第二話 禁じられた記録
メーガナーダに導かれ、アスタロトは資料庫の最深部へと足を踏み入れた。
そこは、黄金と宝石で飾り立てられた玉座の間とは対照的な、冷徹なほどの静寂に満ちた空間だった。
壁一面に埋め込まれた黒曜石のパネルが、規則的な明滅を繰り返している。空中に浮遊するのは、紙の書物ではなく、魔力で記述された無数の光る石板。
膨大な情報の海を泳ぐ微かな駆動音だけが、ヒュン、ヒュンと耳を撫でる。
「……相変わらず、落ち着かない場所だ。まるで機械の腹の中にいるようだな」
アスタロトは不快げに眉を寄せながらも、その鋭い瞳で周囲を警戒していた。
ここにあるのは、魔界の歴史のみならず、天上界の機密さえもハッキングして集められた、禁断の知識の集積所だ。
「父の趣味ですので。……さて」
メーガナーダが部屋の中央に立つと、流れるような動作で虚空を指先で弾いた。
彼の眼鏡のレンズに、高速で流れる魔術文字が反射する。
ブォン……。
重苦しい低音と共に、二人の間の空間が歪み、巨大な立体映像が展開された。
映し出されたのは、人間界の地図。
その東の果て――広大な砂漠地帯の上空に、**毒々しい赤色の「歪み」**が、渦を巻いて表示されていた。
「これは……次元の裂け目か?」
アスタロトが問う。
「はい。そして、この裂け目の向こう側から……『あるモノ』が、今まさに人間界へと接近しつつあります」
メーガナーダが指を振ると、映像が拡大された。
赤い渦の中心から、滲み出るように浮かび上がってくる影。
それは、蜃気楼のように揺らめく、巨大な都市のシルエットだった。
「……都市? 馬鹿な、どこの都市だ。これほどの規模の街が、地図に載っていないはずがない」
「この世界には、存在しない
からです」
メーガナーダの声が、冷ややかに響いた。
「これはかつて、父ラーヴァナが愛し、そして奪われた都――『サントーン・カーシャヘル』。
魔界戦争時に、ある存在によって、この物理次元から切り離され、並行宇宙の彼方へと追放された、幻の都です」
「並行宇宙への追放……だと?」
アスタロトは息を呑んだ。
空間転移や異界送りとは訳が違う。可能性の分岐点そのものを剪定し、歴史から弾き出すなどという神業、魔王であっても容易ではない。
「一体、誰がそんなデタラメな真似を……」
「――コードネーム『逸脱点ベータ』」
メーガナーダが、その名を口にした瞬間。
ピクリ、と。
アスタロトの紫色の瞳が、大きく見開かれた。
「……ッ!?」
彼女の脳裏に、封印されていた古い記憶が閃く。
魔王たちの間でさえタブーとされ、天上神が歴史書から徹底的に削り取った、反逆者「イレギュラー」の名前。
「……逸脱点ベータ、だと。あの、天上神が創造した第二の超人……」
アスタロトの声に、初めて戦慄が混じった。
メーガナーダは無表情のまま頷き、再び現在の「接近率」を示す赤いグラフを表示させた。
「やはり、ご存知でしたか。……ええ、その『ベータ』です。
彼はかつて父と戦い、そして……とある理由から、かつて父の領土であったこの都市を次元の彼方へと飛ばし、封印しました。
……ですが、彼の封印は永遠ではありませんでした」
――"逸脱点ベータ"、かつて復讐に狂った魔王ラーヴァナを討伐したものの、天上神に反逆しサントンカーシャヘルの街を並行宇宙へと飛ばした結果、最後には天上神達に処刑されてしまったアダムスに次ぐ第二の超人の名前だ。
グラフの数値が跳ね上がる。
「飛ばされたはずの都市が、再びこちらの世界へ接近し、融合しようとしています。
もし都市が戻れば……中に封じ込められていた『天上神の呪い』までもが解き放たれ、人間界は終わりを迎えるでしょう」
「……だから、ラーヴァナは動いたのか」
「はい」
メーガナーダは、父の意志を代弁するように、冷徹に告げた。
「父の目的は、ただ一つ。
戻りつつあるサントンカーシャヘルを、次元の扉ごとこじ開け、引きずり出し……痕跡ごと、完全に消滅させること」
ホログラムの映像が、赤一色に染まる。それは、都市を焼き尽くす業火のシミュレーションだった。
「父は、ベータが遺した封印を解く『鍵』を見つけました。それが人間界にある以上、父はどうしても現地へ赴く必要があったのです」
「……待て、メーガナーダ」
アスタロトの瞳が鋭く光る。
「筋は通っている。だが、一つだけ腑に落ちんことがある。
なぜ、今迄隠していた? 並行宇宙からの都市の接近……それが事実なら、魔界全体を揺るがす大事件だ。なぜルシファー様に報告し、我ら魔王総出で対処しない?」
アスタロトの問いに、メーガナーダは眼鏡を押し上げ、淡々と答えた。
「……逆です、アスタロト様。
ルシファー様が、父に命じられたのです。『他言無用』と」
「なに……? あの引きこもりが、これを承知しているだと?」
「はい。かつて父がコキュートス(永久監獄)行きを免除された際、ルシファー様は一つの条件を提示されました。
『いずれ人間界に戻り来るサントーン・カーシャヘルを、秘密裏に、かつ確実に始末せよ』と」
メーガナーダは、空中に浮かぶ都市のホログラム――その中心で輝く、ある「光」を指差した。
「理由は明白です。あの都市には、天上神達の祝福『アムリタ』が満ちている。
もしこの事実が公になれば、どうなるか……想像に難くないでしょう」
アスタロトはハッとした。
「……なるほど。『不死』を欲する愚かな悪魔や、神にすら殺せぬ『完全なる不死』を求める野心的な魔王たちが群がるか」
「その通りです。都市を『破壊』するのではなく、『占領』してその力を利用しようとする輩が必ず現れる。そうなれば、魔界は内乱となり、天上神につけ込まれる隙となる」
メーガナーダの声が冷たく響く。
「だからこそ、ルシファー様は父を選んだのです。
あの都市を誰よりも愛し、故に誰よりも憎み……『アムリタ(不死)』という祝福を、決して利用せず、確実に灰にできる唯一の男である父を」
「……加えて、政治的な配慮か」
アスタロトが察して呟く。
「その通りです。宇宙の次元の壁を破る行為は、天上神との全面戦争を招きかねない。
もし失敗した際、魔界全体への波及を避けるため……ルシファー様は、あくまで『ラーヴァナ個人の暴走』として処理できるよう、公式な軍ではなく単独での破壊工作を命じたのです」
「フン……。相変わらず食えない王だ」
アスタロトは、複雑な表情で息を吐いた。
ルシファーの冷徹な計算。そして、それを「やる気満々」で引き受けたラーヴァナの狂気。
全てが噛み合って、この孤独な戦争が仕組まれていたのだ。
「……それに、もう一つ」
メーガナーダは、少しだけ声を潜めた。
「これは父の私情ですが……父は、この決着を誰にも邪魔されたくないのです。
――父の契約者様によるヴィクラムへの復讐も、都市の破壊も。……全ては我が『家族』の始末。
特に、契約者様とヴィクラムという男との因縁に、他者が土足で踏み入ることを、父のプライドが許さないのでしょう」
アスタロトは、かつての戦友の不器用で歪んだ生き様を思い浮かべ、呆れたように首を振った。
「……相変わらず、面倒な男だ」
彼女は再び踵を返した。今度こそ、迷いはなかった。
「だが、言ったはずだ。私の契約者を巻き込むなら、話は別だと。
――ルシファーの密命だろうが、ラーヴァナのプライドだろうが知ったことか。私は私の『戦争』をさせてもらう」
白いマントを翻し、戦の魔王は去っていく。
残されたメーガナーダは、静まり返った資料庫で一人、ホログラムの都市を見つめ、低く呟いた。
「……ええ。それで構いません、アスタロト様。
父もまた……貴女のような『好敵手』が舞台に上がることを、心のどこかで望んでいるのかもしれませんから」
電子の光が明滅し、来るべき最終決戦の予感を告げていた。




