第三十話 天使の去った街
瓦礫が撤去され、見通しの良くなった神殿前の広場に、カラート・シャムスの生き残った住民たちが集められていた。
彼らの視線の先、神殿の階段の最上段には、褐色の肌を持つ異国の軍神ムルガンと、その隣に立つ一人の女性――ロクサーナの姿があった。
ざわめきが広がる。
「あの女は、裏通りの薬師じゃないか?」
「なぜあんなところに?」
ムルガンが一歩前に出ると、広場は水を打ったように静まり返った。アダムスを退けた圧倒的な武威。それが、言葉なくして民衆を圧倒する。
「聞け、カラート・シャムスの民よ」
よく通る声が響く。
「教会は去った。ウリエルもカシムも、もういない。今日よりこの街は、我がアガスティア連邦国の保護下となる。
だが、俺はここには常駐できない。代わりに、この街の全権をある者に託す」
ムルガンはロクサーナを促した。
彼女は一瞬だけ躊躇いを見せたが、広場の隅で見守るミツキたち、そして胸元のパズズの印に勇気づけられ、毅然と前へ出た。
「……薬師のロクサーナよ」
彼女が名乗った、その瞬間だった。
「ふざけるな!」
静寂を切り裂くような怒号が飛んだ。
群衆の一部――白装束の残骸を纏った、ウリエルの熱心な信徒たちが、充血した目で叫び声を上げた。
「貴様ら異教徒が! よくもウリエル様を殺したな!」
「教会を追い出して、これからどうやって生きていけばいいんだ!」
「この人殺し! 悪魔!」
罵声は瞬く間に伝播し、不安を抱えていた市民たちも同調し始める。
「そうだ! カシム様もいない、教会もない、俺たちは見捨てられたんだ!」
「しかも、その女は疫病を撒いた魔女じゃないか!」
「出て行け! この街から出て行け!」
殺気立った男たちが石を握りしめ、今にも演台へ駆け上がろうとする。
暴動寸前。ミツキたちが武器に手をかけようとした、その時。
「……浅ましいわね」
冷徹な声が、熱狂した広場の空気を凍りつかせた。
ロクサーナだった。
彼女は飛んでくる石つぶてを避ける素振りすら見せず、杖を石畳に突き立てて群衆を睨みつけた。
「罵りたければ罵りなさい。……でも、その前に現実を見なさい」
彼女は杖で、広場にいる子供たちを指し示した。
「あなたたちが崇めていたウリエルの『太陽の儀式』。……あれは、その子供たちを『穢れ』と断じ、生きたまま焼き殺すための儀式だったのよ」
「嘘をつくな!」
信徒の一人が叫ぶ。
「ウリエル様は我らを救済するために……!」
「救済? 笑わせないで」
ロクサーナは鼻で笑い、残酷な事実を突きつけた。
「私の護符を持っていた子供たちは、確かに高熱にうなされ、苦しんだわ。……けれど、誰一人として死んではいないはずよ」
その言葉に、怒号が少しだけ淀む。
「私が配った護符には、魔王パズズ様の『守護』が込められていた。それは、いかなる害意も、神の炎すらも跳ね返す『無敵』の加護。
あの子たちが苦しんでいた高熱……それは病気じゃない。幼い体が、焼き殺そうとする神の炎を拒絶し、強大すぎる加護の熱量に耐えようとした、その代償(副作用)に過ぎないわ」
広場に、重苦しい沈黙が落ちた。
ロクサーナは、信徒たちの目を真っ直ぐに見据えて告げた。
「あなたたちが縋った神は、子供を灰にしようとした。……私が契約した悪魔は、病を与えてでも命を繋ぎ止めた。
――さあ、答えなさい。あなたたちにとっての『救い』は、どちらだったの?」
誰も、答えられなかった。
怒りに震えていた信徒の手から、石が転がり落ちる。
群衆の中にいた母親の一人が、はっとした顔で自分の子供を抱きしめた。
「……そういえば。あの日、火刑台に連れて行かれそうになったあの子が……兵士の手を弾き返した……?」
「神官様が『火が通じない、穢れが強すぎる』と気味悪がって、神殿の奥の牢に放り込んだんだ……。まさか、守られていたのか……?」
パズズの疫病が、単なる病気ではなく、物理的に死を遠ざける「最強の鎧」だった事実。
それを理解した瞬間、人々の怒りは行き場を失い、代わりに深い葛藤と、認めざるを得ない現実感が広がっていく。
神は殺そうとし、悪魔が守った。
その事実が、狂信者たちの信仰を根底からへし折ったのだ。
「……なんてことだ。俺たちは、守られていたのか……」
誰かの呟きが、波紋のように広がった。
感謝するには苦しすぎた。だが、憎むには結果が救いすぎた。
その複雑な感情を受け止めながら、ロクサーナは声を張り上げた。
「そして――今、その脅威は去ったわ!」
彼女は、広場の隅にいるミツキたちの方へ手を差し伸べた。
「智天使ウリエルは討ち取られ、教皇アダムス率いる教会軍は、この街から完全に撤退した。
……それを成し遂げたのは、私ではない。そこにいる、旅の魔女たちよ!」
一瞬の静寂。
そして――爆発のような歓声が巻き起こった。
「おおおおおおっ!!」
「あんたたちがやってくれたのか!」
人々がミツキたちに駆け寄る。
薄汚れた服を着た老婆が、エリシェヴァの手を取って涙を流す。
若い男たちが、ルークの肩を叩いて称賛する。
「ありがとう! ありがとう!」
「魔女様万歳! 解放者様万歳!」
それは、これまで「異端」「穢れ」として石を投げられてきた彼女たちが、初めて浴びる「祝福」の声だった。
「え、えへへ……そんな、大げさだよ」
ミツキは照れくさそうに頭を掻くが、その表情は晴れやかだ。
ルークも「……ふん、悪くない気分だな」と口元を緩め、エリシェヴァは感極まって涙ぐんでいる。
ライラは、誇らしげに胸を張った。
その光景を見届けたロクサーナは、静かに頷くと、再び民衆に向き直った。
「……私は清廉潔白な聖女じゃない。目的のためなら毒も使う『魔女』よ」
彼女はムルガンから託された短剣を、静かに胸元へ引き寄せた。
「あなたたちに許しは請わない。けれど、約束するわ。これからは、毒ではなく盾として、この命に代えてもこの街を守り抜く。
――彼女たちが取り戻してくれたこの自由を、二度と教会になど奪わせないために!」
力強い宣言。
今度は、迷いのない拍手が広場を包み込んだ。
かつて絶望し、治癒を捨てた魔女が、英雄たちの後押しを受け、今度は指導者として街を守るために立ち上がる。
こうして、カラート・シャムスは教会の支配を脱し、新たな時代へと歩み出したのだった。
――――
ロクサーナの力強い宣言に、広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれていた。
恐怖の夜は去り、新たな指導者が立った。人々が互いに抱き合い、未来への希望を語り始めた、その時だった。
バリバリバリッ……!!
突如、広場の上空の空間が、ガラスが割れるような甲高い悲鳴を上げた。
雲ひとつない青空に、どす黒い亀裂が走り、そこから底知れぬ深淵の冷気が溢れ出す。
「な、なんだ!?」
「また敵か!?」
民衆の歓声が悲鳴に変わる。ミツキたちも反射的に武器を構えた。
亀裂が広がり、そこから「何か」が舞い降りてくる。
漆黒の翼。禍々しい魔力。それは間違いなく、上位の悪魔――
「……はぁーあ。また休日出勤ですか。そうですか」
――そんな、やる気のないぼやきと共に降り立ったのは、一人の少年だった。
トッサカンと同じくらいの年格好。
漆黒の燕尾服をピシッと着こなし、白手袋をはめているが、その背中の黒い翼は疲れ切ったように垂れ下がっている。
何より特徴的なのは、整った顔立ちの下に刻まれた、深くて濃い**「目の下のクマ」**だった。
「げっ……メフィスト!?」
トッサカンが、嫌そうな顔で叫ぶ。
少年――メフィスト・フェレスは、死んだ魚のような目でトッサカンを一瞥し、深々とため息をついた。
「……奇遇ですね、トッサカン。お前がのんきに人間界で遊んでいる間、こっちはラマシュトゥ様の始末書作成と、各方面への謝罪回りで徹夜続きですよ。……代わってくれます?」
「い、いやだよ! 君はルシファー様の直属だろ!?」
「ええ、直属ですとも。名誉ある『使い魔』ですよ。……24時間365日、呼び出しがあれば即対応。『魔界に労働基準法はないのか』と訴えたら、『我こそが法だ』と一笑に付されましたがね……!」
メフィストはギリギリと歯ぎしりをし、虚空に向かって毒づいた。
「あの引きこもり魔王め……! 自分は玉座でワイン片手に高みの見物で、面倒事は全部僕に丸投げ……! 『子供を返す感動的なシーンだから、お前行ってこい』じゃないんですよ! こっちは有給消化中だったのに!」
「あ、あの……?」
あまりの剣幕に、ミツキが恐る恐る声をかける。
メフィストはハッとして、瞬時に「営業用スマイル」を貼り付けた。
「おっと、失礼しました。人間のお客様の前でしたね」
彼は優雅に一礼する。その所作は完璧だが、目の奥は笑っていない。
「初めまして。私は魔王ルシファー様の忠実なる使い魔、メフィスト・フェレスと申します」
彼はパチンと指を鳴らした。
すると、背後の亀裂から、光の泡に包まれた子供たちがふわりと降りてきた。
ラマシュトゥに攫われていた、街の子供たちだ。
「……っ! ああ、あの子は……!」
「坊や!」
広場にいた親たちが、狂ったように駆け寄る。子供たちは目を覚まし、親の顔を見ると、わっと泣き出して抱きついた。
「主の命により、ラマシュトゥ様が拉致した子供たちを返還いたします。……あの方の不手際により、皆様には多大なるご迷惑と、僕への残業をおかけしました」
メフィストは淡々と事務的に告げる。
「ラマシュトゥ様の身柄は、我々が管理します。……ああ、その後の監査と報告書作成も僕がやるんですけどね。ははは、死にたい」
メフィストは涙を拭う仕草をした後、ふと表情を引き締めた。
その瞳が、ミツキを射抜く。
そこには、先ほどまでのコミカルな色はなく、深淵を覗くような冷徹な光が宿っていた。
「……さて。『翁の巫女』殿」
「えっ……あたし?」
メフィストは、ミツキの足元へ音もなく歩み寄ると、耳元でだけ聞こえる声で囁いた。
「……我が主は、貴女を見ておられますよ」
「……!」
「翁の描く筋書きと、天上神の描く秩序。……貴女がどちらを壊し、どちらを選ぶのか。あるいは――」
メフィストは口元を吊り上げ、意味深に言葉を濁した。
「……まあ、せいぜい足掻いてください。貴女が世界をひっくり返してくれれば、僕のブラックな労働環境も少しは変わるかもしれませんからね」
彼はパッと身を離すと、再び疲れ切った社畜の顔に戻った。
「では、僕はこれで。……はぁ、帰ったら次はアスタロト様の報告書か……。休みが欲しい……」
重い足取りで空間の裂け目に戻っていくメフィスト。
彼が消えると同時に亀裂は閉じ、空には抜けるような青空と、太陽だけが残された。
「……変な人、だったね」
ライラがポカンと呟く。
ミツキは、彼が最後に残した言葉の冷たさを反芻しながらも、戻ってきた子供たちを見て、小さく笑った。
「うん。でも……約束通り、みんな帰ってきた」
子供たちの帰還。
それは、ムルガンとロクサーナの新体制にとって、これ以上ない祝福のしるしとなった。




