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第二十八話 戦いの後


……ポチョン、と。

 水滴が落ちるような音がした。

 重たいまぶたを押し上げると、ぼやけた視界に映ったのは、見慣れない石造りの天井と、揺らめく松明たいまつの明かりだった。

 鼻をくすぐるのは、甘い花の香りではなく、ツンとする薬草の匂い。

 

「……あ」

 

 喉が渇ききっていて、掠れた声しか出ない。

 けれど、その微かな音に反応して、周囲の空気が一変した。

 

「ミツキ!?」

 

「気がついたのね!」

 

 視界がクリアになる。

 ベッドを取り囲むように、心配そうな顔が並んでいた。

 包帯だらけのルーク、疲れ切った顔のロクサーナ、涙を拭うライラ、目を赤くしたセレスティア、そしてエリシェヴァ、ヴィクラムとムルガン。

 

 全員、生きている。

 

 誰一人として、「灰」にはなっていない。

 

「……よかった……」

 

 ミツキは安堵のため息を漏らすと同時に、ズキリと胸が痛んだ。

 記憶が鮮明に蘇る。

 自分は、この大切な仲間たちを「壊れた人形」と誤認し、殺そうとしたのだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 ミツキはシーツを強く握りしめ、震える声で謝罪した。

 

「私……みんなのこと、殺そうとした。……酷いこと、たくさん言った……」

 

 彼女の脳裏には、カシムを惨殺し、ウリエルを嬲り殺しにした時の高揚感と、仲間へ死の手を向けた時の無邪気な殺意が、べっとりと張り付いている。

 沈黙が落ちた。

 だが、それは拒絶の沈黙ではなかった。

 

「……正直、恐怖したよ」

 

 口を開いたのはルークだった。

 彼女はベッドの脇に座り込み、自身の包帯が巻かれた腕をさすった。

 

「あんな君は、見たことがなかった。……まるで、この世界の全てを憎悪しているような、底知れない絶望を感じたんだ」

 

 ルークは、真剣な眼差しでミツキを見据える。

 

「教えてくれないか、ミツキ。……君は一体、何と戦っていたんだ? ウリエルじゃない。君が見ていたのは、もっと別の『何か』だったはずだ」

 

 その言葉に、ミツキは息を飲む。

 逃げられない。

 もう、隠してはいけない。

 

「……聞いて、くれる?」

 

 ミツキはポツリと呟いた。

 

「私の……最低で、真っ暗な、過去の話」

 

 仲間たちが、無言で頷く。

 ミツキは深呼吸をして、語り始めた。

 異世界に来る前のこと。

 完璧な人形であることを強要した、毒のような母親のこと。

 事なかれ主義で、助けを求めても無視し続けた父親のこと。

 そして――唯一の光だった親友、ヒナタのこと。

 

「……お母さんが、勝手にヒナタとの仲を引き裂いたの。私が会いに行こうとして……そのせいで、ヒナタは事故に遭った」

 

 雨の日の記憶。

 トラックのヘッドライト。肉塊になった親友。

 話しているだけで、吐き気が込み上げてくる。

 

「ヒナタのお葬式でね、お母さんは笑って言ったの。『清々した。神様が処分してくれたのね』って」

 

「ッ……!?」

 

 ロクサーナが息を飲み、口元を押さえる。

 ライラは信じられないといった様子で眉を寄せ、拳を握りしめた。

 

 セレスティアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

 

「その時、私の中で何かが壊れちゃった。……こんな世界、なくなればいい。こんな人間たちが生きているなら、世界ごと燃やし尽くしてやるって」

 

 ミツキは自分の両手を見つめる。

 あの日、スマホを投げ捨て、自らフェンスを越えた手。

 

「だから私、死んだの。……自殺して、この世界に拾われた」

 

 そこまで話して、ミツキは顔を上げた。

 瞳には涙が溜まっているが、その光は強い。

 

「『狂気の権能』が見せた景色は……死体と灰でできた火葬場だった。でも私には、そこが現実世界よりもずっと温かくて、清浄に見えたの。……だから、みんなのことも『あっち側』に連れて行ってあげようとした」

 

 それが、暴走の正体。

 悪意ではなく、歪みきった善意と、救済への渇望。

 

「……ごめんなさい。私、やっぱり壊れてる。……みんなと一緒にいる資格なんて、ないかもしれない」

 

 ミツキは俯き、処断を待つ囚人のように身体を縮こまらせた。

 化け物だと罵られても仕方がない。出て行けと言われても文句は言えない。

 けれど。

 

「……全く。大馬鹿者だね、君は」

 

 トン、と。

 

 頭に軽い衝撃が走った。

 顔を上げると、ルークが泣きそうな、怒ったような顔で、ミツキの頭に拳を乗せていた。

 

「資格がないなどと、勝手に決めつけないでくれないか。……そんな重いものを、一人で抱え込んでいたのかい?」

 

「ルーク……」

 

「壊れているなら、直せばいい。……いや、直らなくたって構わないさ。僕たちが支える。君がまた向こう側に行きそうになったら、何度だって僕たちが連れ戻してあげるよ」

 

 ルークの手が、拳から「撫でる」動作に変わる。不器用だが、温かく、力強い手。

 

「……辛かったわね、ミツキちゃん」

 

 ロクサーナが、ミツキの手を包み込むように握った。

 

「あなたのその怒りも、悲しみも……全部、人間として当たり前のものよ。あなたは化け物なんかじゃない」

 

「そうだよ、ミツキ!」

 

 エリシェヴァとライラが身を乗り出し、真っ直ぐな瞳でミツキを見つめる。

 

「あなたが今まで私たちを助けてくれたこと、全部嘘じゃないでしょ!? 過去がどうだろうと、あんたは私たちの最高の仲間だよ!」

 

「そうです……! ミツキさんは、こんなにも優しいんですから……!」

 

 セレスティアがミツキに抱きつき、子供のように泣きじゃくる。

 エリシェヴァも、ヴィクラムも、温かい眼差しで彼女を見守っていた。

 誰も、拒絶しなかった。

 彼女の凄惨な過去も、自殺という罪も、狂気さえも。すべてを知った上で、「仲間」として受け入れてくれた。

 

「あ……ぅ……」

 

 ミツキの目から、せきを切ったように涙が溢れ出した。

 先ほどの精神世界での涙とは違う。

 これは、現世ここにいてもいいのだと許された、生の喜びの涙。

 

「う、わぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 ミツキはセレスティアの背中に回した手に力を込め、声を上げて泣いた。

 迷宮の治療室に、少女の泣き声と、それを慰める仲間たちの優しい声が、いつまでも響いていた。

 それを、部屋の隅で腕組みをして見ていたムルガンが、ふっと口元を緩める。

 

「……やれやれ。父上の見込んだ巫女は、思いのほか愛されているようだ」

 

 彼は静かに部屋を出て行った。

 その背中は、どこか満足げだった。



 ――――



 一方その頃。

 地上ではムルガンたちが撤収作業に追われていたが、トッサカンが作りだした別の迷宮では、もう一つの会話が交わされていた。

 重厚な扉が音もなく開く。

 そこは、時が止まったかのような静寂に包まれた「玉座の間」だった。

 

「――報告いたします、我が主よ」

 

 闇の中から現れたのは、迷宮の管理者であるトッサカンだった。

 彼は玉座に深々と腰掛ける影に向かい、恭しく膝をつく。

 

「地上の騒乱は鎮火いたしました。……智天使ウリエルは、消滅。実行者は、翁の巫女――ミツキです」

 

「あら?」

 

 闇の奥から、鈴を転がすような、しかし聞く者の背筋を凍らせる妖艶な声が響いた。

 トッサカンの主、ディーヴァ・ヒムノールム。

 

 

「あの羽虫が、人間ごときに後れを取ったの? ……ウフフ、傑作だわ」

 

 ディーヴァが愉快そうに喉を鳴らす。

 長い爪で玉座の肘掛けを叩く音が、広間にコツコツと響く。

 

「『狂気』に飲まれた……ね。あの翁の力は、諸刃の剣だものね。使いこなせば神をも殺すが、一歩間違えば己が壊れるわ」

 

「はい。ミツキの精神も限界のようでしたが……今はムルガン様が保護しております」

 

「フン。あやつも父の命とは言え、過保護なことね」

 

 ディーヴァは鼻を鳴らすと、ふと視線を虚空――天井の遥か彼方にある「空」へと向けた。

 その瞳に、ふと、魔王らしからぬ憂いの色が混じる。

 

「……しかし、困った子ね」

 

「は?」

 

「空よ。ウリエルがいなくなったというのに、いつまでこのジメジメとした『夜』を続けているのかしら」

 

 カラート・シャムスの上空は、未だに星々が縫い付けられたような静止した夜に閉ざされている。

 それは神の結界などではない。一人の少女――セレスティアの「太陽なんて昇らなければいい」という悲痛な祈りが、世界の理そのものを縛り付けているのだ。

 

「これでは、景観が台無しじゃない。……まったく、世話が焼ける子ね」

 

 ディーヴァは億劫そうに立ち上がると、無造作に右手を掲げた。

 その仕草の端々に、かつて娘を愛したアマラの記憶が、無意識に滲み出ている。

 

「ねえ、セレスティア。聞こえているかしら?」

 

 誰もいない虚空に向かって、彼女は駄々をこねる子供を叱るように、けれどどこか慈しむように呟く。

 

「いつまでお布団を被って泣いているつもり? あなたが『朝なんて来なければいい』と願っているから、世界中が迷惑しているのよ。……本当に、頑固なところは"彼女"に似たのかしらね」

 

 それは、皮肉だった。

 強大な力を持ちながら、それを制御できずに世界を閉ざしてしまった娘への呆れ。

 そして――娘がこれ以上、自分自身の力に怯えなくて済むようにという、隠しきれない母性。

 

「まあいいわ。……夜更かしは肌に悪いのよ?」

 

 パチン。

 ディーヴァが、軽く指を鳴らした。

 ただそれだけ。

 詠唱も、魔法陣も、魔力の高まりさえもなかった。

 ただ、母親が子供部屋のカーテンを開けるような、何気ない動作。

 

 ――ズオオオオオオオオオッ!!

 

 瞬間、世界が震えた。

 地下深くにいるはずのトッサカンでさえ、鼓膜が破れそうなほどの大気の悲鳴を感じた。

 遥か上空。

 セレスティアの祈りによって「停止」していた天体の運行が、ディーヴァの介入によって強制的に「再生」されたのだ。

 

 凍りついていた時間が溶け、夜の帳が物理的に引き剥がされていく。

 

「……ふむ。これで少しはマシになったかしら」

 

 ディーヴァがつまらなそうに玉座へ戻る。その口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。

 

――――――

 

 地上。

 神殿の瓦礫から這い出してきた人々や、街の住人たちが、呆然と空を見上げていた。

 長く、苦しい静止した夜が裂けていく。

 東の空が白み、雲の切れ間から差し込んだのは、黄金色の光。

 

「あ……あぁ……!」

 

「お天道様だ……! 夜が、明けたぞ……!」

 

 東の空から、本物の太陽が昇ってくる。

 それは、ウリエルが作り出した冷たい擬似太陽とは違う、肌を焦がすような熱と生命力に満ちた、砂漠の太陽だった。

 朝が来たのだ。

 

 カシムによる恐怖政治と、魔女狩りの悪夢が終わり、そして少女の長い夜泣きが終わったことを告げる、新しい朝が。

 

 地上に黄金の朝日が降り注ぐのを、ディーヴァは玉座から満足げに見下ろしていた。

 愛しいあの子のために、世界を閉ざしていた夜を終わらせた。

 ――それは母としての、ささやかな贈り物だったはずだ。

 だが、その安堵は一瞬で崩れ去った。

 

「……っ、がぁ……ッ!?」

 

 ドクン、と心臓が早鐘を打ち、ディーヴァは胸を押さえて玉座から崩れ落ちた。

 視界が明滅し、脂汗が噴き出す。

 魔力の使いすぎではない。身体の内側――この肉体の持ち主である"彼女"の魂が、激しく暴れ出したのだ。

 

「主!? いかがなされました!」

 

 トッサカンが血相を変えて駆け寄る。

 ディーヴァは荒い息を吐きながら、自身の胸を爪が食い込むほど強く鷲掴みにした。

 

「……うるさい……。静まりなさい……。そんなに……そんなに『あいつ』が憎いのっ……!」

 

 セレスティアの気配を感じたことで、同時に思い出してしまったのだ。

 

 ――ヴィクラム。

 

 今、地上で娘の隣に立ち、あろうことか「良き父親」のような顔をして笑っているであろう、あの男への憎悪が、彼女の肉体を内側から焼き尽くそうとしていた。

 

「ハァ……ハァ……。まったく、本当に仕方のない契約者だわ……」

 

 ディーヴァは自嘲気味に笑い、よろめきながら身体を起こした。

 

 その瞳から、先ほどまでの母親のような慈愛は消え失せている。

 代わりに宿っていたのは、底知れぬ殺意と、全てを蹂躙する魔王の覇気。

 

「……トッサカン」

 

 呼ばれた声の低さに、トッサカンは背筋を震わせた。そこにいるのは、優雅な貴婦人ではない。


  ――かつて世界を敵に回して暴れまわった、荒々しい「文明の魔王」そのものだった。

 

「は、はい……!」

 

「準備をしろ。遊びは終わりだ」

 

 ディーヴァ――いや、魔王ラーヴァナは、乱れた髪を乱暴にかき上げると、獰猛に口の端を吊り上げた。

 

「あの男、ヴィクラムが生きて娘の側にいること自体が、この身体(彼女)にとっての猛毒らしい。……なら、解毒剤が必要だろう?」

 

 ラーヴァナは、遥か彼方にある街――かつての因縁の地であり、ヴィクラムたちが向かうであろう場所を睨み据えた。

 

「サントーン・カーシャヘル。あの忌々しい街ごと、ヴィクラムの野郎を消し炭にしてやる」

 

 その口調は、もはや貴婦人のものではなかった。

 地の底から響くような、荒っぽく、ドスの効いた魔王の地声。

 

「おい、トッサカン。ボーっとしてんじゃねぇぞ」

 

「ひっ、は、はいっ!」

 

「この身体の大事な『娘』を誑かすクソ親父と、俺をコケにした教会共だ。……徹底的にやるぞ」

 

 ラーヴァナは玉座の肘掛けを握りつぶし、凶悪な笑みと共に立ち上がった。


 「久し振りの戦争だ。派手に暴れてやるよ」

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