第三話 太陽の街との別れ
カラート・シャムスに、眩しい朝が定着しつつあった。
瓦礫の撤去作業が進む街は、人々の掛け声と再建への槌音で活気に満ちている。
神殿前の広場。
旅立ちの準備を整えたミツキたち一行の前に、ロクサーナが見送りに現れた。
その背後には、多くの住民たちが名残惜しそうに集まっている。
「……行くのね」
ロクサーナは、いつもの冷ややかな調子を崩さずに言った。だが、その瞳には隠しきれない感謝の色が揺らめいている。
「うん。ロクサーナさんも、大変だと思うけど……頑張ってね」
ミツキが笑顔で手を差し出すと、ロクサーナは少し躊躇ってから、その手を強く握り返した。
薬草の匂いが染み付いた、温かい手だった。
「心配無用よ。この街は私と……パズズ様が守るわ」
彼女が胸元の護符に触れると、そこから低い声が響いた。
『ああ。境界の掟がある故、私は魔界へ戻らねばならんが……私の力はこの地に残す。我が契約者よ、存分に振るうがいい』
パズズの声と共に、ロクサーナの影が揺らぎ、魔王の気配がふっと遠ざかった。
彼は本体を魔界へと戻し、ロクサーナとのパス(魔力回路)だけを残して、遠隔地から街の結界を維持する形をとるようだ。
「……じゃあ、僕もそろそろ行こうかな」
不意に、エリシェヴァの足元の影がぐにゃりと歪み、そこから聞き覚えのある声が響いた。
ベルゼブブだ。姿は見せず、影を媒介にして話しかけてきている。
「……ベルゼブブ様? あなたも戻るのですか?」
エリシェヴァが自身の影に向かって問いかける。
『ああ。どうも魔界の方が騒がしくてね。……アスタロトが何やら嗅ぎ回っているようだし、少し本体の方で対応しなきゃいけないんだ』
影が肩をすくめるように揺らめいた。
彼が気にしているのは、まさにアスタロトがラーヴァナの国へ向かった件だろう。
『エリシェヴァ、死ぬんじゃないよ。君の魂はまだ熟成中なんだからね。……私の意識が離れている間も、契約の力は使えるようにしておくから』
「ええ、わかっています。……あなたこそ、向こうで食べ過ぎてお腹を壊さないようにね」
エリシェヴァが母親のように窘めると、影からは『ハハッ、手厳しいね』と愉快そうな笑い声が聞こえ、やがてその気配はスッと消え失せた。
二柱の魔王が去り、場には少しの静寂が訪れる。
「さて。……湿っぽい別れは趣味じゃない」
沈黙を破ったのは、ムルガンだった。
彼は愛槍『ヴェール』を肩に担ぎ、西の方角――砂漠の彼方を指し示した。
「アイン・アル・ハヤトへ戻るぞ。俺も、一度国へ戻って報告せねばならんからな。途中まで送ってやる」
「ムルガン様、本当に何から何まで……」
ロクサーナが深く頭を下げる。
「気にするな。お前は、お前の戦いをしろ」
ムルガンは短く告げると、ミツキたちに背を向け歩き出した。
「じゃあね、ロクサーナさん! みんなも!」
「お元気で!」
ミツキとライラが大きく手を振る。
セレスティアも、何度も振り返りながら頭を下げた。
「ありがとうございました……! どうか、お元気で……!」
住民たちの「ありがとう!」「元気でな!」という声援を背に、一行は復活した太陽の下、カラート・シャムスを後にした。
――――
帰路は、往路とは比べ物にならないほど穏やかだった。
ムルガンの先導があるおかげで魔獣も寄り付かず、数時間の砂漠の旅を経て、見慣れたオアシス都市の城壁が見えてきた。
アイン・アル・ハヤト。
砂漠の中継地点であり、活気あふれる商人の街。
「着いたー! 帰ってきたよー!」
ミツキが大きく伸びをする。
城壁を抜けた瞬間、スパイスの香りと市場の喧騒が押し寄せてきた。
死と静寂に支配されていたカラート・シャムスから戻ると、この騒がしささえ愛おしく感じる。
「まずは宿ね。あの女将さんの料理が恋しいわ」
エリシェヴァが微笑む。一行は、この街での拠点としていた宿屋へと足を向けた。
カラン、カラン。
扉を開けると、昼時ということもあり、食堂は賑わっていた。
カウンターの奥で豪快に指示を飛ばしていた恰幅の良い女将が、ミツキたちの姿に気づいて目を丸くした。
「あら! あんたたち、生きてたのかい!」
女将は布巾を放り投げ、カウンターから飛び出してきた。
「よかった! 東の空がずっと暗いままだったから、心配してたんだよ。まさか、あの呪われた街で野垂れ死んだんじゃないかってね」
「あはは、危ないところでしたけど……なんとか」
ミツキが苦笑いすると、女将は「運のいい子たちだねぇ」と安堵の息を吐き、そして――ミツキたちの後ろに立っていた、褐色の偉丈夫に目を留めた。
「おや? そっちの兄さんは」
女将の言葉が止まる。
その視線は、ムルガンの顔ではなく、彼が背負頭に飾られた美しい孔雀の羽に釘付けになっていた。
「その槍……それに、孔雀の飾り……」
女将の顔色がさっと変わる。それは驚きを超え、畏敬の念を含んだものだった。
彼女は震える声で、店の奥にある古びたタペストリーを指差した。そこには、一人の戦士が槍を振るい、天からの侵略者を追い払う姿が描かれている。
「まさか……。この街に伝わる『救世の英雄』様……?」
その声は、食堂のざわめきを一瞬で消し去るほど鋭く響いた。
食事をしていた客たちが、一斉にムルガンを見る。
そして、その特徴的な姿と、タペストリーの絵を交互に見比べ――。
「お、おい! 本当だ! 伝承の通りの姿だぞ!」
「馬鹿な……あれは何十年も前の話だぞ!? でも、あの神気……ただの人間じゃねえ!」
店中が総立ちになる。
かつて、天の使い(教会)の侵略からこの街を守り、ジンたちとの共存を可能にした伝説の戦士。
この街の人々にとって、彼は信仰の対象そのものなのだ。
「えっ? ええっ!?」
ミツキが目を白黒させる中、女将がおずおずとムルガンに問いかける。
「あ、あんた……いや、貴方様は、まさか……」
注目を浴びたムルガンは、やれやれといった様子で肩をすくめた。
「……随分と昔の話だ。対教会の遠征の折、補給のために立ち寄った際、騒がしい天使どもがたかっていたのでな。ついでに追い払ったに過ぎん」
彼は否定しなかった。
その瞬間、店内で、いや、街全体が揺れるような歓声が爆発した。
「おおおおおっ!! ご本人様だぁーっ!!」
「英雄様が帰ってきたぞ!!」
人々が雪崩を打って押し寄せる。
「握手してください!」
「俺の爺さんが昔見たって!」
「ありがとう、あんたのおかげで俺たちは!」
誰もが彼に触れようと手を伸ばすが、その足はムルガンの数歩手前でピタリと止まった。
拒絶されたわけではない。彼が纏うあまりにも高貴で研ぎ澄まされた空気に、本能が「これ以上気安く近づいてはいけない」と悟り、自然と道を開けてしまったのだ。
「ムルガンさん……まさか、女将さんが話してくれた『謎の戦士』って……」
ミツキが呆然と呟くと、ムルガンは涼しい顔で答えた。
「食事の邪魔をされるのが嫌いなだけだ」
「そ、そんな理由で……」
ルークが呆れつつも、感心したようにムルガンを見る。
この街が平和な理由。それは、この最強の軍神が睨みを利かせていたからこそだったのだ。
「英雄様! どうか、最高の酒と料理を振る舞わせてください! お代なんていりません!」
女将が涙ぐみながら叫ぶ。
しかし、ムルガンは首を横に振った。
「気持ちだけ受け取っておく。……俺は国へ戻らねばならん」
彼は店の出口へと向かう。人々が自然と道を空け、深々と頭を下げる。
まるで王の凱旋のような光景だった。
「ミツキ、ルーク、お前たちもだ」
去り際、ムルガンは振り返り、ニヤリと笑った。
「また会おう。……それまで、死ぬなよ」
短い言葉を残し、孔雀の羽飾りを揺らして、彼は人波の向こうへと消えていった。
後に残されたのは、興奮冷めやらぬ街の人々と、とんでもない神様と一緒に旅をしていたのだと改めて実感し、脱力するミツキたちだった。
「……すごい人だったんだね、やっぱり」
ライラが呟く。
その言葉に、誰もが深く頷いた。
――――――
ムルガンが去った後も、宿の興奮は収まらなかった。
だが、女将は「英雄様のお連れさんたちを、これ以上疲れさせちゃバチが当たるね!」と他の客を制し、ミツキたちを宿で一番広い上等な部屋へと案内してくれた。
「さあ、お湯もたっぷり沸かしておいたよ! 汗と砂を流してきな! その間に、とびっきりのご馳走を用意しておくからね!」
女将の言葉に、ミツキとライラは顔を見合わせ、「「お風呂だー!!」」と歓声を上げて浴室へ飛び込んでいった。
ルークやエリシェヴァ、そしてセレスティアも、苦笑しながらそれに続く。
久しぶりの湯船。こびりついた砂と血の匂いを洗い流せる幸福に、少女たちの頬が緩んだ。
そして、湯上がりの彼女たちを待っていたのは、テーブルが埋まるほどの色鮮やかな料理だった。
スパイスの効いた羊肉の串焼き、野菜がたっぷり入ったクスクス、焼きたてのナン、そして冷えた果実水。
「い、いただきますっ!」
ミツキがスプーンを口に運ぶと、その目からポロポロと涙がこぼれた。
「んん~っ! やっぱりおいしい……! あったかい……!」
カラート・シャムスでは、硬い携帯食料か、砂の混じった水しか口にしていなかった。
温かい手料理の味が、疲弊した五臓六腑に染み渡っていく。
「……ふん。悪くない味だ」
ルークも、普段の厳しい騎士の顔を解き、パンを頬張っている。
エリシェヴァは上品にグラスを傾け、ライラとセレスティアは競い合うように肉にかぶりついていた。
「よかったね、セレスティア。いっぱいお食べ」
「はい! お父様!」
ヴィクラムもまた、娘の皿に料理を取り分けながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
その光景は、どこにでもある幸せな家族と、その友人たちの団欒そのものだった。
満腹になり、心地よい眠気が襲ってくる頃。
用意されたベッドは、羽毛が詰まっていて驚くほど柔らかかった。瓦礫の上で眠るのとは大違いだ。
「……ふわぁ。なんか、夢みたい」
清潔なシーツに潜り込み、ミツキが呟く。
「戦いが終わったんだね……本当に」
「ええ。……でも、まだ旅の途中よ。ゆっくりお休みなさい、ミツキ」
隣のベッドから、エリシェヴァの優しい声が返ってくる。
やがて、部屋には安らかな寝息だけが響き始めた。
窓の外には、砂漠の月が静かに輝いている。
明日からの旅路に、どんな運命が待っているのか。今はまだ、誰も知らない。
ただ今は、この温かい平和な夜に身を委ね、少女たちは深い眠りへと落ちていった。




