは駆け寄り、彼の前で足を止めた。
「ずっと声が聞こえなくて……夢も見なくて。あたし、何か悪いことしたのかって、見捨てられたのかって……すごく怖かったんだから!」
「ふん。泣くでない」
翁は呆れたように肩をすくめ、ミツキの頭に手を置いた。その手は冷たく、けれど確かにそこに在る感触があった。
「ここ数日、この周辺の『磁場』が乱れていてな。私の干渉さえも弾くノイズが走っていたのだ。……お主が無事で何よりだ」
「磁場……? やっぱり、あの基板とか、この場所のせい?」
「かもしれぬな。……して、ミツキ。お主たちはこれから『東』へ向かうつもりであろう?」
翁の方から話を切り出してきたことに、ミツキは少し驚いたが、すぐに真剣な顔で頷いた。
「うん。ヴィクラムさんが、セレスティアさんの力を制御する方法を探すために、サントーン・カーシャヘルに行こうって。……あそこには、古代の施設があるらしいの」
「ほう……サントーン・カーシャヘル、か」
翁は顎に手を当て、少し考え込むように目を細めた。
「悪くない判断だ。あそこはかつて『文明の魔王』が支配し、天上の理に背いて独自の技術体系を築いた場所。……神の呪縛から逃れるための鍵が、あそこには眠っている」
「やっぱり! じゃあ、行っても大丈夫なんだね?」
ミツキは顔を輝かせた。
翁が肯定してくれた。それが何よりの自信になる。不安だった「オーパーツ」の不気味さも、翁が知っているのなら恐れることはない。
「ああ、行くがいい。……特に、そのヴィクラムという男。彼に従えば、間違いなく『真実』にたどり着けるだろう」
「……え?」
ミツキの笑顔が、ふと固まった。
(ヴィクラムさんに……従え?)
違和感の種が、ぽつりと落ちた。
翁は、いつだって「お主の意志で決めろ」と言う人だ。誰かに従うことを良しとせず、ミツキ自身の選択を尊重してきた。
それに、翁は基本的に人間に対して無関心か、あるいは冷ややかだ。会ったこともないヴィクラムという個人を、ここまで具体的に信頼し、推奨するだろうか?
「……翁? ヴィクラムさんのこと、知ってるの?」
「……我が息子、ムルガンから聞いている。娘想いの、良き父親であろう? 彼の手引きがあれば、あの厄介な『結界』も容易く抜けられるはずだ」
翁は穏やかに微笑んだ。
その笑顔は完璧だった。慈愛に満ちていて、いつもの翁そのものだ。
なのに、ミツキの背筋に冷たいものが走った。
(ムルガンさんが……「良き父親」なんて報告するかな?)
ムルガンは、ヴィクラムに対してどこか警戒しているようだった。それに、翁が「厄介な結界」なんて言い方をするだろうか。彼は神をも殺す力を持つ存在だ。人間の作った結界など、歯牙にもかけないはずなのに。
ミツキは、握りしめた手に汗が滲むのを感じた。
決定的な違和感は、次の言葉だった。
「安心しろ、ミツキ。サントーン・カーシャヘルに行けば、全てが終わる。
忌々しい天上神共の祝福も……ヴィクラムの妄執も、全てな」
「……え?」
今、なんて言った?忌々しい祝福? ヴィクラムの妄執?
翁の口調から、ふっと「師匠の厳しさ」が消え、代わりに粘着質な「私怨」と、奇妙なほど強い「執着」のような響きが混じった。
「お、翁……? なんか、変だよ。いつもの話し方と違う……」
ミツキが一歩後ずさる。
すると、翁の黄金の瞳が、爬虫類のように細められた。
「変? 何がだ? 私はお前のために助言をしているのだぞ。
……さっさとあの男を連れて行けと言っているんだ。あの薄汚い裏切り者を、処刑台へな」
声が変わった。
理知的なバリトンから、もっと若く、荒々しく、そして底知れない知性と悪意を含んだ声へ。
「処刑台って……翁、あなた、誰……?」
ミツキが震える声で問うと、目の前の「翁」は、堪えきれないといった様子で、肩を震わせて笑い出した。
「クク……ハハハッ! あーあ、バレちまったか。
やっぱり無理があったかねぇ、あの石頭の真似をするのは」
バヂィッ!!
空間にノイズが走り、彼岸花の世界に亀裂が入る。
「翁」の姿がブレて、崩れていく。
黒い長髪が短く逆立ち、質素な法衣が、宝石を散りばめた豪奢な装飾過多の衣装へと塗り替わる。
そこに立っていたのは、翁ではなかった。
健康的な褐色の肌に、傲岸不遜な笑みを浮かべた青年、そしてセレスティアにそっくりな銅色の目。
頭には王を象徴する巨大な黄金の冠を戴き、首や腕にはジャラジャラと重そうな真珠や黄金の装飾品を巻き付けている。
「よォ、初めましてだな。『新しい巫女』チャンよぉ」
「あ、あ、あなたは……!」
ミツキはその姿に見覚えがあった。
カルデア・ザフラーンで見たトッサカンの主。そして、サントンカーシャヘルの遺跡に記されていた姿。
「文明の魔王……ラーヴァナ!?」
「御名答。……チッ、それにしてもムカつく空間だなおい」
ラーヴァナは、足元の彼岸花を苛立たしげに踏み潰した。
「相変わらず陰気くせぇ趣味してやがる。彼岸花だぁ?
いつまでテメェが殺した神々の思い出に浸ってやがる、あのボケ老人が」
彼は翁の精神世界を汚い言葉で罵ると、ミツキを値踏みするように見下ろした。その瞳には、知性と暴力性が同居した、特有の光が宿っている。
「で? お前らがコソコソ行こうとしてるサントーン・カーシャヘルだがな。
あそこは俺の庭だった。俺が心血注いで作り上げた、最高傑作――。」
ラーヴァナは一歩、ミツキに近づく。
圧倒的な圧迫感。精神世界だというのに、本物の熱気が肌を焼くようだ。
「テメェらみたいな羽虫が、勝手に土足で踏み込んでいい場所じゃねぇんだよ。
……特に、あのヴィクラムって野郎はな」
ヴィクラムの名を口にした瞬間、ラーヴァナの顔が、天上神へ向けるものと同質の憎悪に歪んだ。
「あいつだけは許さねぇ。
命を道具としか思わねぇあのクソ親父は、俺から全てを奪った天上神と同じだ。
絶対に、この手で灰にしてやる」
「な、何の話……! ヴィクラムさんはセレスティアさんのお父さんで……!」
「ハッ! 父親だぁ? 笑わせんじゃねぇぞ」
ラーヴァナは嘲笑し、ミツキの顔を覗き込んだ。
「いいか小娘。お前は何も知らねぇ。
あの男が何を企んでるかも……あそこ(サントーンカーシャヘル)に、天上神どもが何を封印したかもな。
……ま、教えてやる義理もねぇが」
ラーヴァナが指を鳴らす。
「ここは俺の領域じゃねぇからな。長くはお邪魔できねぇ。
だから――場所を変えようぜ?」
ガゴォッ!!
ミツキの足元の地面が、突如として消失した。
彼岸花畑が割れ、底なしの暗闇が口を開ける。
「きゃあっ!?」
落下する感覚。
ミツキは必死に何かを掴もうとするが、手は空を切る。
「きゃああああ!?落ちるっ!助けて!」
ミツキの叫びに、ラーヴァナはしゃがみ込み、ニヤリと底意地の悪い、けれどどこか嘲るような笑みを浮かべた。
「……いいか? あのヴィクラムって男は狂ってやがる。テメェみたいな『お人好し』が一番、骨の髄まで利用されてポイ捨てされるのがオチだぜ」
「え……?」
ラーヴァナが、落ちていくミツキを見下ろしてニヤリと笑った。
「だから、これは俺様の『慈悲』だ。
あのクソ野郎の魔手から、お前を隔離ってやるって言ってんだよ。感謝しな」
ラーヴァナは、しがみつくミツキの指を、靴のつま先で軽く小突いた。
「それに――何より、あのボケ老人(翁)への『嫌がらせ』に丁度いい」
彼の黄金の瞳が、私怨の暗い光を帯びる。
「精神の深淵まで付き合ってもらうぜ。
お前のその『能天気な脳ミソ』に、天上神のいない世界……本当の『文明』の絶望を叩き込んでやるよ」
「いやあああああぁぁぁっ――!!」
ミツキの意識は、翁の守護する領域から引き剥がされ、ラーヴァナが支配するドス黒い精神の濁流へと飲み込まれていった。
断絶していたのは、電波が悪かったからではない。
回線そのものを、この魔王に乗っ取られていたのだ。
ミツキの絶叫が闇に消え、後には踏み荒らされた彼岸花だけが残されていた。




